七話目 見えない私
彼女が指差した先に、わたしの視線が落ちる。
写真の中の人物は、顔まではわからない。
ただ――床に押しつけられ、土下座を強いられている少女の姿だけが、そこにあった。
その背中を、靴が踏みつけている。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
「……あなた、いじめられてたんでしょ?」
乾いた喉の奥から、辛うじて声を絞り出す。
「そう言ったよね。なのに――なんで、そっち側にいるの。」
写真の表面を、強く指で叩いた。
「……笑ってるじゃない。」
言い切るより早く、彼女はぶんぶんと小刻みに首を振った。怯えたように、必死に否定するみたいに。
「私……呼ばれたの。」
「はっ?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
「"お前も来い"って。逆らったら……分かるよな、って」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「公開処刑、するからって」
「公開処刑……?」
その言葉の異様さに、思考が一瞬止まる。
「もしかして、それが……これなの?」
写真を見下ろす。胸の奥が、じわじわと熱くなった。
――なんなの、それ。
やっていることも、言葉も。
全部が、信じられないくらい醜い。
こんなの、ドラマの中だけだと思っていた。なのに――目の前に、ある。
「……じゃあ、なんで笑ってるの。あなた、笑ってるよね。」
もう一度、問いかける。
分かっている気もした。
でも、聞かずにはいられなかった。
彼女は、少しだけ視線を落として――
「……笑えって、言われたの。」
掠れた声は、泣き出しそうなほど震えていた。
「笑いたくなんて、なかったのに。」
彼女は再現するように、乾いた笑顔を私に向ける。
「でも……笑えって」
言葉が、途切れる。
やっぱり。
そう思ったのに――何も言えなかった。
「私ね……何度も連れて行かれたの。」
ぽつり、ぽつりと、記憶の傷口を開くように彼女が紡ぐ。
「典子さんが、いじめられてるところに。"お前も仲間だろ"って。参加しろって。」
「……強要、されてたの?」
「うん」
小さく、力なく頷く。
「でも……手は出さなかった。」
その目は弱々しいのに、どこか意地みたいに私を見据えていた。
「だって、仲間じゃないもん。」
震える声で、はっきりと。
「あんな奴らと……同じじゃない!」
彼女は細い拳を、白くなるほどぎゅっと握りしめる。
「その一線だけは、越えなかった。殴られても……絶対に。」
重苦しい沈黙が、二人の間に落ちる。
けれど――。
「……でもね。」
その一言で、空気が揺れた。
「殴っておけば、よかったのかな。」
「えっ!」
「その方が……楽だったから。」
視線が、落ちる。
彼女は自分の手を見つめていた。
「そ、そんなことない……!」
私は思わず、強く首を振っていた。
否定するように、振り払うみたいに。
冊子を彼女に突きつける。
「殴らなかったんでしょ。あんな奴らと同じじゃなかったんでしょ……!」
感情の昂りに任せて、声が高くなっていく。
「立派じゃない……なんで、"楽だった"なんて言うのよ。」
心のまま、言葉をぶつけた。
けれど――彼女は、静かだった。
冷めた目で、まっすぐ私を見る。
「……あなた、この後のこと知ってる? 典子さんが自殺未遂をした、その後の話。」
記憶を探った。頭の中の断片をかき集める。
「たしか……捕まったんだよね。警察に……」
曖昧なまま答えると、彼女は小さくうなずいた。
「そう。あいつらは捕まった。傷害で。」
まるで他人事のように、淡々と事実が告げられる。
「私も警察から取り調べを受けたわ。先生にも聞かれた。関わってない、いじめられてた、強要されてただけ……そう言った。」
少しだけ、彼女の言葉が揺れる。
「でも、信じてもらえなかった。嘘をつくな、って」
ドクン、とわたしの心臓が跳ねた。
「親にも……信じてもらえなかった。本当のことを話してって……泣きながら。
私……嘘なんて、ついてないのに。」
胸が、引き裂かれそうに痛んだ。数分前の自分を殴り飛ばしたかった。
彼女を疑い、なじるような言葉を投げつけたあの瞬間を、今すぐ消し去りたかった。
「結局、私は不起訴になった。動画に……殴ってるところ、映ってなかったから。誰かが証言したのかもしれないけど……分からない。」
そして――彼女は自嘲するように、口元だけで笑った。
「……それなら、よかったんじゃないの。」
気づけば、そんな言葉が口を突いて出ていた。少しでも彼女の心を軽くできるような、救いになる言葉を選んだつもりだった。
けれど――彼女は、ゆっくりと首を横に振る。
「よくなかった……の。」
その一言が、重く落ちる。
「本当の地獄は、この後だったわ。」
「……地獄?」
血の気が引き、背筋に悪寒が走った。
「落ち着いたあと、学校に行ったら――世界が変わってた。」
彼女の顔が、歪む。
「今度は、クラスのみんなから……学校中のみんなから……いじめられたわ。」
――なんで。
そう思うのに、口から上手く出てこない。
「げた箱やロッカーにゴミを詰められた。
机の上に落書きまでされた。
でもね、一番酷かったのは言葉……」
視線が、そっと私に向けられた。
「"人殺し"って言われた。」
胸が、締めつけられる。
「"お前が死ね"って」
「"のうのうと学校に来るな"って」
息が苦しい。彼女の言葉を聞くたびに、息が何度も止まる。
「誰も殺してない……未遂で終わったのに」
彼女は、自分に言い聞かせるように必死に言葉を紡ぐ。
「殴ってもない……私、殴ってないのに。
見てただけ、本当に見てただけよ。」
声が、揺れる。
「そうしなきゃ……私が典子さんになってた。
……私、悪いの?」
射抜くようなまっすぐな視線を向けられ、私はたじろぎ、目が泳いだ。
「私、何したの?」
答えを求める目だった。
「こんなことなら……殴って捕まればよかった。」
――違う、絶対に違う。
「そうすれば……こんな目に遭わなかった。楽になれたのかな?」
言葉が、静かに刺さる。
「……教えてよ。あなた、教えてくれない?」
詰め寄られて、何も言えなかった。
――優しい言葉も。慰めも。責める言葉も。
どれも違う気がして、選べない。
分からない。
どうすればいいのか、分からない。
「……そのあと、どうなったの?」
絞り出すように聞いた。
答えられなかった。
言葉が思い付かなかった。
だから――逃げた。
答えられずに、逃げた。
彼女は小さく息を吐く。
「学校にいられなくなって……転校したわ」
ふたたび、淡々とした温度のない語り口に戻る。
「学級委員の人から、悪口が書かれた色紙だけもらって。でも良かった……これで終わるって思った。」
少しだけ、遠くを見る。
「新しい場所で、やり直せるって。」
張り詰めた短い沈黙が流れた。
「……でもね。」
その声は、ひどく静かだった。
「許してもらえなかった。転校してすぐ……バレたの。この動画に映ってるのが、私だって」
すべてを諦めたように、力なく彼女の視線が落ちる。
「クラスから無視されて……学校中から無視されて、中学を卒業するまで――
一言も、喋らなかった。
喋らせてもらえなかった。」
「一言も……?」
「うん……声を出そうとすると、喉に冷たい鉛が詰まっているみたいに音が死んでしまうの。
あのときから、私は幽霊になったの。
そこにいるのに、誰にも見えない幽霊。」
その言葉が、胸に刺さった。
「髪を伸ばして、顔を隠して……誰とも関わらないで、ひっそり生きていこうって。」
そして――
「……罰なんだと思う。」
その一言で、空気が止まる。
「典子さんがいじめられてるのに、見てるだけだった卑怯な私の罰。」
彼女は痛々しいほど強く、唇を噛み締めた。
「私……典子さんが、いじめられているのを見て、助かったなんて思ってなかった。」
震える声。
「苦しかった……ずっと、苦しかった。」
彼女の肩が、かすかに揺れる。
「ごめんなさいって……何度も、何度も謝った。」
でも。
「助けなかった私は……あいつらと同じ。」
――だから。
「死んだの」
寂しく、微笑んだ。
「一度、死んで――幽霊みたいに生きるって、決めた。」
その言葉に、私は何も言えなかった。
胸の奥が、熱い。
気づけば――冷たいものが、頬を伝っていた。
袖で拭おうとしても、止められない。
感情が高ぶって、自分ではどうにもならなかった。肩をぎゅっと萎め、天井を仰ぐ。
いま、少しでも口を開いてしまえば、子供のように声を上げて泣き崩れてしまいそうだった。
――酷い。酷い、酷すぎるよ。
もう一度目を拭って、大きく息を吐く。それからもう一度、涙を拭った。
冊子を彼女に見せる。確認するように。
「それで、これを消したかったのね。」
彼女は、私の涙を見つめながら、今度は迷いなく、大きく頷いた。




