六話目 二人だけの鍵
二人をリビングに残して、わたしは逃げるように玄関へと急いだ。
澪……流石ね。助かったわ。
よくわからない独り言を呟きながら、わたしは玄関を開けて彼女を出迎えた。
「明穂さん、こんにちは!」
髪の向こうから、澪の瞳が弧を描いているのがなんとなく伝わってくる。
「髪、切りに行ったんじゃなかったっけ?」
「切りましたよ。ほら!」
澪はくるりと振り向いて、少し整えられた後ろ髪を見せてきた。
「前髪は……」
「いや、切りましたよ? ほら!」
わからない……。いや、ちょっとだけ整っているかしら。
わたしは目を細めて、そっと顔を近づけた。
前髪の奥、つぶらな瞳がぱちぱちと瞬きをしながら、『似合ってますか?』と無言の圧をわたしに向けてくる。
……言えない。
全くわからないなんて。全然変わってないなんて。
でも、きっと今の澪にはこれが限界なのだ。
心の傷は、そう簡単には溶けない。それでも前髪を切ったという事実。どんなに小さく見えても、それは澪にとって大きな一歩なのだ。
「スッキリしたわね。」
わたしは笑顔で答えた。
「結依とコースケも来てるから、早く上がって。」
澪を促して、二人でリビングへと戻った。
「結依さん、コースケさん、こんにちは!」
澪が挨拶すると、結依とコースケが揃って手を上げた。
「おう、朝比奈」
「遅いよ、澪ちゃん」
馴染んだやり取り。すっかり澪は、わたしたちの輪の中にいる。
「朝比奈、ケーキ食べる?」
「あ、はい。いただきます。」
コースケの声に、澪はすぐに返事を返した。
「それで昨日電話で話してたURLって?」
「うん、これ」
本を見せながら、結依と一緒に調べた経緯を説明する。
「それがこれなんですね。」
澪はパソコンの前に座る結依の横に顔を寄せて、画面を覗き込んだ。
「実はわたし、明穂さんの話が気になって昨日すぐ確認したんです。そうしたら、ありました。同じやつが。」
「えっ?」
わたしと結依が顔を見合わせた。
「これを見てください。」
澪は背負っていたリュックを下ろして、中から本を取り出した。昨日、陽子ちゃんの本棚から貰ってきた三冊のうちの一冊。
ぱらぱらとページをめくって、最後のページに書かれた文字を静かに指差した。
おそらく、同じものだ。
わたしのものとの決定的な違いは、雨に滲んでいないこと。ただ、それだけ。
URLの下に書かれた数字の羅列も、一致している。
さらにパソコンのフォルダーにも、その本のタイトルは確かに存在していた。
「どれどれ、俺にも見せてよ。」
台所からケーキを持ってきたコースケが澪に皿を渡して、そのままするりと澪の持つ本に視線を落とした。
「同じだな。やっぱり……でもさ」
指でページをなぞりながら、コースケの声はどこか冴えなかった。
「これにもフォルダーのパスワードは書いてないな。これじゃ結局……」
そう言いかけた時。
「あの、それなんですけど。」
澪が控えめに、でも少しだけ確かな声を上げた。
「わたし、ちょっとヒントみたいなもの、見つけたんです。」
その言葉に、全員の視線が一斉に澪へと集まった。
「えっ! どこで? 何が書いてあったの?」
思わず澪の肩を掴んで視線を本に這わせるが、URLのほかに変わった箇所は見当たらない。
「えーと、そのページじゃないんです。」
澪は本を持ち上げて、しおりの挟まったページをゆっくりとめくった。
「ここです。」
澪が指を差した場所。
本文の一節に、細い線が引かれていた。そしてその横に、小さな文字で。
――初めてのデートの場所
と、書かれていた。
「これ……」
わたしは澪と顔を見合わせた。
「わたしにもちゃんと見せて。」
結依がわたしの手から本をひょいと奪い取って、コースケと一緒に興味津々といった様子でその文字を眺めた。
「そこ……しおりが挟んであったんです。
最初に見つけた時は何だかわからなかったんですけど、明穂さんと結依さんが見つけた『それ』を聞いて……もしかしてヒントなんじゃないかって思ったんです。」
澪はパソコンの画面を見つめながら、呟くように答えた。
「たぶん、陽子さんにしかわからないパスワードなのかなって。試しに他の本も確認したら、同じように線と書き込みがあったんです。
だからこの本にも、きっと何かあるんじゃないかと思って。」
そう言いながら、澪は『幸福な王子』をそっと手に取った。
「あり得るな。」
「うん、澪ちゃんの言う通りかも。……明穂、本の中身ちゃんと調べた?」
「えっ! まだちゃんとは……」
結依に言われて、わたしは頭をぽりぽりと掻いた。
本の中身は軽くは見ていた。でも後半はページが張り付いている箇所が多くて、まだ全部は確認できていない。
もしかしたら、あのどこかに……。
「じゃあ、わたし気になる箇所があるんです。」
澪が声を上げて、よれよれの本のページをめくり始めた。
「え、どこ?」
「この本、わたし読んだことがあって。
有名なセリフがあるんです。ツバメが王子に言う言葉なんですけど……」
澪は慎重にくっついたページを剥がしながら、素早く文章に視線を走らせていく。
わたしたちは固唾を飲んで、その手元を見守った。
ぺりぺりとページが剥がれていく。
「……ありました。やっぱりこの文章。」
顔を上げた澪の、前髪の奥の瞳が大きく見開かれているのがわかった。
わたしたちは一斉に、澪の指が示す場所に視線を落とし息を飲む。
わずかに滲んではいたけれど、その文字は確かに読めた。
――ずっとあなたのおそばにいます。
ツバメが王子に向けて言う言葉。その一節に細い線が引かれ、横には滲んだ文字で、
――『君の口癖』
と書かれていた。
「君の口癖……」
その言葉を反芻しながら、わたしたちは顔を見合わせた。
「陽子ちゃんの口癖、ってことかな?」
問いかけてみるが、誰も首を縦に振らない。しばらく沈黙が続いた。
「とりあえず、この言葉を打ち込んでみたらどうだ。」
静寂の中で、コースケが静かに提案した。
「うん、そうね。」
結依が『幸福な王子』のフォルダーを開く。パスワードの入力画面が現れて、結依はローマ字でその言葉を打ち込んでエンターキーを叩いた。
「ダメね。これじゃないわ」
肩をすくめて、首を振る。
「じゃあ英語ならどうですか? 『ずっとそばにいます』を英文にするなら……」
澪は少し考えるような間を置いてから、静かに続けた。
「――I'll always be by your side. かな。
でも……お二人の関係を考えるなら……
I'll never leave your side. の方が似合ってますかね。」
すらすらと英文を口にする澪に、わたしは目をぱちぱちとさせた。
す、すごい。わたし、全然わからなかったんだけど。
「う、うん。わ、わたしもそう思ってたわ。も、もう一度言ってもらえる?」
――調子いいわね。
結依も分かってないでしょ。
素知らぬ顔で澪に答える結依を、わたしはジトッと横目で見る。
「は、はい」
澪は気づいていないのか、無邪気な笑顔でスペルを教えていた。
二つとも試してみたけれど、どちらも弾かれた。
結依は両手を広げて、肩をすくめる。
――違うのかな。
しばらくの沈黙の後、結依が本を見つめながら声を上げた。
「ちょっと待って!この言葉、“誰が言ったか”が大事なんじゃない?」
みんなの視線が一斉に結依に集まる。
「例えばこの文章……陽子さんの口癖じゃなくて、誠一さんが陽子さんに言っていた言葉だとしたら。」
目を細めながら、結依が静かに推理を始める。
『ずっとあなたのおそばにいます』
「……目の見えない陽子さんの言葉よりも、誠一さんの言葉の方がしっくりくるもの。
この『口癖』っていうのは、誠一さんがいつも陽子さんに言っていた、『ずっとそばにいるよ』という言葉への返しなんじゃないかしら。」
その場の全員が、息を飲んだ。
まともな推理だった。
古畑もどきの時とは違う。思わず声も出ずに頷いてしまいそうな、完璧な推理だった。
一瞬の沈黙のあと、わたしたちは一斉に結依を褒め称えた。
「さすが結依!切れが違うわ。」
「やるな結依ちゃん。今のまさに名探偵じゃないか。」
「結依さん、すごいです。」
「と、当然よ。」
本人もきっと驚いているのだろう。顔をひきつらせながらも、どや顔を決めて、無駄に大きな胸をつんと張り出してきた。
偶然でもいいわ。
おそらく結依の言っていることは間違いない。
「陽子ちゃんに聞いてみようか。」
わたしはスマホを取り出して、みんなに確認を取った。
陽子ちゃんに教える前に、念のためフォルダーの中身を確かめておきたい。
わたしの予知。コースケの推理。
このフォルダーの中身はきっと「遺言」だと思う。
でも……万が一、陽子ちゃんに伝えない方がいいものだったら。
そんな不安が、胸の奥でじわりと広がっていた。
みんなは静かに頷いた。
満場一致。
――陽子ちゃんに聞いてみよう。
無言のまま、そう伝わってきた。
わたしは意を固めて、スマホの画面を開いた。連絡先の中に陽子ちゃんの名前を見つけて、ふっと息を吐く。画面をタップしようとした、その瞬間。
わたしの指が、不意に止まった。
既視感。
この場面を……わたしは
――知っている。
四つ目の映像ではない。
もっと、ずっと前のことだ。
始業式のあと、階段から落ちたあの瞬間。あの時わたしはたしかに、この場面を見ていた。




