四話目 届かない鍵
翌朝、家のチャイムが鳴り響いたのは、まだ午前中も早い時間のことだった。
歯ブラシを口に咥えたまま、ボサボサの寝癖頭で玄関を開けると、結依が立っていた。
「は、早いわねぇ。」
「当たり前でしょ。」
弾んだ声が、眠気の残る頭に直接響いてくる。
おかしい、と思った。
結依は朝に弱い。いつも駄菓子屋の前で待ち合わせをするとき、彼女の瞼は三分の一ほどしか開いておらず、低くくぐもった声で「おはよう、明穂」とだけ言ってくる。
それが今日に限って、まるで別人のようなテンションだ。
目はパッチリ、自慢の胸を突きだし、やる気に満ちた笑みを浮かべている。
理由など、考えるまでもなかった。
あの本のことに決まっている。
昨夜、電話をしていた時分からすでに、結依の声はどこか浮ついていた。
「謎解きだったら、私に任せて!」
頼んではみたものの、正直なところ不安しかなかった。
「明穂、早く着替えなさいよ。髪もボサボサ。直してあげるから、ほら、早く。」
有無を言わせぬ勢いに押し切られる形で支度を終え、私は昨日の出来事を彼女に伝えた。
もちろん、予知の話は伏せる。本の最後にURLを見つけた、それだけを告げた。
本に書かれた滲んだURLと、数字の羅列を見つめた結依はそっと顎に手を置いて、暫し沈黙した。
「おそらく、動画ね。」
本を手に取り、目を細めて見つめながら、結依は言った。割りとまともな推理だった。
「この下の数字の羅列は、パスワードじゃないかしら。」
細い指でページをなぞりながら、彼女は静かに謎を解きほぐしていく。
「お~う……!」
思わず声が漏れた。
「こんなこと、ミステリーの常識よ。被害者がダイイングメッセージを残す手段としては、もはやテンプレなんだから。」
結依は自信たっぷりに、私の当て付けのように自慢の胸を張り出し、したり顔でこちらを見た。
――結依、違うわ。被害者なんて、どこにもいないもの。
一瞬、突っ込もうかと迷う。けれど、上機嫌な彼女に水を差すのも忍びなくて、私はそっとその言葉を飲み込んだ。
今日の結依は珍しく冴えていた。
動画のURLという推理には、わたしも思わず唸ったほどだ。
でも……動画のサイトって、どこのこと?
動画を扱うサイトなんて、いくつもある。
わたしがよく見る有名どころから、友達がこぞって使っている短い動画の流行りのサービスまで、片手では数えきれない。
滲んだ文字。
本来ならそこにサイトの名前が書いてあったはずなのに、雨に打たれたページは、その肝心な部分をきれいに消し去ってしまっていた。
「どうする、結依?」
問いかけると、結依はニヤリと口角を上げた。
「捜査は足よ。一つずつ、地道に潰していきましょ。」
結依の探偵ごっこは、まだまだ終わりそうになかった。
とりあえず結依の言う通り、動画を扱うサイトを片っ端からリストアップして、メモに書き出していく。
誠一さんが使いそうなサイト……。結依と相談しながらさらに絞り込んで、最終的に十個ほどに候補を絞った。
「ログインのパスワードは、たぶんメールアドレスじゃないかしら。明穂、わかる?」
結依の的確な一言に、わたしはスマホを開いた。
以前、誠一さんから聞いたことがあるアドレス。連絡先を探してみると――まだあった。
画面に静かに表示される、『遠藤誠一』の名前。
ずぼらなわたしは電話帳をほとんど整理しない。もうかけることのない番号も、そのまま残してある。
そんな性格が今日に限って役に立って、わたしはちょっとだけどや顔で結依にスマホを見せた。
あとは手分けして調べるだけだ。
気の遠い作業とは言わないものの、まるで滲んだ間違い探しを解くような、地道な作業だ。
結依はノートパソコンで、わたしはスマホで、リストのサイトを一つずつ開いていく。
有名なサイトから順に試していく。
けれど――
どれも、違った。
画面に並ぶのは、無機質なエラーメッセージばかりだった。
「結依、そっちはどう?」
頭の後ろで手を組んでストレッチしながら尋ねると、結依がキーボードを叩きながら答えた。
「ちょっと待って!今、四つ目試すから。」
エンターキーを叩く音。
少しの間があって。
「――出たわよ。」
「ほんとに!」
わたしは結依の隣に飛び寄って、画面を覗き込んだ。
無数の動画フォルダーが、画面いっぱいに並んでいた。
結依のマウスを動かす手が、その量の多さに思わず止まる。
「すごい量ね。」
「うん……なんだろう、これ?」
フォルダーの一つひとつに、丁寧にタイトルがつけられていた。
「これって……本の名前かな?」
「間違いないわ。下の数字はたぶん日付ね。」
画面を食い入るように見つめながら、結依が静かに言った。
「じゃあ、開いてみよう。」
「そうね。タイトルは『幸福の王子』だったっけ?」
「『幸福な王子』よ。」
さらっと訂正しながら、結依はゆっくりとマウスを動かしてタイトルを探していく。
それは意外と早く見つかった。
フォルダーの一番先頭。最初の動画に、その名前はついていた。
「開いてみるわ。」
「うん……」
結依がマウスをダブルクリックする。
次の瞬間、パスワードの入力画面が現れた。
二人で顔を見合わせて、本に書かれていた数字の羅列を入力してみる。
――開かない。
「違うの?」
「うん、ダメみたい。」
試しに別のフォルダーも開いてみたけれど、やはり同じだった。どうやらフォルダーごとに、別のパスワードがかかっているらしい。
画面の前で、わたしたちは揃って黙り込んだ。
完全に行き詰まった。
わかるわけないじゃない、こんなの……。
パスワードという高い壁が、わたしたちの行く手をどっしりと塞いでいた。
二人の誕生日……いや、小説のタイトルがついているくらいだから、二人にとって特別な思い出やエピソードが鍵になっているのか。
予測は立てられる。
でもピンとも来ないし、小説にまつわるエピソードなんてわたしたちにわかるはずもない。
それでも諦めきれないのか、結依はカタカタとキーボードを叩き続ける。
フォルダーに書かれた小説のタイトル。下の日付。思いつく組み合わせを片っ端から試してみるけれど、どれも壁に弾き返されるだけだった。
「二人の記念日とか知らない? 結婚式の日とか。」
顔を向けながら結依が聞いてくる。わたしは首を振って、両手を上げた。
「十二月に出会ったっていうのは聞いてるけど、日にちまでは流石に覚えてないわ。」
「そっか、そうよねぇ。」
結依もため息をついて、椅子の背もたれにずるりと寄りかかった。
捜査、終了。
わたしたちにできることは、もうなかった。
一旦休憩を挟んで、結依とお茶を飲みながら今後を話し合うことになった。
「やっぱり陽子ちゃんに教えた方がいいよね。」
紅茶の缶のプルタブを開けながら言うと、結依は急に腕を組んで声を潜めた。
「いや、ちょっと待って明穂!」
「えっ、ダメなの……なんで?」
「臭うわ。プンプンと。」
――はぁ。始まったわね。また持病が。
頭を抱えるわたしをよそに、結依は迷推理モードに突入した。
「え〜、中森くん。」
腕を組んで、人差し指でこめかみをポンポンと叩くその姿。
わかるわ、それ。『古畑』でしょ。
「今回の事件……これだけ厳重に守られた動画。やはりここには、ダイイングメッセージが隠されているはずです。」
――違うわ、絶対に。事件じゃないもの。
「いやいや結依。ダイイングメッセージにしては数が多くない? このフォルダー全部にメッセージが入ってるっていうの?」
とりあえず軽くツッコんで、この古畑もどきの出鼻を挫いてみることにした。
結依の動きが止まる。まさかわたしが反撃してくるとは思わなかったのか、目が泳いでいた。
「え〜、中森くん。お手柄だね。……そう、これはダイイングメッセージではない。」
あっさり否定したわね。
「じゃあ、なに?」
わたしは仕方なく付き合ってあげることにした。
「そう、これは……お宝のありかを示す、暗号! これを順番に解いていけば、一繋ぎのお宝に辿り着けるはずだ!」
茶番ね。
もういいわ。
すっかり自分の世界に酔いしれている結依をそっとほっておいて、わたしはパソコンの画面に視線を戻した。
わたしが見た予知の映像は全部で四つあった。
三番目の映像。
誠一さんが真剣な表情で、画面に向かって何かを話している場面。声は聞こえなかったけれど、病室のベッドの上から、まっすぐに語りかけている姿だった。
それはきっと……この動画の中に隠れている。
そしてわたしは、それを陽子ちゃんに届けなければいけない。おそらくそれが、今回わたしがタイムリープした理由だ。
でも。
このまま陽子ちゃんに渡せば、それで良いのだろうか。
彼女はパスワードを知っているのだろうか。
それに――本当に、渡すべきなのだろうか。
陽子ちゃんに本の話を聞こうとしたときの顔。
一瞬戸惑ったように固まった顔。
あのときの陽子ちゃん顔が頭を過り、わたしの心に、小さなトゲのようなものが引っかかった。
そんな時。
――ピンポーン。
チャイムの音が、静かな部屋に響いた。
時計を見る。
――コースケが来た。




