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世界は数式で抱きしめられている  作者: 海内裏


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第Ⅰ章 第2話:『遠ざかる声、引き伸ばされた周波数』【音響学/ドップラー効果】

第Ⅰ章:届かなかった周波数、跳ね返る作用

「だからさ、音源が近づく時は波長が圧縮されて、周波数が高くなるわけ」夕暮れのカフェテラス。個別家庭教師の「先生」が、ノートに綺麗な波の絵を描きながら私を覗き込んだ。

先生は同じ大学の理系学部の大学院生。いつも冷静で、どこか落ち着いた雰囲気を纏っている。

「はあ……」私はストローで冷めたアイスカフェラテをかき混ぜた。大学一年の必修教養科目『現代の自然科学』。単位を落とせば即留年という崖っぷちだから、親に先生を雇ってもらったけれど、その言葉はすべて呪文にしか聞こえない。

「ドップラー効果。一番身近な例は救急車。サイレンが近づいてくる時は高く聞こえて、通り過ぎて遠ざかる時は低くなるだろ? あれだよ」

「……近づく時と、遠ざかる時?」

「そう。音を出すものが動くから、波が縮んだり伸びたりするの」私はノートの波形を見つめた。ただの線だ――そこに感情なんてない。

「先生、それ、私には一生関係ない気がします」

「物理は世界のルールだよ。君が知らなくても、世界はこれで動いてる」先生はため息をつき、シャーペンを回した。私の頭の中には、ただ低く遠ざかるサイレンの音だけが、虚しく響いていた。


◇追いつくことのない、あの日の背中

遠ざかっていく音は、いつも低くて、どこか冷たい。あいつの泣きそうな声を聞きながら、俺はただ、引き伸ばされた退屈な世界の中にいた。

幼い頃から、走ることだけが得意だった。地面を蹴るたびに、向かい風がゴウゴウと耳元で高い音を立てて迫ってくる。あの、世界が自分に向かって猛スピードで圧縮されていくような感覚がたまらなく好きだった。百メートルをいかに速く駆け抜けるか。それだけが俺のすべてだった。

けれど、高校一年の夏、太ももの筋肉が断裂した。ブツリ、と嫌な音がしてトラックに倒れ込んだあの日から、俺のタイマーは止まっている。医者から「もうトップスピードでは走れない」と告げられた時、俺の中で何かが死んだ。それ以来、何かに打ち込むことも、熱くなることもやめた。

大学に入ってからも、適当な新歓に顔を出し、適当にチヤホヤされ、中身のない時間を消費するだけ。世界のすべてが、俺を追い越して遠ざかっていくような、そんな低いノイズの中に俺はいた。

「大雅くん、これ、すごく美味しいよ!」サークルの新歓で出会ったあの女子大生――彼女は、俺の退屈な世界に、突然高いテンポで飛び込んできた。

連絡先を交換してからというもの、彼女からのメッセージはいつも弾んでいた。電話をかければ、彼女の声はいつもワントーン高くなった。「うん!」「本当?」「嬉しい!」と、俺に向かって全力で走ってくるような、その高周波な響き。最初は、それが少し新鮮だった。俺の止まった世界を、無理やり動かしてくれるような気がしたから。

けれど、長続きはしなかった。彼女の気持ちが近づけば近づくほど、俺は息苦しくなっていった。彼女のテンポは、今の俺には速すぎた。全力で走ることを奪われた俺には、その熱量を受け止めるだけの体力が、もう残っていなかった。

「ごめん、ちょっと疲れるわ」心の中でそう呟いた瞬間から、俺は彼女からの連絡を意図的に遅らせるようになった。スタンプ一つで返し、既読のまま放置した。

ある日の夕方、駅前の交差点で、サークルの別の女子と歩いているところを彼女に見られた気がした。言い訳をする気にもならなかった。

その夜、彼女から電話がかかってきた。スマホの画面に表示された名前を見つめながら、一つため息をつく。サークルで出会って、ほんの短い期間、他愛のない連絡を数回交わしただけの間柄だ。コール音が頭の中に低く響く。観念して通話ボタンを押した。

俺の心は、もう彼女から猛スピードで遠ざかっている。だから、俺の発する言葉はすべて間伸びして、冷たい低音になって彼女に届くのだ。かつてトラックを走っていた時、遠ざかるスターターの声が低く歪んで聞こえたように。

「……うん、分かった」蚊の鳴くような、低く沈んだ彼女の声が聞こえて、ぷつりと接続が切れた。画面が暗転したスマホをポケットに放り込み、俺は夜の街を歩き出す。俺はまた、誰とも交わらない、誰も近づいてこない、静かで低いノイズだけの世界に戻っていく。

あの陸上競技場の、向かい風の高い音をもう一度聞くことは、きっと二度とないのだろうと思いながら。

「先生、聞いてください」次の指導日、私は教科書を開くこともせず、先生にすべてをぶちまけた。大雅という人と出会ったこと。声が高くなったこと。そして、最後は冷たい低い声で突き放されたこと。先生は黙って私の話を聞いていた。怒るかと思ったら、先生はフッと小さく笑った。

「なんだ、ちゃんとドップラー効果を理解してるじゃないか」

「え……?」

「彼に夢中になって、心の距離が縮まっていく時、君たちの世界の波長は極限まで圧縮されていたんだよ。だから声が高くなる。お互いに向かっていくその心の速度が、音を高く響かせていたんだ」先生はノートを開き、あの日の波の絵を指さした。

「でも、彼の心が離れて、距離が遠ざかり始めた。離れていく音源から放たれる波は、引き伸ばされて間伸びする。だから彼の声は低く、冷たく聞こえた。君が感じたその切なさは、物理現象そのものだよ」私は目を見開いた。教科書の上の、あの冷たい数式と、私の張り裂けそうな胸の痛みが、カチリと音を立てて繋がった。

「近づく時は、高くなる。遠ざかる時は、低くなる……」

「そう。音だけじゃない。光も、星も、人間の心も、近づく光は青く変わり、遠ざかる光は赤く引き伸ばされる。ドップラー効果は、寂しさの証明でもあるんだ」先生の静かな声が、私の耳に心地よく響いた。不思議と、もう涙は出なかった。

「……先生」

「ん?」

「今の先生の声、なんだか、すごくちょうどいい高さです」

先生は一瞬目を丸くして、それから「バカ言え」と照れくさそうに笑った。

「さあ、世界のルールが分かったところで、次の問題を解くぞ」ノートに広がる数式が、さっきよりも少しだけ、愛おしく見えた。

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