七話目 遺された眼差し
始業式が終わり、クラス替えがあったあの日。
わたしは突然意識を失って、階段から落ちた。
混乱する記憶、流れていく記憶……もうほとんど覚えていないけれど、その中に確かに『これ』はあった。
わたしは急に怖くなった。
首筋に冷たいものを押し当てられたような感覚。スマホを持つ手が、かすかに震えていた。
――なんでこれ、知ってるの?
――なんでわたし、手が止まっているの?
自分に問いかけても、答えは返ってこない。
でも確かな既視感……。
いや、それとも――記憶?
このあと、何が起きるのか
――思い出せそうで思い出せない。
――なにこれ。
言い知れぬ不安がじわじわとわたしを包み込もうとしたとき。
「明穂、ちょっと――明穂?」
「明穂さん、どうしたんですか?」
結依と澪の声が、わたしを現実に引き戻した。はっと我に返って、二人の顔を見る。
二人の表情に、心配の色がはっきりと浮かんでいた。
「ねぇ、どうしたの。すごい顔してたよ。」
いつものわたしなら、
――なによそれ、馬鹿にしてるの?
なんておちゃらけるところだ。
でも、よほど酷い顔をしていたのだろう。結依は壊れ物に触れるように、慎重に確かめるようにわたしの顔を覗き込んでいた。その横で澪も、おどおどと視線を揺らしている。
そしてその奥。
コースケの視線が、わたしに静かに刺さっていた。
何も言わない。ただ眉間に深く刻まれた皺と、何か言いたげな表情が、わたしの胸をじわりと締め付けた。
「な、何でもないの。本当に。デジャブってやつかな……これ、前にも体験したことがあるような気がして。なんか変だよね。」
嘘をつく気にはなれなかった。誤魔化す必要もない。ありのまま告げると、張り詰めていた空気がすっと緩んだ。
「デジャブ? 明穂にしては難しい言葉を知ってるわね。」
結依の失礼な一言に、わたしの眉がぴくりと跳ねる。
「やだ! 明穂さんだってそれくらい知ってますよ。ねぇ」
無邪気に聞き返す澪の言葉が、なんだかじわりと痛かった。
「未来の映像かもな。」
さりげなく放たれたコースケの言葉に、わたしの胸が大きく脈打った。
気づけば、手をぎゅっと握りしめていた。
――気づいているの。
まさか、と思いながらも、コースケの妙な鋭さに胸がざわついた。
「予知ね……あり得るかも。」
顎に手を当てて、わざとらしくコースケの話に乗っかる結依。わたしは苦笑いしながら、さりげなく手を振った。
「やだ、やめてよ。わたしそういうの苦手なんだから。気のせいよ、気のせい。ごめん、気を取り直して電話してみるわ。」
――気のせいよ。きっと。
自分に言い聞かせながら、わたしは改めてスマホの画面を開いた。
陽子ちゃんの名前。
震える指に力を込めて、勢いのまま画面をタップした。
スマホから呼び出し音が聞こえてくる。
さっきの既視感がまだ頭に引っかかっていて、スマホを持つ手に自然と力が入った。
みんなの視線が、一斉にわたしに集まっている。
――大丈夫。
そう伝えるように、わたしは小さく微笑んだ。
『もしもし』
陽子ちゃんの声が聞こえた。
「陽子ちゃん! 明穂だけど」
わたしの声を聞いて、みんなが息を飲む気配がした。
「どうしたの? 何か用事……」
「あのね」
わたしは必要なことだけを選んで、話し始めた。
URLを見つけたことは話さない。動画を見つけたことも。コースケの「遺言」という推理も、わたしの予知のことも、全部伏せる。
ただ一点だけ。
本のページに線が引かれていて、その横に『君の口癖』と書かれていたこと。それだけを、さりげなく告げた。
電話の向こうで、陽子ちゃんの言葉が途切れた。
切れてはいない。
考えているのか。唖然としているのか。スマホ越しではまったくわからなかった。
少しの沈黙。
わたしはそれを破るように、声をかけた。
「陽子ちゃん?」
『ああ、ごめんなさい』
「それで、ちょっと気になっちゃって電話しただけなんだけど……」
警戒させないよう、わたしはできるだけ明るい声で続けた。
『ああ、うん……
――ずっとそばにいるよ。
でしょ。誠一さん、よく言ってたわ。あの人、意外とキザだから』
懐かしむような、どこか弾んだ声だった。
「えっ! それで陽子ちゃんはなんて返してたの?」
核心をつく。
『え〜と、確か……
――知ってる。そう返してたわ』
「へぇ。けっこうあっさりだね」
『だって、いつも言ってくるんだもん。流石に飽きちゃったのよ。……でも久しぶりに聞いたわ、そのセリフ』
スマホの向こうで、陽子ちゃんが嬉しそうに笑っていた。
「ありがとう、陽子ちゃん。それだけなんだ。引っ越しの準備はどう?」
『順調よ。今日、業者さんも来るから一気に片付きそうかな』
「うん、また手伝いに行くよ」
『よろしくね』
わたしは静かに通話を切って、みんなに向けてガッツポーズを決めた。
――知ってる。
陽子ちゃんはそう言っていた。あっさりとした、彼女らしい一言。でも二人の姿が頭に浮かんで、自然と口元がゆるんだ。
「やったわね。」
「これで動画見れるかもな。」
「やりましたね。」
口々に声が上がって、ハイタッチが飛び交う。
――本当に、良かったんだよね。
胸の奥に残った小さなトゲが、まだかすかに引っかかっていた。
「まずどれで試す? ローマ字、それとも英文」
結依が一人ずつ顔を見回しながら確かめていく。
「ローマ字じゃないかな。陽子ちゃんの口癖なら、そのままの方が自然だし。」
「俺も賛成」
コースケが即座に手を上げた。
「わたしも明穂さんに賛成かな。」
澪も控えめに手を上げる。
黙って聞いていた結依が大きく頷いて、パソコンの画面に向き直った。
「じゃあ、まずローマ字ね。」
カタカタとキーボードを叩く音がリビングに響く。打ち終わって、あとはエンターキーを叩くだけになった。
「お願い、今度こそ……」
結依が画面に祈りをかける。澪が手を合わせ、コースケは目をつぶり願いを込める。
――お願い、開いて。
わたしも心の中で静かに願った。
――カチッ。
結依がエンターキーを叩いた。
「開いたよ。」
その声と同時に、動画が始まった。
『ああ……ちゃんと撮れてるかな』
誠一さんがそこにいた。
少しはにかんで、照れくさそうに。わたしが予知の映像の中で見た、あの誠一さんだった。
『陽ちゃん……君がこの動画を見ているということは、僕はもうこの世にいないんだよね?』
画面の彼が、こちらに問いかけてくる。
胸の奥がきゅっと締め付けられて、わたしは胸元で静かに拳を握った。
『この動画はね、本当は君の目が見えるようになった時に、一緒に見ようと思って撮りためていたものなんだ』
画面の彼が、陽子ちゃんに笑顔を向ける。
『普段の君が僕にどんな顔で笑って、どんな顔で喜んで……そんな君を僕がどんな表情で見ていたのか、一緒に見ようと思って内緒で撮っていたんだ。
一緒に旅行にも行ったよね。
見えないって怒ってたけど、伊豆の海岸から見た夕日。本当に綺麗だったよ。
もう一緒には行けないけど、その時の動画も本の中に隠してある。
見つけてほしい。それと……』
動画は、まだ続いていた。
部屋の中が静まり返っていた。車の音も、風の音も、時計の針の音すら、耳に届かない。
みんなはこの動画を見て、何を思っているのだろう。
表情を変えないまま、時折誰かが息を飲む音だけが、静かに聞こえてくる。
陽子ちゃんに楽しそうに語りかけながら、笑顔を見せる誠一さん。
彼はこの時、自分が亡くなることを知っていた。
それなのに、彼は笑っている。
泣き顔は見せずに、ただずっと、陽子ちゃんに語りかけ続けていた。
『ずっとそばにいるよ。またね、陽ちゃん。』
動画は、そこで終わった。
誰も言葉を発さない。
終わった画面を、それでもみんなはじっと見つめていた。
まだわたしのトゲは抜けてはいない。
あの既視感がわたしを迷わす。
でも……
――陽子ちゃんに届けなければ。
この動画を……。
わたしは胸元に握っていた拳を、ぎゅっと胸に押し当てた。




