四話目 歪みの中で
違和感には、すぐに気づいた。
教室に入ってきた先生を見た瞬間、心臓が小さく跳ねた。
見知らぬ女の先生が当たり前のように教室へ入ってきて、当たり前のように授業を進めていく。そしてクラスのみんなは、当たり前のようにそれを聞いていた。
理解が追いつかないまま、わたしは結依の背中をそっと突っついた。
結依が軽く振り返って、訝しげにわたしを見た。
「ねえ結依、あの先生、誰?」
当然の疑問のつもりだった。でも結依の反応は違った。
「国語の杉山先生でしょ。もう……」
呆れたようにそそくさと前を向き直す。
――杉山?
確かに杉山先生という名前は知っている。
でも彼女じゃない。
そもそも国語を教えているのは『関先生』だ。女の人じゃなくて、男の先生のはずだ。
異常な光景なのに、周りのみんなはいつもと変わらない。
「はい、テストの答案を配ります。今回は――」
知らない先生の話が続いて、クラスがざわつく。
いつもの光景のはずなのに、わたしだけがぽつんと取り残されているようだった。
胃の奥が、ぐにゃりと捻れる。
手の震えが、止まらない。
――歪み。
時間の歪みが、いるべき人を変えてしまった。
――あり得ない。そんなこと……。
都合のいい言葉が口をついて出そうになる。
でもその気持ちとは裏腹に、震えが手から全身へと広がって、思わず気分が悪くなった。
澪だけじゃない。 今度は先生まで。
このまま続けば、次は誰が――。
「中森明穂さん」
教壇に立つ知らない先生に名前を呼ばれて、わたしはハッと前を向く。
震える足に力を込めて立ち上がった。
この日、わたしはこれ以上何もできなかった。
昼休みは、澪と結依のやり取りを作り笑いで乗り切った。
部活へ行って矢を射続けても、的から外れてばかりだった。
周囲の変化が気になって集中できない。
矢をかけ引く手が途中で止まってしまった。
「明穂、どうした?」
先輩の声に答えられなかった。わたしは黙って弓を置いて、部室へと戻った。
――もう、どうにもならない。
制服に着替えながら、その言葉が頭の中で何度も繰り返された。
これ以上、考えなしにタイムリープを繰り返して。もし身近な誰かが消えてしまったら――そう思うと、わたしは……。
カバンを掴んで、部室をあとにした。
家に帰る足取りが、やけに重かった。色んな考えが、すれ違う人のように現れては消えていく。
家に帰る気になれなかった。
時計はまだ十七時前。
夕焼けに染まり始めた公園が視界に入って、わたしは吸い込まれるように足を向けた。
ベンチに腰かけて、当てもなく考え続けた。
先生はどうなってしまったんだろう。まさか消えたなんて、思いたくない。
結依やコースケのことも気になる。休み時間にでも会いに行けばよかったのかな。でも……怖くて行けなかった。
もしかしたらコースケは、もうわたしのことなんて――。
――いっそ、諦めた方がいいのかな。
だってわたしが悪いんだから。わたしがズルなんてしなければ。
コースケの顔が頭を過る。
コースケのこと諦めるなんて……
頭を抱えて、泣きそうになるのをこらえるようにうつむいた、その瞬間。
「お姉さん、危ない!」
「えっ!」
顔を上げた目の前に、サッカーボールが迫っていた。
「フベッ」
避ける間もなく、ボールはわたしのおでこに直撃した。
「痛い! なによもう!」
踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
怒りのまま、ボールが飛んできた方向を睨みつける。
「ご、ごめんなさい。」
小学生の男の子と目が合った。
あれ?
見覚えがある。
わたしと目が合うなり、その子は目を見開いて声を上げた。
「うわぁ!やべぇ、『進撃の巨人』じゃん。」
しんげき……あっ!
結依を助けたあと、わたしのことを『進撃の巨人』と指差したあの子供だった。
「もう、何してるのよ。危ないじゃない。」
というか、もう盛大に当たっているのだけれど。
男の子がばつが悪そうに頭を掻きながら「ごめんなさい」と謝ったとき、ふとわたしは気がついた。
「一人なの?」
周りを見回しても、誰もいない。夕方の公園。まだ日は高いとはいえ、子供がぽつんと一人でいることに、少し違和感を覚えた。
「そうだけど……、そんなこと言ったらお姉さんだって一人じゃん。」
グサッと、痛いところを突いてくる。
何だか同じ匂いを感じて、わたしはその子に手招きした。
「ちょっとこっち来て。お姉さんに付き合いなさいよ。」
笑顔を作りながら、声をかける。
誰でもいい……いや、違う。
知らない誰かに隣にいてほしい。そんな気持ちから、わたしは彼を呼んでいた。
でもそんなわたしを見て、彼は顔をひきつらせて一歩引いた。
「やだよ。怖いもん。」
――怖い。
グサッと、また何かがわたしの胸をえぐる。
今まで怖いなんて言われたことはない。
かわいい。綺麗。
一応……ちょっとだけ、そういう言葉をもらってきた方だ。
でも今のわたしなら、自分でも少し怖いかもしれない。
「いいから座る。お姉さんにボールぶつけて、ただで帰れると思ってるの。」
ここぞとばかりに、彼の弱みを突いた。
その子は顔を歪めながら、仕方なさそうにボールを拾ってわたしの横に少し間を開けて腰を下ろした。
「名前は?」
「時任 未来」
素っ気なく、そう答えた。
「みらいかぁ! いい名前じゃん」
――みらい。あれ?
どこかで聞いたような気がする名前だ。
心の奥でかすかな引っかかりを感じながら、わたしは彼を見た。
それとも、今のわたしの心情に重なる言葉だから、妙な親近感を覚えるのだろうか。
「わたしはねぇ……」
ちょっと偉そうにお姉さんヅラで声を上げると、みらいは鼻で笑うように言った。
「知ってるよ。明穂だろ、中森明穂。母さんが教えてくれた。」
わたしは満面の笑みで彼の肩に腕を絡めて、告げた。
「明穂さんでしょ、年上なのよ。わたし。」
真顔で上から、おどし……
いやいや、教育的指導を。
そんなわたしを見て、みらいは肩を小刻みに震わせていた。
「それで、みらいは何で一人だったのよ。
友達いないの?」
話し相手を得たわたしは、すかさず彼に話しかけた。
みらいはすぐに首を横に振った。
「違うよ。みんな塾行ったり、遅くなるからって帰っただけ。友達くらいいるに決まってるだろ。」
その言葉にわたしは、内心ホッと胸を撫でおろした。いじめられているわけじゃないらしい。
「じゃあ、みらいも帰ればよかったじゃん。
宿題したり、ゲームしたりさ。」
そこで気づいた。
みらいの顔が、急に険しくなっていた。
「帰りたくない理由があるんだ。
お母さんに怒られたの?」
慎重に声のトーンを落として問いかけるが、みらいは首を横に振るだけで答えてくれない。
わたしはもう一歩踏み込んだ。
「ほら、お姉さんが聞いてあげるから話してみ。こういうときは全部吐き出したらスッキリするよ。」
まるで、自分に言い聞かせているみたいだった。
すると、みらいの重い口がゆっくりと開いた。
「うちの両親、いま喧嘩してて……離婚しそうなんだ。さっき帰ったら喧嘩してたから、逃げてきた。」
思わぬ重さにわたしは目を見開いた。
――しまった。
子供らしい悩みだと思って軽く口を滑らせてしまった。頬を掻きながら、少し後悔する。
でも、聞いてしまった以上、後戻りはできない。
喧嘩の理由を尋ねると、みらいは呆れたようにまた首を振った。
「わかんない。」
ぶっきらぼうに、そう答えた。
「わかんない?」
「うん……仕事がどうとか、子供の面倒がとか言ってるけどさぁ。
俺、なんも悪いことしてないんだぜ。
先生に呼ばれるようなこともしてないし、勉強だって普通にやってるのに。
なんで俺のことで喧嘩するんだよ。
訳わかんねぇよ。」
「そっかぁ!」
答えが思い浮かばなくて、わたしはみらいの頭をくしゃっと撫でた。
大人の都合。
子供には理解できない理由で、大人は簡単に何かを壊してしまう。
みらいのことだって、もしかしたらただの言い訳なのかもしれない。
積もり積もったものか、それともストレスか。
気休めの言葉くらい、思いつきはする。
でもわたしはそれを口に出せなかった。
わたしだって、時間をいじって勝手に誰かの人生を壊しているのかもしれない。
「それで、明穂姉ちゃんは何で一人なんだよ。」
「んっ? わたし!」
いきなり突っ込まれて、わたしはすっとみらいの視線を受け流し、口ごもった。
「ずりーよ。俺だけ言わせて。
明穂も話せよ。
スッキリするぜ。」
妙に馴れ馴れしい態度に口を尖らせて、「明穂さんでしょ、年上なのよ、全く。」と悪態をついて誤魔化す。
けど、みらいの視線はわたしを見続けた。
――聞いてやるよ。
そう言われているみたいに。
――いっか。
どうせ誰にも信じてもらえない話だし。
「あのね……」
わたしは話し始めた。




