三話目 残された文字
「今日はありがとう。
まだ少し残ってるけど、あとは何とかなりそうだから、今日はここまでにしましょ。」
日が傾き始めた頃、わたしたちの作業は終わりを迎えた。
「はい、これ。少ないけどバイト代。」
陽子ちゃんが封筒を一人ずつ手渡してくれる。
「いいよ陽子ちゃん、そういうつもりじゃないから。」
口ではそう言いながら、内心はちゃっかり嬉しかった。
「いいから、受け取って。本当に助かったわ。」
そう言われてしまえば断る理由もなく、わたしはありがたく封筒を受け取った。
家に帰ると、がらんとしたリビングが出迎えてくれた。
わたしはぽつんと椅子に腰を下ろして、ひとつ溜め息をついた。
今頃みんなは大阪のホテルで、リッチな夕食を楽しんでいるんだろうな。
ユニバにも行きたかったし、本場のたこ焼きも……。
行きたかったな……でも、今はそれどころじゃない。
それに、今夜のわたしにはこれがある。
『宅配寿司』という名の、ささやかな贅沢が。
陽子ちゃんの手伝いに行くと聞いて、そんなわたしのために、「ご飯代」と言って渡してくれた母さんから貰ったお金。
それを今宵は惜しみなく使うの。
一人で。
一人で……
――は~ぁ
結依が「泊まりに行こうか?」と言ってくれていたのに、「大丈夫よ、子供じゃないんだから一人で留守番くらいできるわよ」なんて強がってしまった。
あれは間違いだった。
いつも賑やかな家が、しんと静まり返っている。その静けさが妙に落ち着かない。
暗い廊下の奥に、何かいるような気がする。
家が小さく鳴るたびに、肩がびくっとすくむ。
「大丈夫、大丈夫。いつもの家よ。」
自分に言い聞かせながら、わたしは陽子ちゃんから貰った本をそっと開いた。
本は、思っていた以上に傷んでいた。
雨で波打っているだけでなく、ページが張り付いている箇所もあって、破けないようにそっと剥がすのにも気を使う。
お寿司をひとつ摘まみながら、わたしはふっと息を吐いた。
――予知の映像。二番目に流れたあの場面。
おそらく、病室だ。
カーテンで仕切られた、清潔感のある白い空間。頑丈そうなベッド。誠一さんの書斎にあんな家具はなかったから、間違いない。
そのベッドの上で、誠一さんはスタンドライトを灯しながら、何かを書いていた。楽しそうに、少し笑いながら。
手紙なのか、日記なのか。それはわからない。
――でも。
最初に流れた映像から、ずっと頭の片隅に引っかかっていることがある。
この本の中に、何か残しているんじゃないか。
じゃなきゃ。
こんなヨレヨレの本の映像なんて、わざわざ見せないわよね。
確信とまでは言えないけれど、核心に近い何かが、じわじわとわたしの中に広がっていた。
でも……なんだろう。
誠一さん、いったいこの本に何を残したんだろう。
考えがうまくまとまらなくて、わたしはお寿司をもうひとつ、口の中に放り込んだ。
――そもそもこの本、どんなお話なんだろう。
わたしは表紙に視線を落とした。
オスカー・ワイルド著 『幸福な王子』
記憶をたどったところで、出てくるはずもない。
わたしは小説をほとんど読まないし、読むとしたら漫画くらいだ。それに海外の作品となれば、なおさら。
すぐに諦めて、スマホを開いた。
いつものAIの画面を立ち上げて、指を走らせる。
――オスカー・ワイルド『幸福な王子』の内容を教えて?
数秒後、答えが返ってきた。
――オスカー・ワイルドの名作『幸福な王子』は、自己犠牲と無償の愛をテーマにした、美しくも切ない物語です。
画面をスクロールしながら、わたしは内容を読み進めた。
生前、悲しみを知らずに生きた王子が、死後に像となって町を見渡すようになる。そこで初めて、貧困に苦しむ人々の姿を目の当たりにした王子は、胸を痛める。
やがて、一羽のツバメが像の足元に舞い降りた。王子はそのツバメに頼み、自分の体に飾られた宝石や金箔を少しずつはがして、町中の人たちに届けさせていく。
そしてツバメは息絶え、すべてを差し出した王子は溶鉱炉で溶かされた。
それでも最後に、神様の計らいで、王子とツバメの魂は楽園で永遠に幸せに暮らした。
切ないけど、ハッピーエンド……と言っていいのかな。そんなお話らしい。
「ふーん」
自己犠牲。社会風刺。無償の愛。
そんなテーマで書かれた物語だと、AIは締めくくっていた。
短い説明文。でもそのなかで、ひとつだけ、わたしの目が止まった部分があった。
王子が、両目のサファイアを抜き取られる場面。
――なんだか、誠一さんに似てる。
自分の角膜を、陽子ちゃんに遺してくれた誠一さんと。
思わず、胸が熱くなった。
誠一さんはこの本を読んで、自分の死を悟って、角膜の提供を決めたのだろうか。それとも、もっと前から決めていたのか。
亡くなってしまった彼に、もう確かめる術はないけど、誠一さんなら……きっと前かな。
「う〜ん」
わたしは両腕を頭の上に伸ばして、大きく背伸びをした。
しばらく作業を進めてはみたものの、なかなか思うように捗らない。
「本当にこの中に、何か書いてあるのかなぁ。」
ちょっぴり自信がなくなってきた。
誠一さんが何かを書いていたのは間違いない。でもそれが、この本に書かれていたかどうかは、あの映像だけじゃわからない。
あくまでも、わたしの予測。最初の映像にこの本が映っていた、という――薄い氷みたいに頼りない推理に過ぎないのだ。
もしかしたら、この本の近くにあった『何か』を示す暗示なのかもしれないし、挟まっているのかもしれない。
なんて思いながら軽くパラパラとめくってみるが、当然何も出てこない。
「いつも思うんだけど、わたしの予知映像ってなんか中途半端なのよね。もっとはっきり見せてくれたらいいのに。」
頭の後ろで手を組んで、誰にともなく文句を言ってみた。
引っ越しの手伝いで、少し疲れているのかもしれない。首をぐるりと回して、両肩を軽く上下させる。
それでも気を取り直して丁寧にページをめくり続けると、最後のページに、何かを見つけた。
ボールペンで書いたような文字。でもインクが滲んで、ほとんど読めない。
「エイチ……ティー、ティー……ダブリュー……ダブリュー……あっ!これ、インターネットのURL、じゃない?」
かろうじて判別できる部分を、なぞるように読み上げる。でも後半は完全に滲んでいて、これ以上はどう目を凝らしても判別がつかない。
さらにその下、滲んではいるが読める文字がある。
数字の羅列、そのあとに『to.youko』と書かれていた。
なんだろう、これ。
……ただの落書き、じゃないよね。
……陽子ちゃんへ、ということ?
走り書きだけど、そこだけは一文字ずつ、彫り込むように丁寧に書かれていた。
おそらく、誠一さんが書いていたのはこれだと思う。
でもわかるのは、それだけだ。
インターネット……ね。
しばらく考えてみるけれど、疲れた頭はうまく回らない。
「あーーぁ」
大きなあくびがひとつ、漏れた。
「わたしじゃわからないなぁ。やっぱりこういうのは、彼女の出番よね。迷探偵の。」
わたしはスマホを取り出して、迷わず電話をかけた。
「もしもし、結依? うん、うん……ちょっとお願いがあるんだけど。」
明日会う約束を取り付けて、わたしはそっと本を閉じた。




