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世界は数式で抱きしめられている  作者: 海内裏


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第Ⅱ章 第3話:『ファラデーは私の拒絶を肯定する』【電磁気学/電磁誘導】

第Ⅱ章:響き合う電荷、まじりあう熱量

「何が、磁束の変化を妨げる方向、よ。意味わかんない」

大学一年の梅雨。私は、大学近くのカフェで頭を抱えていた。目の前には、個別家庭教師の「先生」がいる。理系の大学院生で、いつも冷静な人だ。文系の私が、必死に一般教養の物理の単位を狙うための、付け焼き刃の特訓。しかし、教科書の文字は滑ってちっとも頭に入ってこない。

「いいですか。これがファラデーの電磁誘導の法則と、レンツの法則です」

先生はノートに綺麗な図を描きながら、静かな声で説明を始めた。

「コイルに磁石を近づけると、コイル内の磁力線が増える。コイルはそれを『嫌だ!』と拒んで、増えた分を打ち消す逆向きの磁場を作る。その抵抗する力が、電気――誘導電流を生むんです。磁石を動かすだけで、何もないところからエネルギーが生まれる。発電機も、家にあるIHヒーターも全部この原理です。変化を嫌う反発心が、新しい光を生むんですよ」

「……全然ピンとこない。近づけたら、仲良くそのまま受け入れればいいじゃん」

ため息をつく私に、先生は困ったように苦笑いした。

「反発するからこそ、そこに電気が流れるんです。受け入れてしまっては、現象は起きません」

「うーん、理屈はわかっても、感情が追いつかないっていうか。やっぱり物理って冷たい感じがして苦手」

結局、その日の指導時間は終了した。私は電磁誘導のパズルを解けないまま、もやもやとした気持ちでノートを閉じた。


◇心のバリアを解く魔法

昔から、人が大好きだった。近所のおじちゃんにも、公園で初めて会った子にも、自分から駆け寄っていく子供だった。みんな私の頭を撫でて、「はるひちゃんは小さくて、お人形さんみたいに可愛いね」と言ってくれた。周りの大人が喜んでくれるのが嬉しくて、私はずっと、無邪気な「可愛い子供」のままでいた。

世界が急に冷たくなったのは、中学生になってからだった。クラスの女の子たちが、色つきのリップや、流行りのアイドルの話を始める中、私は相変わらず大好きな猫のグッズを集め、アニメの推しキャラクターについて熱弁していた。

あの日、机に広げたアニメ雑誌を前に、楽しそうに話す私を、少し離れた席から見つめる視線があった。

「……なんか、子供みたいだよね」

クスクスという小さな笑い声と一緒に、その言葉が耳に飛び込んできた。心臓がドクンと大きく跳ねて、冷たい汗が背中を伝った。誰が言ったのかは分からなかった。でも、クラス中の全員が私のことを「イタい子供」として笑っているような気がした。

その日から、私は自分の「好き」を全部隠した。猫の筆箱は引き出しの奥にしまい、アニメの話もしなくなった。鏡を見るのが怖くなった。周りから「可愛い」と言われていた幼い容姿は、ただの「垢抜けない、子供っぽい見た目」に思えて、自信なんて木っ端微塵に砕け散ってしまった。

「話しかけられたくない。また何か言われるかもしれないから」

いつしか私は、誰かが近づいてくるだけで、体を強張らせて防衛線を張るようになっていた。

高校生になっても、私の「心のバリア」は分厚いままで、塾代わりに通っていた地元の学習支援イベントの日も、私はただ気配を消そうと必死だった。

「こんにちは!」

突然、頭上から降ってきた明るい声。見上げると、大学生くらいの、綺麗な女の人が満面の笑みで立っていた。

(無理。まぶしすぎる)

心臓が嫌な音を立てて波打った。彼女が私という空間に踏み込んでこようとした瞬間、私の体は反射的に拒絶の姿勢をとっていた。ビクッと肩を揺らし、持っていた参考書を盾のようにして、顔を覆い隠す。「話しかけないで」というオーラを、全身からこれでもかと放出した。

彼女は一瞬、戸惑ったような気配を見せた。

(あぁ、また怒らせちゃったかな。怒ってどこかへ行ってしまうかな……)

そう思って身を縮めていたけれど、彼女の行動は違った。彼女は、静かに一歩、後ろに引いた。そして、私を無理に質問攻めにすることもなく、ただ隣の席にそっと腰を下ろした。適度な距離を保ったまま、自分の本を読み始めたのだ。

押し付けられない。踏み込まれない。その適度なディスタンスが、強張っていた私の心を少しずつ、不思議なほどに柔らかく解きほぐしていった。

一時間ほど経った頃、ふと彼女の机の上が目に入った。そこに置いてあったのは、使い古された、でもすごく可愛い猫のデザインのシャーペンだった。

(あ……可愛い。私の大好きな、猫だ)

胸の奥が、ちくちくと疼いた。ずっと隠してきた「好き」の気持ちが、彼女の静かな佇まいに安心したのか、抑えきれずにこぼれ落ちそうになる。声を出すのは怖かった。でも、この人なら、笑わないかもしれない。

「……その、シャーペン、可愛いですね」

消え入りそうな声で、ボソッと呟いた。

「あ、これ? よければ使ってみる?」

彼女はパッと顔を輝かせて、すぐにそのシャーペンを差し出してくれた。押し付けるのではなく、どうぞ、と優しく手渡すように。受け取ったシャーペンのプラスチックの温もりが、指先からじわじわと伝わってきた。

そこからの時間は、まるで魔法のようだった。彼女は私の話を、ただ「うん、うん」と目を輝かせて聞いてくれた。子供っぽいなんて絶対に言わなかった。嬉しくて、楽しくて、私の心の中に、ずっと忘れていた温かいエネルギーが、ものすごい勢いで溢れ出してくるのが分かった。

サークルのボランティアで出会った人見知りの高校生、はるひちゃんとの出来事を、私は次の指導日に先生へ話した。

「最初はすごい拒絶されて、変化を嫌がられたの。彼女、昔は誰とでも友達になりたがる子だったのに、中学生のときに『子供っぽい』って言われたのがトラウマで、傷つくのが怖くて心を閉ざしちゃってたんだって。でもね、私が無理に踏み込まずに一歩引いて、相手のペースに合わせたら、大好きな猫のシャーペンをきっかけに急に仲良くなれて。心に電気が走るみたいに感動しちゃった」

先生はコーヒーカップを置き、メガネの奥の目を輝かせた。

「素晴らしいですね。それ、まさに『電磁誘導』ですよ」

「え? なんでそうなるの?」

先生は、前回のノートを再び開いた。

「はるひちゃんは『コイル』で、近づいてきたあなたは『磁石という変化』です。彼女は驚いて、傷つかないための防衛として、逆向きの『拒絶の磁場』を作った。でも、あなたがそこで一歩引いて、彼女の反発を無理にこじ開けなかった。その結果、彼女の心の中に強い感情の電流が生まれたんです」

先生の指先が、ノートの図をなぞる。

「もしあなたが、拒絶されても無理やり距離を縮めていたら、彼女はもっと強く心を閉ざしていたでしょう。あなたが彼女の『レンツの法則』――変化を拒む力を無理に壊さず、一歩引いて見守ったからこそ、関係性という名の新しいエネルギーが生まれたんです」

先生の言葉が、すとんと胸に落ちていく。

「……そっか。無理に押し付けるんじゃなくて、変化に対する戸惑いや反発があるからこそ、そこに新しい何かが生まれるんだ。IHヒーターも、ただの空間じゃ何も起きないけれど、そこに鍋があるからこそ熱が生まれるみたいに」

「その通り。お互いの存在が影響し合うからこそ、現象が起きるんです。人も物理も同じですよ」

目の前のノートの図が、急に生き生きとして見えた。磁石の動き、コイルの反発、そこから生まれる電気。それはまるで、人と人が出会い、戸惑い、それでも響き合っていく心のメカニズムそのものだった。

「先生、次の問題やってみる。今なら、解ける気がする」

私はシャーペンを握り直した。梅雨のジメジメした空気の中で、私の頭の中に、小さな灯りがパッと灯ったような気がした。

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