第I章 第1話:『ニュートンは私の恋を証明する』【力学/運動の3法則】
第Ⅰ章:届かなかった周波数、跳ね返る作用
「いいですか。これが物理学の基礎、ニュートンの運動の三法則です」家庭教師の先生は、ノートに綺麗な字で書き込んだ。
一、慣性の法則:動いているものは動き続け、止まっているものは止まり続ける。
二、運動の法則:F=ma。力(F)は、質量(m)と加速度(a)を掛け合わせたもの。
三、作用・反作用の法則:力を加えると、全く同じ大きさの力が逆向きに跳ね返ってくる。
「……日本語ですか?」私はアイスカフェラテをすすりながら、眉をひそめた。
「数式とか、質量とか言われても、私の日常には一ミリも関係ない気がします」
先生は苦笑しながら、「いつか分かりますよ」とペンを置いた。
全く理解できないまま、初日の指導は終わった。この無機質な数式が、私の世界を一変させていくとも知らずに。けれどその時、私の大学にふらりと現れ、突風のように通り過ぎていったひとりの男の子のなかでは、すでにその法則が残酷なほど正確に働き始めていたのだ。
◇絵の具の重力と、僕の質量
キャンバスに向かっているとき、僕の耳はすべての音をシャットアウトする。世界には僕と、絵の具と、目の前の白い画面しか存在しない。他人の意見も、流行りの服も、僕の進む速度を鈍らせるだけの雑音だ。僕は僕の速度で、僕の行きたい方向へ走り続けるしかない。そうしなければ、自分が崩れてしまうから。
幼い頃から、周りの言うことを聞かない子供だった。「普通はこうする」「みんなと合わせなさい」と言われるたび、僕の体は拒絶反応を起こした。周囲の顔色を窺って生きるくらいなら、一人でいる方がずっと呼吸がしやすかった。そんな僕の頑固さを「自分勝手」だと突き放すように、僕を取り巻く世界はある日突然、僕の意志とは無関係にバラバラに崩壊した。
両親が離婚した。大好きで、心から懐いていた父方の祖父母とは、大人の事情で強制的に絶縁させられた。間もなくして母親が再婚し、見知らぬ男が「新しい父親」として家に入ってきた。昨日までの「絶対的な繋がり」が、大人の都合一つで一瞬にして消滅する。血の繋がりなんて、ただの偶然のバグだ。他人の感情なんていう不安定なものに自分の人生の軌道を預けていたら、いつか必ず、深い暗闇の底へ引きずり落とされてしまう。何も信じない。誰も繋がれない。そんな僕の心を唯一救い出し、まったく別の質量で支配したのが絵の具の世界だった。
キャンバスという絶対的な平面。そこにある色彩と、僕の筆が描く線だけは、僕を裏切らない。それは一度囚われたら光すら脱出できない、すべてを呑み込む絶対的な暗闇のようだった。僕はその、すべてを吸い寄せる圧倒的な絵の世界の引力に、自ら喜びを感じながら深く深く吸い込まれていった。他人との関わりをすべて断ち切り、絵を描くことだけが、僕の歪んだ慣性を維持する唯一の手段だった。
彼女は、そんな僕の世界に突然飛び込んできた。いつも周りに流されているような女の子。僕とは真逆の性質を持っているはずなのに、なぜか彼女は僕から目を離さなかった。気づけば、彼女は僕のすぐ後ろを走っていた。他大学の僕がサークル活動で訪れた場所に、彼女がふらりと現れたのがきっかけだった。「海が見たい」と僕が呟けば、翌朝には特急券を握りしめて現れた。「インクが足りない」と言えば、都内の画材屋を何軒も回って息を切らせて戻ってきた。まっすぐで、あまりにも強いエネルギー――僕にはそれが、少し怖かった。誰とも関わらず、一人で進むと決めた僕の進路を、彼女の持つ巨大な引力が強引に捻じ曲げようとしているのを感じていた。
個展の前夜、アトリエの空気は張り詰めていた。限界だった。過労で頭が朦朧とし、視界がぐにゃりと歪む。
「もうやめなよ! なんでそんなに自分を追い込むの!」次の瞬間、背中に強い衝撃と、温かい塊がぶつかってきた。彼女が僕を強く抱きしめていた。恋人でもないのに。付き合おうなんて言葉も交わしていない、同じサークルでもない彼女と、あの広大なキャンパスの片隅でたまたま出会っただけの、ただの友達のはずなのに。
彼女の全力の好意。純粋で、濁りのない、まっすぐなプラスの力。だけど、その時の僕にとっては、それはただの「圧力」でしかなかった。ここで立ち止まったら、この絵を完成させなければ、僕は僕でいられなくなる。他人の温もりに流されてしまったら、僕を繋ぎ止めているあの絵の世界の引力から弾き飛ばされてしまう。彼女の優しさは、僕の進行方向を力任せに塞ぐ壁のように思えてしまった。
「君のそういう熱量、今の僕には重すぎるんだよ」僕は彼女の両肩を掴み、痛いくらいの力で強く突き放した。自分で自分の冷え切った声に驚く。彼女は弾かれたように僕から離れ、泣きながらアトリエを飛び出していった。
静まり返った部屋で、僕は突き放した自分の両手を見つめた。手がじんじんと熱い。僕が彼女を激しく拒絶してしまったのは、彼女がそれだけ強い力で、僕を止めようとぶつかってきたからだ。彼女の熱量の激しさが、そのまま僕の拒絶の力になって跳ね返ってしまった。僕は最低だ。でも、こうするしか僕の慣性を守る方法はなかった。
◇
「先生……ニュートンは、間違ってます」
次の家庭教師の時間、私は腫れた目のまま、先生にすべてをぶちまけた。自然科学概論の教科書は開く気にもなれなかった。
「だって、おかしいじゃないですか。私はただ、彼が好きで、全力のプラスの力を送っただけなのに。どうしてそれが全部拒絶になって跳ね返ってくるんですか。数式なんかで、私のボロボロの気持ちが説明できるわけないです」
先生は静かに私の言葉を受け止め、ふっと微笑んで、あの日のノートを開いた。
「あなたが体験したこと、すべてこの三法則で説明がつきますよ」
「え?」と私は涙を拭った。先生はノートの文字を指差した。
「まず、彼は『慣性の法則』そのものです。物理で言う『質量』とは、物の動きにくさのこと。紅星くんは心の質量が大きすぎた。だから、一度走り出したら、他人の意見という外力が加わっても、その進路をビクとも変えられないんです」確かに、紅星は私の視線に関係なく、ずっと一人で走り続けていた。
「次に、あなたが変わってしまったこと。これが『運動の法則(F=ma)』です。彼への恋心という巨大な『力』が働いたからこそ、流されやすかったあなたの心に、爆発的な『加速度』がついた。彼に重すぎると言わせた熱量の正体は、その一気についた加速度だったんですよ」
「私の心に、あの恋の加速度がついちゃったんだ……」
「そして最後に、あなたが彼を強く抱きしめ、傷ついてしまった夜のこと」先生は『作用・反作用の法則』をペンで指した。
「あなたが彼を必死に止めようとぶつかった。その瞬間、全く同じ大きさの力が、逆向きにあなたへと跳ね返ってきた。彼があなたを拒絶したんじゃない。あなたが彼を本気で愛して、全力でぶつかったからこそ、その愛の強さと同じだけの衝撃が自分に返ってきたんです。ただの法則通りに、世界が動いただけ。だから、あなたが傷つく必要はありません」
先生の言葉が、ストンと胸に落ちてきた。記号だらけで冷たいと思っていたニュートンの法則が、急に血の通った、切ない人間模様の縮図に見えた。
「物理学って、数式の話じゃなくて、この世界の関わり合いの話だったんですね」
「そうです。だから、次のテスト、いける気がしませんか?」
先生の悪戯っぽい微笑みに、私は深く息を吐き、すっきりした気持ちでノートを見つめた。紅星への恋は終わったけれど、私の心には新しい視点が生まれていた。
「はい。いける気がします」
私はペンを握り直し、今度は自分の手で、あの三つの法則をノートに書き写し始めた。窓から差し込む初夏の光が、インクの文字を眩しく照らしていた。




