六話目 夏の魔法
――紺色。
結依が選んだのは、わたしが敢えて手を伸ばさずにいた色だった。
大人っぽいけれど、少し地味な印象。首を傾げて眉をひそめるわたしに、結依が続ける。
「明穂は背も高くて細身だから、こういうのが一番合うのよ。
私や澪ちゃんだと背が低いからこの色に負けちゃうけど、明穂なら絶対これ。
それにこの紺色って、明穂みたいなショートカットにもよく合うのよ。」
「そうなんだ……」
まだぴんとこないわたしに、結依がさっさと浴衣を当ててくる。
「ああ、確かに!大人っぽくて素敵かも。」
澪が角度を変えながら、何度も頷いた。
――素敵。
いい響きだ。
「ほら、自分でも確認してみなさいよ。」
促されて、浴衣を手に鏡の前に立つ。
――意外と、ありかも。
紺をベースに薄い水色の花柄。黄色い帯がさりげないアクセントになっていて、思っていたよりずっと可愛い。
だんだんその気になってきたわたしに、結依が止めの一言を囁いた。
「これならコースケくんも、イチコロよ。」
耳元でそう言われた瞬間、わたしは即断した。
「うん、これにする。」
鏡の中の自分が、にやにやしていた。
会計を済ませ、フードコートで小さな祝勝会を開いてから帰路につく。
いよいよ明日だ。
期待もある。でも不安もある。コースケは本当に告白してくるのだろうか。そしてわたしは、どう答えるのだろう。
浴衣の入ったビニール袋をぎゅっと握りしめながら、騒ぐ二人を横目にそんなことを考えていた。
★☆
当日のお昼過ぎ。
わたしは結依の家の鏡の前に座らされていた。
こっそりメントスを口に放り込むと、「ちょっと動かないで」と結依に叱られ、慌てて背筋を伸ばす。
わたしはお化粧が苦手だ。
お出かけのときはリップくらいは塗るし、ファンデーションも少しだけ。
でも、それくらい。
気にしない女、自然体が一番。
そんな言い訳を積み重ねてきた結果が今のわたしで、そもそも不器用なのだから仕方がない。
見かねた結依がお化粧をしてくれると言い出して、こうして鏡の前に座らされている。
結依が手を休めた隙にまたメントスを口に入れた。
「もう、さっきから何を食べてるの。やりにくいんだけど。」
怪訝な顔の結依から視線を逃がして、わたしは俯いた。
「き、今日さぁ、ほら、コースケが……こ、こ、こ、こ、こ……」
「なに? にわとり。」
「違うわよ。」
顔を上げて頬を膨らませる。
「こ、告白するつもりなんでしょ。」
「うん、そう言ってたわね、」
結依が淡々と返す。
「ほら、その勢いで、ちゅ……ち、ちゅ……チューとかされちゃうかもしれないじゃないの。」
言い切った瞬間、自分の顔が燃えるように熱くなった。
すると、結依の手が止まった。
ぴくりとも動かない。完全に固まっている。
――どうしたの?
鏡の中の結依に視線を向けると、彼女はハッと意識を取り戻して、鏡越しにまっすぐわたしを見た。
「ないわ、絶対に。」
ぴしゃりと、無感情に言い切られた。
あまりにあっさりと否定され、わたしは少しムキになって結依に聞き返した。
「なんでよ。あるかもしれないじゃん。」
「ふん、ないない。絶対に。」
結依は鼻で笑いながら、ひらひらと手を振る。
さらに言い返そうとした瞬間、不意に両頬を掴まれた。
「はいはい、動かない。続きやるよ。」
ぐいっと前を向かされる。
――なによ……。
納得いかずに頬を膨らませると、今度はその頬をむにっと両手で潰された。
「真面目に」
「はーい……」
わたしが肩をすくめると、結依は満足そうに小さく笑った。
それからは、まるで職人みたいだった。
細い筆がまぶたをなぞり、頬に触れる指先がするすると熱を散らしていく。
髪を耳にかけられるたび、鏡の中の自分が少しずつ知らない顔になっていった。
「目、閉じて」
言われるままに従う。
瞼の上を柔らかな感触が滑り、ぱちりと目を開けると、鏡の中の瞳がいつもよりはっきりして見えた。
――わたしの目って、こんなに大きかったっけ。
頬に淡く色が乗るだけで、雰囲気まで変わっていく。
結依の手が動くたびに、“いつものわたし”が少しずつ塗り替えられていくみたいで、なんだか落ち着かない。
なのに、鏡から目を離せなかった。
まるで、魔法でも見ているみたいだった。
――ピンポーン。
呼び鈴の音に、結依が壁の時計へ視線を向けた。
「澪ちゃんかも」
その言葉につられて、わたしも時計を見る。
「え、早くない?」
「うん。前からメイク教えてあげる約束してたの。せっかくだから、今日にしたの。」
「へえ」
短く返事をしながら、胸の奥がじんわり温かくなる。
澪がお化粧を覚えようとしている。
少し前までの彼女からは想像もできなかった。長い前髪で顔を隠して、いつも自信なさげに俯いていた澪が、今は自分から少しずつ前へ進もうとしている。
その変化が、なんだか嬉しかった。
「結依、お友達よー」
一階から結依のお母さんの声が届く。
「やっぱり澪ちゃんね。迎えに行ってくる。」
「うん」
結依はぱたぱたと部屋を出ていった。
一人になった部屋で、わたしは鏡の中の自分を見つめる。
「……本当に、変わったわね。」
角度を変えながら何度も顔を確かめる。
まるで別人みたいだった。
今日――わたしは、初めて告白される。
もしかしたら、その先だって。
そんな想像をした瞬間、心臓がどくりと跳ねた。
結依は「絶対ない」なんて言っていたけれど、もし本当にキスを求められたら、わたしはどんな顔をすればいいんだろう。
「……こう? いや違う、唇出しすぎ……」
鏡へ向かって表情を作ってみる。
「やっぱり。初めてだし自然に、こうかな――」
「明穂、ちょっと!」
勢いよくドアが開いた。
「うん!なにしてたの?」
「う、ううん! なんでもない!」
危なかったぁ。
キスの練習してました、なんて死んでも言えない。
「ねえ、明穂。見てあげて。」
「え?」
振り向いた瞬間、言葉を失った。
「…………えっ」
「そんなに驚かないでくださいよ……」
恥ずかしそうに肩をすくめる澪。
前髪をバッサリ切った澪が立っていた。
肩にかかるくらいまで整えられた髪。
そしてなにより――隠れていた瞳が、ちゃんと見えていた。
夢の中で見た澪と、同じだった。
「かわいい……」
気づけば、自然に声が漏れていた。
「でしょ? わたしも最初びっくりしたんだから。」
結依が得意げに笑う。
「もう、お世辞やめてください……恥ずかしいです。」
真っ赤になった澪が、両手を付きだし顔を隠した。
「お世辞じゃないよ。本当にかわいい。」
少しずつ、なんかじゃない。
澪は確実に変わっていた。
その事実が嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
「ちょ、明穂。泣いちゃダメ。せっかくメイクしたのに。」
「う、うん……」
慌てて目元を押さえる。
でも、嬉しかった。
「澪ちゃん、そこ座って。さ、明穂は続きやるよ。」
結依に促され、わたしはもう一度鏡の前へ座った。
メイクを終え、浴衣に袖を通す。
結依が慣れた手つきで帯を締めていった。
「うっ……ちょっと苦しいかも。」
「我慢して。」
きゅっと帯を整え、結依が満足そうに頷く。
「はい、完成!」
鏡の前に立たされる。
そこに映っていたのは――自分でも見惚れてしまうくらい、綺麗な女の子だった。
「……すご」
思わず小さく呟く。
「本当に素敵です。」
澪が目を輝かせながら何度もわたしを見ていた。
その視線がくすぐったくて、耳が熱くなる。
「うん、完璧ね。」
結依が満足そうに腕を組んだ。
「ありがとう、結依。」
自然と笑みがこぼれる。
★☆
待ち合わせは四時。
まだ一時間半ほどある。
ベッドに腰掛けたまま、鏡の前で今度は澪にメイクを教えている結依を眺めていた。
けれど、わたしの足はずっと小刻みにリズムを奏でていた。
「もう、明穂。落ち着きなさいよ。」
「だって……」
時計の針が進むたび、心臓まで速くなる。
こんなの、自分じゃどうにもできない。
わたしはメントスを数粒取り出し、ボリボリと噛み砕く。
緊張しすぎて、コースケに会う前に倒れるかもしれない。
「さっきから明穂さん、なに食べてるんですか?」
鏡の越しにわたしと目が合う澪がわたしに聞いてきた。
「キスされると思ってるらしいわよ。
ないって言ってるのに。」
わたしが答える前に結依が澪に耳打ちした。
「さっきからなんでよ。あるかも知れないでしょ。」
わたしは唇を尖らせムッと結依を睨む。
「あるわけないでしょ。
コースケくんにそんな度胸あったら、とっくにあんた達付き合ってるもの。」
グサリとえぐられる。
は、反論出来ない。
「アハハ、結依さんの言う通りですね。
絶対ないです。アハハハ。」
澪が盛大に笑った。
――もう、澪まで。
そして――。
「明穂、そろそろ時間じゃない?」
結依に言われ、時計を見る。
二十分前。
行かなきゃ。
ぎこちなく立ち上がる。
「明穂、頑張ってね。」
「明穂さん、ファイトです!」
二人の声に背中を押され、わたしは小さく頷いた。
「あ、明穂」
「な、なに?」
「手と足、同時に出てる」
「…………」
結依の呆れたツッコミに、自分でも思わず吹き出してしまう。
一度だけ、大きく深呼吸。
「……じゃ、行ってくる。」
二人へ手を振り、わたしはドアを開けた。




