第Ⅱ章 第5話:『シャルルがつなぐ、響き合うための電荷』【電磁気学/クーロンの法則】
第Ⅱ章:響き合う電荷、まじりあう熱量
「はい、ここテストに出るよ。……って、聞いてる?」 向かいの席で、大学院生の「先生」がノートをトントンと叩いた。彼は私が大学の講義についていくために雇った、家庭教師のような存在だ。 先生がシャープペンシルで書いたのは、不格好な数式だった。
「クーロンの法則。電荷を持つ二つの粒子の間に働く力のこと。電荷の大きさに比例して、距離の二乗に反比例する。つまりね、引き合う力も反発する力も、近づけば近づくほど爆発的に大きくなるんだ」
「でんか……?」 私は完全に白旗を上げていた。電気の粒だと言われても、目に見えない。 近づくと力が強くなる? まったくピンとこなかった。私にとって電気とは、スマホを充電するためのものであって、それ以上でも以下でもない。
「まぁ、文系の君にはまだイメージしづらいか。そのうち嫌でも理解するときがくるよ」 先生は苦笑しながらコーヒーをすすった。私はノートの無機質な数式を眺めながら、こんな目に見えない数式が私の人生に交わることなんて、きっと一生ないのだろうと気楽に考えていた。
◇近すぎるチェロ、歪む和音
六月のキャンパスは、眩しい初夏の光に満ちていた。サークル棟の古びた廊下を歩きながら、私は胸の奥でチェロのケースを抱きしめるようにして歩いていた。私はこの春、大学に入学したばかりの一年生。
小学校高学年の頃、一回り小さな「分数チェロ」を手にしたのが私の原点だった。成長に合わせて楽器は大きくなっていったけれど、私の身体は、いつまでも子供のまま置いてきぼりにされたようだった。
中学生、高校生になっても、周りの女子のような女性らしい身体の変化が訪れない。それがずっと、私の密かな、そして巨大な不安だった。ふくよかになっていく同級生たちを横目に、私は自分の平坦な胸や細すぎる手足に引け目を感じていた。そして周囲の男子たちもまた、私を女の子として扱わないどころか、まるで目に見えない斥力でもあるかのように、私を避けて遠巻きにした。
彼らの視線や、私と彼らの間に流れる冷ややかな空気を感じるたび、私は心を閉ざしていった。いつしか私も、男の人が多い空間を自ら避けるようになっていた。彼らが怖いわけではない。ただ、彼らの前に立つと、自分の「欠落」を突きつけられるようで、息が詰まるのだ。
この大学の圧倒的な男性比率に怯え、逃げ込むようにして見つけたのが、女子だけで崖っぷちの歴史を繋いできたという、この小さな「弦楽同好会」だった。
「沙耶ちゃん、そこのフレーズ、チェロの弓をもう少し大きく使ってみて!」部室のドアを開けると、四年生の美咲先輩が、満面の笑顔で私を迎えてくれた。美咲先輩は、この同好会を四年間守り続けてきたチェロの絶対的な大黒柱だ。私と同じ楽器なのに、その音色はどこまでも深く、温かい。何より、先輩のゆったりとした、女性らしい豊かな佇まいから生み出される音の説得力に、私は一目で魅了されてしまった。
先輩の隣で弾けることが、嬉しくてたまらなかった。けれど、先輩との距離が近づけば近づくほど、私の胸の奥には、名前のつかない焦りと息苦しさが膨らんでいった。
(私は、美咲先輩みたいに堂々と弾けない。先輩の足を引っ張っているんじゃないか……)
先輩が優しくしてくれればしてくれるほど、自分の未熟さが、そして子供のままの自分の身体や心が浮き彫りになるようで、胸がぎゅっと締め付けられる。大好きだからこそ、近づきすぎて、自分の歪んだ劣等感が爆発しそうになる。
そんなある日の放課後。部室の片隅のパイプ椅子に、サークルに入っていない、同じ一年生の彼女が座っていた。彼女は文系の友達で、私が講義で孤立しないようにいつも気にかけてくれる、大切な存在だ。最近の彼女は、なぜかこの部室に毎日のように入り浸り、私と交流を持っていた。
先輩たちが楽譜の確認で席を外したとき、私は彼女の隣に腰掛け、手元に置いた水筒を握りしめながら、ぽつりぽつりと胸の奥の澱を吐き出した。
小学校からチェロを弾いているのに、ちっとも大人になれないこと。男子たちとの間にあったあの息苦しい斥力が、いまは美咲先輩との間で、別の歪んだ焦りになって私を苦しめていること。先輩のことが大好きなのに、隣にいると自分が惨めで、どうしようもなく苦しくなってしまうこと。私の話をじっと聞いていた彼女は、私の肩を優しく叩いて励ましてくれた。
「沙耶がそんなに悩むのは、美咲先輩のことが本当に大好きだからだよ。でもね、無理に先輩と全く同じになろうとしなくていいんだよ。人間関係にも、お互いの音が一番綺麗に響き合う、ちょうどいい距離があるはずだから。沙耶は分数チェロから、一歩ずつ自分の身体に合わせて楽器を大きくしてきたんでしょう? だったら、その『ちょうどいい距離』も、沙耶なりのペースで探していけばいいんだよ」
彼女の言葉を聞いたとき、私の視界を覆っていた霧が少し晴れたような気がした。私は一人で勝手に焦って、美咲先輩の背中に近づきすぎて、自滅しそうになっていただけだったのだ。大人びた身体も、大きな音も、無理に今すぐ手に入れなくていい。
次の日の新歓演奏。初夏の眩しい光が差し込むキャンパスの通りに、私たち十人のアンサンブルが並んだ。人混みの向こうには、応援に駆けつけてくれた彼女の姿も見える。
「みんな、最高の音を響かせよう。私のチェロで、みんなの音をしっかり支えるから」
美咲先輩が満面の笑顔で言い、同期の先輩たちが「もちろん!」と声を揃えて笑う。私は先輩の少し斜め後ろ――お互いの弓がぶつからない、けれど一番心地よく音が重なる「ちょうどいい距離」にチェロを構えた。あの、男子たちとの間に感じていた拒絶の斥力ではない。お互いを生かし合うための、美しい距離感。
美咲先輩の太く温かい低音が響き始める。私はそこに、自分のありったけの音を、恐れずに重ねていった。私の少し硬くて、だけど真っ直ぐな音が、先輩の豊かな音と混ざり合っていく。十人の和音が、初夏の空へとまっすぐに吸い込まれていく。もう、怯える必要はなかった。私には、この大好きな仲間たちと、私だけの、大切な居場所があるのだから。
◇
「──っていうことがあってね。初めて部室で出会ったときはまだ距離があったのに、隣に座るくらい近づいちゃったから……お互いへの感情が、もう爆発しそうなくらい強く引き合って、苦しくなっちゃったみたいで。……あ」
そこまで一気に喋って、私はノートの無機質な数式に目を落とした。ドクン、と胸が跳ねる。
「……待って。近づけば近づくほど、爆発的に大きくなる。これ、前に先生が言ってた『クーロンの法則』そのものじゃない?」 私が目を見開いてノートを指差すと、先生はコーヒーカップを持つ手を止め、ひどく嬉しそうに目を細めた。
「ほらね、言っただろう。そのうち理解できるって。距離が縮まるほど、働く力は二乗のスピードで大きくなるんだ」
「そっか……二人の想いが強かったからこそ、至近距離で大爆発しちゃったんだね」
「うん。でも物理の粒は完全に重なって一つになっちゃうけれど、人間がそうなると自分を見失って、相手のコピーになってしまう。だから二人は、自分という音を消さないための、美しい距離を心で見つけたんだね」
「じゃあ……もし近づきすぎて、お互いの嫌なところが見えちゃったら?」
「その時は、プラスとプラスになって激しく反発するかもね。距離の二乗でね」 先生は悪戯っぽく微笑んで、冷めかけたコーヒーをすすった。
カフェの窓の外、東京の街を歩くたくさんの人々が見える。あの中で交差する誰もが、目に見えない引力や斥力を抱えながら、絶妙な距離を探して生きている。ただの記号だと思っていた数式が、急に鮮やかな体温を持って、世界を説明し始めたような気がした。
耳の奥で、まだあの十人のチェロの和音が鳴り響いている。 私はノートの数式をそっとなぞった。 明日また、あの賑やかな部室へ行こう。私と彼女たちの距離が、二乗のスピードで優しく縮まっていくのを、心地よく感じながら。




