九話目 幽霊はもういない
震える肩を、私はそっと抱き寄せていた。
澪の体は、小さくて、驚くほど軽い。
こんな細い体で、ずっと耐えてきたのかと思うと——胸の奥が、じんわりと熱くなる。
しばらくして、彼女の震えは少しずつ落ち着いていった。
嗚咽が、静かにほどけていくのを待ってから、わたしは口を開く。
「……澪。一つ、提案があるんだけど。」
涙で濡れた彼女の顔を見つめながら、言葉を選ぶ。
ふと視線を落とすと、床には例の冊子が転がっていた。
「これ……私に、任せてくれない?」
澪は何も言わない。
けれど、その目は不安を隠しきれていなかった。
「私の友達にね、桃香って子がいるの。今、新聞部にいるんだ。」
“新聞部”という言葉に、澪の指先がきゅっと制服を掴む。
その力を感じながら、わたしは続けた。
「その子に、話してみない? 澪のこと。」
次の瞬間、彼女は強く首を振った。
「ダメ……」
小さな声。けれど、はっきりとした拒絶。
「ダメ、ダメ……そんなの、信じてもらえない。」
縋るように、わたしの制服を掴む手に力がこもる。
「……うん」
わたしは、否定しなかった。
その代わりに、静かに問いかける。
「このまま、逃げ続けるの?」
彼女の肩が、わずかに揺れた。
「あの嘘の記事から、ずっと」
床の冊子に視線を落とす。
「破っても、隠しても……たぶん、何も変わらない。」
顔を上げ澪を見つめた。
「幽霊みたいに生きて、自分を消して——それって、逃げてるだけだよ。」
「……未来、変えようよ。」
そっと、彼女の肩に手を置く。
さっきまで震えていた体は、もう止まっていた。
「でも……」
こぼれた声を、わたしは遮る。
「わたしは、嫌」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。
「友達が、そんな生き方するの、嫌なの。」
彼女を掴む手に力が入る。
「私は、見捨てない。逃げない」
言葉に、少しだけ力を込める。
「もし……それでもダメだったら?」
ちらりと、冊子を見る。
ほんの一瞬、息を吸って——
「そのときは、わたしが破る。」
少しだけ笑ってみせた。
「あんな嘘の記事、わたしが破ってやるわ。
こう見えて、わたし……けっこう強いんだよ。」
拳を軽く握る。
「前にね、友達守るために、変なヤツぶっ飛ばしたこともあるし。」
冗談めかして拳をつき出すと、澪の表情がほんの少しだけ揺れた。
「だから——一緒に行こう。」
まっすぐに彼女の瞳を見つめる。
「私も、ついてる。」
しばらくの沈黙のあと。
澪は、小さく頷いた。
「……うん」
その声は、まだ弱いけれど——
さっきまでとは、少しだけ違っていた。
★☆
次の日。
わたしは澪と一緒に、桃香の教室を訪ねていた。
「桃香、ちょっと……」
声をかけると、彼女は澪の姿を見て、わずかに眉をひそめた。
その視線に気づきながらも、構わず事情を話す。
昨日のこと。冊子のこと。
そして——澪のこと。
「……お願い。部長さんに、会わせてくれない?」
桃香は戸惑いを隠しきれないまま、小さく頷いた。
「……うん」
ちらりと澪を見てから、駆けていく。
残された教室の空気が、やけに重く感じられた。
やがて、わたしたちは新聞部の部室へと案内された。
放課後の部室には、誰もいない。
いるのは——わたしと澪、桃香、そして部長さんの四人だけ。
静まり返った空間で、澪の背をそっと押した。
小さく息を吸って。
澪は、話し始めた。
昨日、わたしに語ってくれたことを——ひとつずつ、吐き出すように。
言葉が落ちるたびに、空気が揺れる。
桃香と部長さんは、時折顔を見合わせていた。
戸惑いと、動揺と、判断しかねる沈黙。
すべてを話し終えたあと。
わたしは、机に置かれた冊子を手に取り、該当の記事を指さした。
「……この記事、外してもらえませんか。」
部長さんはしばらく黙ってそれを見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
そして——小さく、首を横に振った。
「……できないわ。」
短い言葉。
「この子が、嘘を言っている可能性もあるんじゃないの。」
その瞬間。
澪の肩が、びくりと震えた。
わたしはとっさにその肩を抱き寄せる。
「……証拠はあるの?」
重ねられる言葉。
その問いに——
わたしは、息を吸った。
「ありませんよ!」
気づけば、大きな声が出ていた。
「そんなもの。」
自分でも驚くくらい、強い声だった。
視線を、まっすぐにぶつける。
「彼女の話、ちゃんと聞きましたか?」
「この子の姿、ちゃんと見てますか?」
「これが——嘘だって言うんですか。」
怒りに任せ一歩、踏み出す。
「……答えてください。」
部長さんは、何も言わなかった。
沈黙だけが、そこに落ちる。
わたしは冊子を掴み、二人の前に突き出した。
「じゃあ——教えてください。」
声が、震えているのが分かる。
「この記事が本当だっていう証拠。」
「嘘じゃないっていう証明を!」
喉の奥が、熱い。
「わたしは、澪を信じる。」
「わたしは、澪を守る。」
言葉が止まらない。
「こんな記事、認めない!」
「だから——証明してよ。」
息が荒くなる。
自分でも、何をどこまで言っているのか分からなくなる。
気づけば——
三人とも、言葉を失っていた。
澪でさえ、目を見開いて、わたしを見ている。
「……明穂」
桃香の声が、そっと差し込まれる。
「ちょっと、落ち着いて。」
その言葉で、ようやく我に返った。
——やってしまった。
引いた空気。
三人の視線。
自嘲気味に、口元がわずかに歪む。
そのときだった。
「……私も、一度だけ、誰かを傷つけた記事を書いたことがあるの。」
一瞬の間。
澪の顔を見た部長さんは息を吐きながらわたし達に言った。
「……分かったわ。」
部長さんの声が、静かに落ちる。
「この記事は……このまま載せ続けるべきじゃないわね。……その記事は、一旦取り下げましょう。」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
納得したのかどうかは、分からない。
けれど彼女は、澪の方を見て——
「……ごめんなさい。」
短く、そう言った。
澪は何も答えなかった。
ただ、わたしの袖を、少しだけ強く握った。
——それで、十分だった。
こうして。
澪の件は、ひとまず——幕を下ろした。
★☆
そして、三日後。
校門をくぐった瞬間、空気がまるごと変わっていた。
文化祭。
色とりどりの看板が並び、呼び込みの声が飛び交う。
焼きそばの香ばしい匂いが風に乗って流れてきて、どこかで綿菓子を作っているのか、甘い香りがふわりと重なる。
鉄板のはじける音。
笑い声。
どこかの教室から聞こえてくる、妙に気合いの入った呼び込み。
いつもの学校とは、まるで別の場所みたいだった。
校舎の中も、人であふれている。
行き交う生徒たちは落ち着きなく走り回り、
廊下の端では、家族連れがパンフレットを広げている。
小さな子どもがはしゃぐ声に、思わず視線が向いた。
そんな光景をぼんやりと眺めながら——
わたしは、ひとつ息をついた。
……未来は、変わらなかった。
心のどこかで、少しだけ期待していたのかもしれない。
ほんの少しでいいから、ズレてくれないかって。
そんな、わがままな願いもむなしく。
わたしは今。
全身を白い壁で固められた“ぬりかべ”になっていた。
「……やっぱりこうなるのね。」
ぼそりと呟いてみるけれど、返ってくるのは苦い笑い声だけ。
隣では、結依が渋い顔で立っている。
頭には妙にリアルな髪型の被り物。
ゆらり、と不気味に揺れるシルエット。
「……似合ってるよ、ぬらりひょん」
「全然嬉しくない。」
即答だった。
そして、わたしたちは、そのまま——
文化祭で浮かれた学校中を、引き回されている。
……本当に、未来ってやつは。
変わらないところは、変わらないらしい。
けれど。
それでも——
あのとき、確かに変わったものもある。
ざわめきの向こうで、誰かの笑い声が弾ける。
その中に、わたし達を慰める声が混じり合う。
私は、ほんの少しだけ顔を上げた。
「二人とも、似合ってますよ。」
くすくすと笑いながら、私たちの隣で一緒に歩く澪の姿があった。
「やめてよ、澪ちゃん……恥ずかしいんだから。」
先に声を上げたのは結依だった。
わたしは結依に、澪のことを話している。
あの記事のことも、全部。
結依は、泣いてくれた。
澪のために、まっすぐに。
そして——
彼女は、澪の二人目の“友達”になった。
「いいの? わたしたちなんかと一緒で」
周囲の視線を受けながら、小さく言う。
「クラスも違うし、無理に付き合わなくても……」
澪は、首を横に振った。
「いいんです。」
少しだけ笑って。
「私、この前まで“幽霊”だったし。」
くるり、と前髪を指に巻く。
「それにクラスじゃ、“貞子”なんて呼ばれてるから。ちょうどいいでしょ。」
冗談めかした言い方だった。
でも、その奥にあるものを、わたしはもう知っている。
——ひどいあだ名だ。
思わず頬を膨らませていると、澪がふっとこちらを向いた。
「私、髪……切ろうと思うんです。」
わたしと結依は同時に顔を上げた。
「幽霊は——もう卒業します。」
下を向き戸惑いながら……
「……まだ怖いけど。」
それでも、彼女は続ける。
「明穂さんの言う通り、前、向かないと。」
前髪に隠れたままの笑顔が、なぜかはっきり見えた気がした。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
——まあ、今のわたしは全身ぬりかべなんだけど。
「そのときは、結依さん。」
もじもじと視線を落としながら。
「お化粧とか、教えてください。私……やったことなくて。」
「もちろん!」
結依がぱっと笑う。
「澪ちゃん、絶対かわいくなるよ。ね、明穂。」
「うん」
わたしは、迷わず頷いた。
そのとき。
——カシャッ。
乾いた音がして、振り向く。
そこにいたのは、スマホを構えたコースケだった。
「朝比奈、どうしたんだよ。その妖怪たちと。
いつから仲良くなったの?」
「あっ!え~と。」
モジモジと顔を赤らめうつむく澪。
そんな様子をコースケは笑いながら、さらにシャッターを切る。
「消して」
「は?」
「今すぐ消して!」
「やだよ。一生残すし。」
——その一言で、頭の中で何かが切れた。
「ちょっとコースケ!」
次の瞬間、わたしはぬりかべのまま走り出していた。
ドタバタと追いかけ回すわたしと、逃げるコースケ。
その様子を——
結依と澪が、楽しそうに笑っている。
文化祭のざわめきの中で。
笑い声が、少しずつ重なっていく。
焼きそばの匂いと、甘い綿菓子の香り。
騒がしくて、うるさくて——
それでも。
たしかに、ここにある。
逃げなくていい、居場所が。
——その笑い声を、わたしはちゃんと聞いていた。
——幽霊は、もういない。




