一話目 いきたかったのに
なぜ?
どうして?
なんでわたし……こんな事をしてるの?
頭の中でぐるぐると渦巻く疑問符を抱えながら、わたしは段ボール箱をぼんやりと見つめていた。
横では結依がてきぱきと荷物を箱に収めている。その手際の良さが、今のわたしには少し眩しかった。
「はぁ――ぁ」
気づけばまた、溜め息が漏れ、視線が宙をさ迷う。
ここに来てから、何度目だろう。数えるのも嫌になってきた頃、結依の鋭い視線がわたしに刺さった。
「明穂、また手が止まってる。早くしないと終わらないでしょ。」
追い打ちをかけるように、両手に荷物を抱えた澪まで口を開く。
「結依さんの言う通りですよ。さっきからぜんっぜん進んでないじゃないですか。……手伝いませんからね、私。」
「う、うん……」
二人の視線に押されるようにして、しぶしぶ荷物を箱の中へと押し込んでいく。
それでも――
「はぁ――ぁ」
溜め息だけは、止まらなかった。
「ごめんね、明穂ちゃん。折角のお休みなのに、付き合わせちゃって。もう少ししたらお昼にしましょうか。」
奥から聞こえたおばさん……、いや、わたしがずっとそう呼んでいる『陽子ちゃん』の声に、ぱっと顔を上げた。
「はい!」
思わず声が弾む。その返事だけは、今日一番元気だったかもしれない。
――今日わたしたちは、わたしのおばさん、『遠藤陽子』さんの引っ越しの手伝いに来ていた。
作業が嫌なわけじゃない。本当に。
『陽子ちゃん』は、子どもの頃からずっとわたしの遊び相手になってくれた、大好きな人だ。
そんな人の頼みなら、休みの一つや二つ、どうってことない……はずだった。
じゃあなぜ、わたしはこんなに溜め息をついているのか。
理由は別にある――
今この瞬間、わたしの家族はユニバに行っている。
当然、わたしも行くはずだったのに。
★☆
事の始まりは、二週間ほど前に遡る。
その頃のわたしは盛大に浮かれていた。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン。
一度は行ってみたいと夢見ていた、憧れの場所。
実を言うと、もともとはディズニーに行く予定だったのだが……タイムリープの副産物、時間の『歪み』が、行き先をそっくり変えてしまったのだ。
「姉ちゃん、ディズニーじゃなくてユニバだろ、ユニバ。」
弟の明人にそう告げられた瞬間、本来なら驚愕して、背筋に冷たいものが走るはずだった。
でもわたしの心は、真逆の方向に跳び上がっていた。
別に、ディズニーが嫌いなわけじゃない。
ミッキーのかぶり物を被って、シンデレラ城を背に写真を撮りたいし、サンダーマウンテンで「きゃあああ!」って叫びながら両手を上げたい。
夜のパレードで打ち上がる花火を見上げて、ミッキーに思いっきり抱きつきたい気持ちだって、ちゃんとある。
でも――
ディズニーは、もう二回行ったのよ。
だったら次は、西の王者、ユニバでしょう!
ハリーポッターのローブを羽織って、ホグワーツ城を仰ぎ見ながら練り歩きたい。
バタービールを片手に、魔法の杖を振り回して。スパイダーマンのアトラクションでスクリームして、ジョーズの迫力に腰を抜かして。
そして何より――大阪といえば、たこ焼き。
駅前の屋台も美味しいけれど、やっぱり本場で食べるたこ焼きは格別なはず。
外はカリッと、中はとろっとした生地に、ソースとマヨネーズがこれでもかと絡んで……。
想像するだけでよだれが出そうだった。
ガイドブックを片手に妄想を膨らませていたわたしのもとに、陽子ちゃんからの電話が届いたのは、そんな幸せな午後のことだった。
――引っ越しの手伝い。
困り顔のお母さんから伝えられた瞬間、わたしの脳内に天使と悪魔が現れた。
陽子ちゃんの頼み。普段なら迷わず「うん!」と飛びつくところだけど。
ユニバよ、ユニバ。
夢にまで見たあの場所。
憧れのハリーポッターのローブ。
絶対に食べるって決めてた本場のたこ焼き。
陽子ちゃんには悪いと思う。本当に、心の底から申し訳ないと思う。
でも今回ばかりは、誘惑には勝てなかった。
断りの連絡を入れてから二日後。
それはやってきた。
そう、いつものあれ。
タイムリープの合図――予知の映像が。
嫌。
今回ばかりは、絶対に嫌。
何度も、何度も、頭の中に流れ込んでくる映像。
それでもわたしは無視し続けた。だってユニバに行きたいんだもの。
促すように、急かすように、波のように押し寄せてくる予知の映像を、わたしは痛みに歯を食いしばりながら、ひたすら無視し続けた。
そして――当日の朝。
ついに映像が、止まらなくなった。
頭が痛い。
気持ちが悪い。
目を瞑っても、耳を塞いでも映像は流れ続ける。
引き出しから薬を取り出して飲んでみたけれど、そんなものが効くはずもない。
一階からは、旅行の支度をするバタバタとした足音が聞こえてくる。
「明穂、起きてるの? 早く準備しなさい。」
お母さんの声が、階段の下から響いてきた。
急かされている。
でも、それはお母さんの声だけじゃなかった。
――早く戻れ。
早くタイムリープしろ。
頭の中の映像が、そう叫んでいるみたいだった。
……わかったわよ。
戻れば良いんでしょ、戻れば。
もう……っ。
そうしてわたしは泣く泣く
――いや
文字通り本当に泣きながら――タイムリープして、戻ってきたのだった。
――行きたかったのに。
★☆
そして、わたしは今この場にいる。
せめてもの救いは、結依と澪が手伝いに来てくれたこと。それだけが、唯一の心の支えだった。
「やるわね明穂! ちょっと見直したわ。」
「明穂さん、やっぱり優しいんですね。私もお手伝いに行きます!」
二人はそう言って、キラキラした目でわたしを褒め称えてくれた。
違うの結依。褒めないで。
澪も違うの。そんな尊敬の眼差しで見ないで。
胸の中で叫んでも、まさか「予知映像が止まらなくて泣きながら戻ってきた」なんて言えるはずもない。
ありがとう、とだけ答えて、わたしはそっと目を逸らした。
一応にコースケにも声をかけたのだが、今日は妹の面倒を見なければならないからと来られなかったのはちょっと残念。
ただ、明日ケーキを作って持ってきてくれるとのことで――それだけが、今のわたしのささやかな慰め……
ううん、癒しだ。
ありがとうコースケ。
楽しい昼食を挟んで、わたしたちは陽子ちゃんに案内されながら、ある一室へと足を踏み入れた。
「へぇ……すごいですね。」
「ほんとに!」
結依と澪が、目を丸くして声を上げる。
誠一おじさんの部屋。書斎と呼んでも差し支えないその一室は、壁一面を埋め尽くす大きな本棚が圧倒的な存在感を放っていた。
棚には隙間なく本が並んでいて、そこだけ切り取れば、小さな図書館にも見えてしまいそうだ。
「本当に、処分しちゃうんですか? これって……誠一さんの遺品なのに」
わたしが問いかけると、陽子ちゃんは静かに首を横に振った。
「うん、良いの。次の引っ越し先、そんなに広くないから。こんなにたくさんの本は置いておけないわ。遺品は別に取ってあるし……本も、読んでくれる人のところに行った方が幸せでしょ。」
彼女は明るく、吹っ切ったように、淡々と告げた。
「あ、あのう……」
わたしたちの会話を聞いていた澪が、申し訳なさそうに肩をすくめながら口を開いた。
「どうしたの?」
「本……貰っても良いですか? 私、本が好きで、よく読むので。」
「もちろん! 好きなの持っていって。」
陽子ちゃんの言葉に、それまでもじもじしていた澪の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ私も! ミステリーとかありますか?」
結依も便乗して本棚へと突撃していく。
「ミステリー? ちょっと待って、確かこの辺りに……」
片付けそっちのけで本棚を漁り始めた二人を横目に、わたしはある一冊を探していた。
予知の映像で見たあの本。そんなに厚くなかったはず。
何度も何度も繰り返し流れた映像のおかげで、タイトルは嫌でも頭に刻み込まれていた。
視線を這わせ、時折一冊を抜き取りながら、わたしは慎重に棚を辿っていく。
――あった。
本棚の隅に、ひっそりと押し込まれた一冊。
ページの端はよれよれで、表紙は水でもかぶったように歪んでいた。
オスカー・ワイルド 『幸福な王子』




