四話目 未来を射る日
――その瞬間だった。
見えない矢を放った刹那、世界が閃光に満たされた。
「キャーーーァ!」
光はただ眩しいだけではなかった。
それは、わたしを中心に波紋のように広がり、空間そのものを歪めていく。
景色が溶ける。
街並みがほどける。
時間が軋む。
まるで見えない手に掴まれた映像のリールが、逆転して回り出したかのように、
周囲の光景は音もなく遡っていった。
なに……これ……?
夢か現実かすら判別できない。
足裏にあったはずの重みも消え、わたしは虚空へと放り出された。
上も下もない。
空も地もない。
ただ、光だけがある。
わたしは息を呑む。
心臓が、異様な速さで打っていた。
未来を拒むため。
あの映像を振り払うため。
結依が死ぬ運命を否定するため。
ただ、それだけの覚悟で放った一射だった。
それなのに――
どうなるの、わたし。
どうなってしまうの、これ……。
その時だった。
わたしの前方に、ひとつの光が生まれた。
それは手のひらに収まるほどの小さな灯。
星の欠片のように淡く揺らぎながら、ゆっくりと、わたしの周囲を巡っている。
導くように。
招くように。
「……どうすればいいの?
触れれば……いいの?」
胸の奥に響く、見えない呼び声。
わたしは震える指を伸ばし、恐る恐るその光へ触れた。
――瞬間。
世界がほどけた。
「明穂。ねぇ明穂、なにぼーっと黄昏れてるの。五月病?」
その声は、聞き間違えるはずがなかった。
結依の声だ。
「あれ、結依……? 結依、なんでいるの?」
「はぁ? 明穂、なに言ってるの。大丈夫?」
「大丈夫って……結依の方が……あれ、ここどこ?」
「またぁ。昨日も同じこと言ってたじゃん。ほんとに頭もう一回見てもらった方がいいんじゃない?」
呆れ半分、心配半分。
そんな微妙な言い方に、少しだけむっとする。
でも――そんなことより。
この状況は、なに?
昨日の映像。
夢。
……違う。
現実?
気づいたら、わたしは結依の頬を両手でむにっとつねっていた。
「ひょっ……あきほ、にゃにするにょよ」
柔らかい。温かい。
頬の温もりが、現実を突きつける。
夢でも幻でもない。
間違いない。本物だ。
いきなりつねられて不満そうに睨む結依が、さらに文句を言う。
「ねぇ、ひょっと。いいひゃげん、はにゃしてくれない?」
「あっ、ごめん!」
手を離すと、結依は頬をさすりながら口を尖らせた。
「もう、なにがしたいのよ。」
やっぱり結依だ。
夢でも幻でもない。
胸の奥に詰まっていた空気が、ようやく抜ける。
そうだよね。
結依が死ぬわけなんてない。
きっとわたし、疲れてただけだ。
昼寝して変な夢を見ただけなんだ。
よかった。
本当に、よかった。
涙が出そうになって思わず俯くわたしを、結依が怪訝そうに見つめる。
「もう何なのよぉ、まあ良いけど。
それよりさ、明穂。今日は部活行くの?」
「えっ」
「弓道部。行くの?」
「あ、うん……行くよ。手ちょっと痛いから軽めに射って終わりにしようと思うけど。なんで?」
「私も早く終わるからさ。帰り、ちょっと買い物付き合ってよ。」
「そ、それって……駅前のデパート?」
「うん、そうだけど。
……あれ? 明穂に話したっけ?」
その瞬間。
心臓が、強く跳ねた。
昨日と同じ会話。
同じ流れ。
でも――これは夢じゃない。
予知でもない。
確かな現実。
わたしは、理解してしまった。
時間が――戻っている。
わたしは、あの一射で。
過去へ、遡ってきたんだ。
——結依を救うために。
確信は、ある。
頭の中に映像が流れ込んでくるのとは違う。
机のざらりとした感触も、窓から差し込む春のやわらかな陽気も、
さっき触れた結依の頬の温もりも――全部、本物だ。
でも。
過去に戻るなんて。
そんなの、SFか映画の中だけの話じゃないの?
本当に現実で起こることなんて、あるのだろうか。
結依には言えない。
先生にも、友達にも言えるはずがない。
どうせ冗談だと思われて、笑われて終わりだ。
だからわたしは、授業中にそっとスマホを開いた。
ノートの影に隠しながら、AIの画面に文字を打ち込む。
――時間を遡ることは可能なのか。
指先が、少し震え一旦文字を消す。
画面の白い入力欄に、わたしはしばらく指を止めていた。
こんなこと、まともな答えが返ってくるわけがない。
それでも――誰にも言えない以上、ここに頼るしかなかった。
わたしは小さく息を吐き、そっと文字を打ち込む。
――もし人が過去に戻ったと感じた場合、それはあり得ることですか?
数秒の沈黙。
やがて画面に、淡々とした文字が浮かび上がる。
『現在の科学では、時間を遡る現象は確認されていません。
ただし、人間の記憶や認識には錯覚や再構成が起こることがあります。
一般に物語などで語られる“タイムリープ”のような現象は、理論上の仮定に留まっています。』
やっぱり、そうだよね。
わたしは唇を噛んだ。
でも――まだ指は止まらなかった。
――夢でも錯覚でもなく、現実の出来事として体験している場合は?
少し間があって、返答が続く。
『強い既視感、ストレス、外傷、睡眠不足などにより、現実感が変化することはあります。
また、人は「後から知った情報」を過去の記憶として再解釈する傾向があります。』
……違う。
わたしは小さく首を振る。
そんな説明じゃ、足りない。
結依の頬の温もりも。
会話の流れも。
この春の匂いも。
全部、作り物なんかじゃない。
わたしはさらに打ち込んだ。
――もし仮に、本当に時間が戻ったとしたら。
未来を変えることは可能だと思いますか?
今度は、少し長めの沈黙。
やがて表示されたのは、相変わらず感情のない文章だった。
『仮説としての時間遡行では、未来が固定されている場合と、分岐する場合の両方の理論があります。
どちらが正しいかは証明されていません。
ただし一部の仮説では、出来事の整合性を保つため、
結果が元に近づくよう働く可能性も指摘されています。
いずれにしても、人が行動を変えれば結果が変わる可能性は常に存在します。』
わたしは、その一文をじっと見つめた。
――結果が元に近づくよう働く可能性も指摘されています。
胸の奥が、わずかに冷えた。
それでも。
――人が行動を変えれば、結果が変わる可能性は常に存在します。
その言葉を、わたしは静かに握りしめる。
証明なんていらない。
理屈もいらない。
もし世界が戻そうとするなら。
それでも、わたしは――
変える。
でも――どうやって?
大口を叩いてみたけど、それってけっこう大それた事だよね。
わたしはペンを指先でくるくると回しながら考える。
授業が終わるまで、あと十五分ほど。
過去の記憶通りなら、結依はチャイムが鳴った瞬間、迷いなく部活へ向かう。
……いっそ呼び止めて、そのまま二人で買い物に行けば?
いや、ダメだ。
結依が部活をサボるなんて考えられない。
じゃあ、逆に遅らせてみる?
それも違う。
わたしが何を言っても、結依は結局行ってしまうかもしれない。
こんな単純な方法じゃ足りない。
もっと――確実に変わることをしなきゃ。
そう考えているうちに、無情にもチャイムが鳴り響いた。
「じゃあ明穂、終わったら連絡して。」
そう言って、結依は足早に教室を出ていく。
わたしは「うん」とだけ返した。
――過去で見た光景と、まったく同じ。
同じ場面をなぞるたび、不安が胸に滲んでくる。
本当に、変えられるの?
弱気な声が頭の中に浮かび、小さく首を振った。
ダメ。
ダメ、ダメ、ダメ。
わたしは変える。
結依を、救うんだから。
頬を両手でぱん、と軽く叩く。
その音で、迷いを追い払う。
先ずは、結依と別れなければいい。
わたしがずっとそばにいればいい。
そしてもう一つ。
単純だけど――確実に彼女を守れる方法。
その考えを胸に抱えたまま、わたしは部室へ向かった。
道着に着替え、弓道場に立つ。
大きく息を吸う。
静かに足踏みを始める。
昨日の記憶がよぎる。
一射目は――確か、大きく外した。
胴造り。
弓構え。
打ち起こし。
ゆっくりと、引き分ける。
そして――会。
息を吐きながら、吐ききる寸前で離れ。
矢は、乾いた音とともに飛び――
やはり、的から大きく外れた。
わたしは小さく息を吐き、残心へ移る。
二射目。
これも、記憶ではあまり良くなかった。
呼吸を整え、放つ。
……やっぱり、同じ結果。
階段から落ちたときの痛みもある。
でも、それ以上にわたしを乱しているのは――
昨日見た、結依の姿。
病院のベッド。
無機質な機械に繋がれた横顔。
その光景が、会の最中にちらつく。
溜めが保てない。
離れが早くなる。
三射目。
四射目。
――やはり、結果は変わらない。
一立ちが終わり、わたしは静かに後ろの人と交代した。
弓を下ろしながら、胸の奥が重く沈む。
未来は、こんなにも簡単には変わらないのだろうか。
わたしは頭を掻き、迷いを振り払うように目を閉じた。
昨日のわたしと同じなら――
次のセットも上手くいかず、結局諦めて結依と帰ることになる。
あと四本。
……わたしは、確信が欲しい。
未来を変えられるという、確かな手応えが。
落ち着け。
落ち着け、わたし。
あのときの一射を思い出す。
タイムリープした、あの瞬間の射を。
構え。
呼吸。
会。
すべてが、澄み切っていた。
そして――気迫。
結依が死ぬ現実を拒絶した、あの強い思い。
絶対に変える。
結依は死なせない。
わたしは拳を強く握りしめ、ふっと息を吐いた。
やがて順番が回ってくる。
一連の流れをなぞり、一射目を放つ。
――だが。
やはり結果は同じ。
違う。
これじゃない。
昨日のわたしは、こんな気持ちで引いていなかった。
そのときだった。
――世界から音が消えた。
わたしは静かに足踏みを始める。
胴造り。
自然体を整え、三つの線を意識して的を見つめる。
心の奥で、そっと呟く。
――わたしは、諦めない。
弓構え。
打ち起こし。
ゆっくりと、引き分ける。
大きく息を吸い込み、会。
的を、真っ直ぐに見据える。
わたしは変える。
必ず変える。
結依は死なせない。
たとえ、この命と引き換えでも。
――離れ。
矢は、静寂を裂くように飛び、時間が、わずかに伸びた気がした。
次の瞬間。
乾いた音が、弓道場に響く。
矢は――
的の中心に、突き立っていた。
…当たった。
「よーし!」
歓声が聞こえる。
胸の奥に詰まっていた空気が、ゆっくりとほどけていく。
そうだ。
未来は――
変えられる。




