四話目 上昇する緊張
水族館を出て、わたしたちは早速、危機を迎えていた。
怒りの収まらないわたしはフグみたいに頬を膨らませ、「ふんっ」とコースケにそっぽを向いた。
「ごめんて、明穂。ほら、この通り。」
両手を合わせて謝ってくるコースケに、わたしは文句を言い放つ。
「怖がってる彼女の横で笑うなんて、ホントに最低。絶対に許してあげないんだから。」
じとっと一瞥してから、またそっぽを向く。
「まさかあんなに怖がるとは思わなくてさ。でも——女の幽霊が出てきた時の明穂の悲鳴、ちょっと可愛かったかも。」
「……」
ぴきり。
頭のどこかで何かが切れる音がした気がする。
「コースケなんて、大嫌い。」
怒りが頂点に達していた。
楽しみにしていたアトラクションだったのに、まんまと騙された挙げ句、情けない悲鳴まで聞かれてしまったのだ。
恥ずかしいし、悔しいし、思い出すだけで顔が熱くなる。
「ほら、機嫌直せって。」
さすがにまずいと感じたのか、困ったような声で顔を覗き込んでくるが、わたしは意地でも目を合わせなかった。
「そ、そうだ!」
コースケが閃いたように急に顔を明るくした。
「海鮮丼! 海鮮丼食べに行こうぜ。楽しみにしてたじゃん。」
——ふんっ。わたしも甘く見られたものね。
その言葉に、呆れたようにため息をついた。
「あのね、コースケ。そんなもので今のわたしの機嫌が直るわけないでしょ。」
まったく。
人をなんだと思っているのだろう。
「いいから行こうぜ。めっちゃ旨い店だからさ。」
袖を引かれたわたしは、一言も口をきかずにそっぽを向いたまま、お店へと連れていかれた。
★☆
「ヤダ、本当に美味しいわ。なにこのお刺身の厚み——コースケ、これすごくない?」
どんぶりの上にこれでもかと盛り付けられた、新鮮な海の幸。色とりどりに並んだ海鮮はまさに宝石箱だった。
一口食べる度にわたしの頬が緩む。
——うん、美味しい。
こ、これでこの値段なの。信じられない。
わたしの機嫌は、すでに直っていた。
「ホントに旨いな。今まで食べた中で一番かもしれない。」
コースケも感心したように舌鼓を打っている。
——いやぁん、幸せ。
さっきまでの怒りなんて、どこへ行ったのだろう。
「次はデザート食べよ。」
わたしは早くも次の楽しみを考え始めていた。
「来る時にジェラートのお店あったでしょ。あそこ行きたい。」
「いいな。俺はシャーベット系かな。」
「わたしはチョコ。でもストロベリーも気になるんだよね。」
少し考えてから、わたしは顔を上げた。
「ねぇ、シェアしよか?」
「はいはい」
コースケが苦笑しながら頷く。
その頃には、シューティングアトラクションでの出来事など、わたしの頭からすっかり消え去っていた。
ホッと息をするコースケの手のひらで踊らされたことにも気づかずに。
★☆
お店の外に出て、わたしたちはジェラートのお店に立ち寄った。
「へぇ、プリンも置いてあるんだ。」
青を基調とした外観と店内。色とりどりのジェラートの他に、お土産コーナーにはプリンも多数並んでいた。
でも、わたしたちのお目当てはジェラートだ。
テイクアウトもできるみたいだけど、外は暑い。話し合いのすえ、店内で食べることにした。
「俺、これにするわ。」
コースケが指差したのは、海の色を模したような深い青のジェラートだった。
「ラムネなんだ。美味しそう。」
目移りして迷うわたしに、コースケがさらに指を向ける。
「明穂はこれが良いんじゃない。」
——トリプルジェラート。
好きなジェラートを三つ選んで盛ってくれるらしい。他のより百五十円ほどお高いけれど——。
「うん、これにする。」
一つには絞りきれなかった。
注文を終えた直後、コースケがわたしに身を寄せてきた。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる。俺のも受け取って、先に二階行ってて」
そう言い残して、コースケはそそくさと行ってしまった。
奥の席で少し待っていると、コースケが階段を上がってきてわたしの向かいに座る。
食べ始めてすぐ、コースケが聞いてきた。
「明穂、この後どこか行きたいところある?」
どこか含みのある言い方だった。
——他にも食べたいものはあるけど……。
「コースケはどこか行きたい場所あるの?」
逆に聞き返すと、コースケは少し間を置いた。
「じゃあ、展望台行かない?」
「展望台?」
「う、うん。少し先にさ、海を見渡せる展望台があるから——そ、そこ行ってみようぜ。」
「別にいいよ」
勢いに押され、軽く答えてはみたけれど——
どうしたの、コースケ。
ちょっと緊張してない?
わたしの直感が、コースケの微妙な変化を見逃さなかった。
なんで急に言い淀んだの。
なんでちょっとソワソワしてたの。
いま、一瞬息を飲まなかった。
なに、なにかあるの。その展望台——。
えっ、もしかして……キス。
思わず、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。
一瞬の思考。
わたしはすぐにスプーンでジェラートをすくって口に放り込む。
——ないない。考えすぎ。
付き合って初めてのデートだから可能性がゼロとは言わないけれど——平日とはいえそれなりに人はいるはず。
結依だって言ってたじゃない。
『コースケにそんな度胸はない』って。
コースケが展望台でわたしにキス。
フッ、ないわ。
我ながら完璧な考察だ。
したり顔で勝手に勝ち誇っていたわたしに、コースケが青いジェラートを差し出してきた。
「少し食べるか?」
わたしの手が固まる。
——か、間接キス。
「う……うん」
声が震える。
指先が震える。
違う、わたし。
変な想像しちゃダメ。
ただアイスをもらうだけ。
落ち着きなさい。
「明穂のも少し貰っていいか?」
——ひぃ。
心の中で悲鳴が上がった。
★☆
港からすぐ近く、ちょっと変わった展望台。
まるで大きな門のように、海の前にどっしりと立っていた。
「見た目は大きい門みたいだけど、この港の水門自体が展望室になってるんだってさ」と、コースケは言っていた。
他にもいろいろ調べてきたのか、次々と説明してくれているが——もうわたしの頭には何も入ってこない。
念のため持ってきたメントスをポケットから取り出し、ぼりぼりと噛み砕く、が。
そんな事では、ドキドキは止まらない。
——ど、どうしよう。
変な想像ばっかりしてしまう。
こんな時はあれよ、あれ。
的をしっかり見て、足踏み。
身体の線を整えて、胴造り。
え~と、ゆっくり弓を上げて、打起し。
あぁ、違う。先に弓構えでしょ。
欲望を抑えようと射法八節を頭の中で唱えてみるが、動揺しきったわたしにはもはや無意味だった。
「明穂、エレベーター着いたぞ。」
コースケの声で顔を上げる。いつの間にか、展望室へ上がるエレベーターの前に来ていた。
しかも——密室だわ。
「う、うん」
ぎこちなく足を踏み出す。
二人きりのエレベーター。
近い。
近すぎる。
コースケは黙ったまま、「ふぅ」と息を漏らす。
わたしは下を向いたまま。
上昇しているのはエレベーターだけじゃない。
緊張まで一緒に上がっていく。
やがて小さな電子音が鳴った。
チーン。
ドアが開く。
そして――わたしたちは展望室へ足を踏み入れた。




