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世界は数式で抱きしめられている  作者: 海内裏


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第Ⅱ章 第4話:『私たちのエントロピーが満ちるまで』【熱力学/エントロピー増大】

第Ⅱ章:響き合う電荷、まじりあう熱量

大学のキャンパスは、私にとって未知の記号で満ちた異世界だった。文学部の講義は何とかこなせても、必修の一般教養で選んでしまった「現代物理学の基礎」だけは、完全に五里霧中。

「……というわけで、熱力学の第一法則はエネルギーの保存を意味しているんだ。熱も、形を変えたエネルギーの一種に過ぎない」

駅前のカフェ。頼りない私の個別家庭教師である「先生」――理学部の大学院生――は、ノートに数式を書きながら熱弁を振るっていた。

「エネルギーの総量は変わらない。増えもしないし、消えもしない」「先生、日本語でお願いします」

私は突っ伏した。アイスマキアートの氷がカチリと音を立てて溶ける。

「十分日本語だよ。じゃあ、第二法則にいこう。エントロピー増大の法則とも言う。熱は必ず、高い方から低い方にしか流れない。そして、自然界のすべてのものは、放っておくと秩序ある状態から、無秩序な状態に向かうんだ。これをエントロピーが増える、と言う」「エントロピー?」「簡単に言えば『乱雑さ』の度合いだね。部屋を片付けないと、どんどん散らかっていくのと同じだよ」「あ、それは分かります。私の部屋、今まさにエントロピーの塊です」「それは単なるズボラだね」

先生は苦笑いして、ペンを置いた。数式と図形が並ぶノートを見ても、私の頭にはさっぱり響いてこなかった。熱がエネルギーだとか、無秩序に向かうだとか、それが一体私の人生と何の関係があるのだろう。


◇冷たい指と、熱い背中

大学のキャンパスで出会ったあの女子大生――「彼女」は、文系らしく熱力学なんて言葉に拒減反応を示していたけれど、私にとっては救いであり、同時に呪いでもある言葉だった。実家が地元の小さな薬局だったから、物心ついたときからフラスコや錠剤の匂いに囲まれて育った。

私は理科の実験が大好きだった。異なる透明な液体を混ぜると、一瞬で鮮やかな青に変わる。そこには明確なルールがあり、原因と結果があった。世界はすべて、正しい法則で制御されているのだと信じていた。あの日、中学の教室で年の離れた妹の訃報を聞くまでは。

突然の病気だった。薬局の娘でありながら、私には妹の体に起きていた異変を止める術など何一つなかった。悲しみよりも先に、激しい理不尽が私を襲った。世界がそんなにも無秩序で不条理な場所なら、私がこの手で、正しい秩序の側へ引き戻してみせる。

「私は医者になる」

葬儀の夜、父の調剤室にこもり、分厚い医学書を開きながらそう誓った。それからの私は、何かに憑りつかれたように勉強に没頭した。睡眠時間を削り、高校生になった今も私の持つ全エネルギーを、医学部受験という単一の目的に向かって注ぎ込んでいる。

けれど、私の内側から吹き出す熱量が大きくなればなるほど、双子の弟であるゆうりは、急速に光を失い、冷えていった。

妹の死を境に、ゆうりは精神の均衡を崩した。部屋に引きこもり、食事もまともに摂らなくなった。私が焦燥感からノートに向かってペンを走らせている間、ゆうりはただ、暗い部屋で天井を見つめていた。私は、自分の熱をゆうりに分ける方法を知らなかった。

ドサッ、という鈍い音が庭から響いたのは、高校に進学してすぐの、あの最悪の朝だった。窓から飛び降りたゆうりは、一命を取り留めたものの、右足の骨に修復不可能な傷を負った。病室のベッドで、一生消えない痛みに横たわるゆうりを見て、私は気づいてしまった。

私が「生」という秩序に向かって盲目的にエネルギーを燃やせば燃やすほど、私たちの家庭というシステム全体は、ゆうりの絶望という名の「無秩序エントロピー」を増大させていたのだ。

その週末から、私はゆうりの手を引いて、大学生たちが主催するボランティア活動に参加するようになった。

「こんにちは! 高校生のまやです! 今日はよろしくお願いします!」

私はわざと大きな声を出し、満面の笑みを作って部屋に入っていった。私が動くことで、淀んだ空気を一気に沸き立たせたかった。周囲の大学生たちは「元気な高校生が来た」と好意的に迎え入れてくれたけれど、私の隣に立つゆうりは相変わらず冷めた目を床に向けていた。

ゆうりは部屋の隅のパイプ椅子に腰掛け、すぐに持参した本を開いて自分の世界に閉じこもる。感情を一切表に出さず、私がどれだけ周囲を巻き込んで騒いでみせても、彼だけは絶対零度の空間に取り残されたように静かだった。

周りから見れば、私たちは「全く正反対の空気をまとった、不思議といつも一緒にいる双子」に映っていただろう。でも、私には分かっていた。私が無理にでもエネルギーの塊のように振る舞い、周囲を巻き込んで動き回らなければ、二人きりの空間はすぐにゆうりの冷たさに侵食されてしまう。私はただ、これ以上私たちの世界が壊れていかないよう、必死に熱を放出し続けているだけだった。

「まやはさ、動きすぎんだよ。少しは僕にその元気を分けてよ」「えー! ゆうりが静かすぎるんだってば! ほら、もっとシャキッとして!」

ボランティアの現場で、私はいつものように無理に声を張り上げ、ゆうりの背中をバシバシと叩いた。歩くときに少しだけ右足を引きずり、カチ、カチ、と歪な音を響かせる弟。彼を連れて歩くたび、私の胸は激しく痛む。私の熱量は、ゆうりを救うどころか、彼をより深い闇へと追い詰めていたのではないか。

数日後、俺はボランティアの帰りに、疲れ果ててゆうりを連れて大学生の「彼女」とファミレスにいた。いつもあんなに元気なはずの私が、すっかり静かになって机に突っ伏してしまう。

「まやちゃん、大丈夫?」

彼女が心配そうに覗き込んでくる。

「うん……なんか、ゆうりと一緒にいると、いつも最後はこうなっちゃうんだよね。私の元気が全部、ゆうりに吸い取られて消えちゃうみたい。ゆうりは少し元気になってる気がするけど」

ゆうりはココアをすすりながら、少しだけ申し訳なさそうに言った。

「僕が吸い取ってるわけじゃないよ。まやが勝手に疲れてるだけ」

私の熱が消えたわけではない。私から溢れたエネルギーは、確かにこの空間に、そしてゆうりの冷え切った身体へと移動しているのだ。

「まやちゃんたちの話を聞いていたら、なんだか胸がざわついちゃって」

ボランティアの帰りにファミレスで見かけた、あの双子の様子を、私はさっそく次の指導日に先生へ打ち明けた。お姉さんのまやちゃんが、無理に元気を振りまいては一人で疲れ果ててしまっていること。その熱が、まるで冷たい弟のゆうりくんに吸い取られて消えていくように見えたこと。

先生は眼鏡の奥の目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。

「素晴らしい着眼点だね。まさにそれが『熱力学の第一法則』のイメージだよ。まやさんのエネルギーは消えてなくなったわけじゃない。ゆうりさんや、その場の空気に移動しただけだ。二人の間で、エネルギーの総量はちゃんと保存されているんだよ」「あ……消えたんじゃなくて、移動しただけ」「そう。熱はエネルギーの一形態だからね」

先生はノートに、まやちゃんからゆうりくんへ向かう矢印を描いた。

「そしてね、君の話はそのまま『第二法則』にも繋がっている」「エントロピー、でしたっけ?」「そう。熱は必ず、高い方から低い方へ流れる。逆は絶対にあり得ない。ゆうりさんからまやさんへ、自然に熱が戻ることはないんだ。もし、まやさんが一方的にエネルギーを放出し続けた結果、二人の関係やその場の空気はどうなった?」「ええと……まやちゃんは疲れ果てて、最初はきっちり分かれていた『元気』と『静か』の境界線が崩れて、二人ともなんだか、ぼんやりした状態になってました」

先生は深く頷いた。

「それこそが『秩序から無秩序へ』向かうということだよ。最初は『熱い姉』と『冷たい弟』という明確な秩序があった。でも、熱が移動して混ざり合うことで、その区別が曖昧になり、均一で平坦な状態――物理で言う『熱的平衡状態』に向かっていく。自然界は放っておくと、そうやって混ざり合い、乱雑になっていくんだ」

ノートに描かれた矢印の先で、二人の境界線が不規則ににじんでいく。私は、自分の目の前で起きていた人間模様が、そのまま宇宙を支配する物理法則と重なったことに、鳥肌が立つような感動を覚えていた。

冷たい数式だと思っていたものは、実はこの世界の、そして私たちの命の営みそのものを説明する言葉だったのだ。

「物理って……意外と、人間くさいんですね」

私がそう言うと、先生は今日一番の笑顔を見せた。

「そうだよ。僕たちが生きているこの世界のことだからね。さあ、じゃあ次は数式でその『熱の移動』を表してみようか」「う、それはやっぱり、もう少し後でお願いします……」

窓の外では、東京の街が夕暮れの熱を冷ましながら、夜という均一な無秩序へと向かって、ゆっくりとエントロピーを増大させていた。

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