六話目 嘘じゃない
私がその名前を告げた瞬間――
朝比奈澪の瞳が、大きく揺れた。
困惑するように。
怯えるように。
――助けを求めるように
消えてしまいそうな、ろうそく炎のように彼女の瞳が揺れていた。
視線が定まらないまま、彼女はただ私を見ている。
私は一歩、踏み出した。
逃がさないように、距離を詰める。
「その冊子、どうするの?」
静かに問いかける。
「破るつもり?」
びくり、と彼女の肩が跳ねた。
さらに、言葉を重ねる。
「それとも――この教室にあるもの、全部壊すつもり?」
わなわなと唇を震わす彼女からは何も返ってこない。
「答えてよ!」
未来で見た“事実”を、そのまま突きつける。
彼女の顔が、はっきりと強張った。
「ち、違う……違う、そんなこと……」
ぶんぶんと首を振る。
必死に否定するその姿に――
私は、声を強めた。
「うそ!」
短く、断ち切るように。
「それも嘘。本当のことを言いなさいよ。」
言い終えた瞬間。
彼女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「わたし……嘘つきじゃない……」
震える声。
「嘘なんて、言ってない……」
か細く、途切れそうな言葉が続く。
「嘘じゃないの……嘘じゃないの……嘘じゃないの……」
何度も、何度も。
壊れたみたいに繰り返して――
「……なんで、誰も信じてくれないの……」
その言葉と同時に。
――ドサッ。
手にしていた冊子が、床に落ちた。
彼女は顔を覆い、うつむいたまま、誰かに訴えるように言葉をこぼし続ける。
まるで――ここにいない“誰か”に向かって。
――誰も?
その一言が、胸の奥に引っかかった。
私はもう一歩、踏み込む。
彼女のすぐ目の前まで距離を詰める。
「違う……嘘じゃない……」
かすれた声で、彼女は繰り返す。
泣きながら、誰かに向かって、否定し続けている。
私は足元に落ちた冊子を拾い上げた。
ゆっくりと、それを彼女の前に差し出す。
「……理由を説明して。」
気づけば、さっきまでの感情は少しだけ引いていた。
代わりに残っていたのは――
確かめなければいけない、という静かな意志だった。
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
目の周りは赤く腫れ、涙でぐしゃぐしゃに濡れている。
――ひどい顔だった。
けれど、それを取り繕う気力すら残っていないみたいに見えた。
彼女は濡れた手で冊子を受け取ると、
小さく息を吐いた。
まるで、何かを諦めたみたいに。
そして――ページを、一枚ずつめくりはじめる。
ペラ……ペラ……。
乾いた紙の音だけが、静かな教室にやけに大きく響いた。
やがて。
あるページで、その手が止まる。
震える指先のまま、彼女はそれを私へと差し出した。
「これって……」
問いかける。
けれど、彼女は何も答えない。
ただ、押しつけるように冊子を渡してくるだけだった。
私は戸惑いながらも、視線をそのページへ落とす。
記事の日付は――去年。
ニュースの記事の引用なのか、大きく貼られた写真と、太い見出しが目に飛び込んできた。
――『見ていただけの罪は、どこまで許されるのか』
『閉ざされた教室で、壊れたもの』
いじめに関する学校新聞の記事だった。
文章を追う。
その瞬間。
――ぴたりと、思考が止まった。
記憶の奥に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
……知ってる。
この事件、知ってる。
普段ニュースなんて見ない私でも、覚えている。
中学二年のとき。
やたらと話題になっていた、あの事件。
――動画が、拡散された。
教室の中で。
複数の女子が、一人の子を取り囲んで。
罵声を浴びせながら、殴って、蹴って。
笑い声すら混じっていた、あの映像。
私も、友達と一緒に見たことがある。
あれは――いじめなんて言葉じゃ足りない。
ただの暴力。
ただの、傷害事件だった。
記事にも書かれている。
被害者の少女は――自ら命を絶とうとした。
未遂で終わったものの、その後。
学校の対応や隠蔽疑惑で、大きく叩かれたはずだ。
「……あなた」
気づけば、声が漏れていた。
「被害者なの?」
問いかける。
けれど、彼女は――静かに首を振った。
そして。
その手が、そっと写真へと伸びる。
震える指先。
ためらうように、なぞるように。
やがて――
「……これ、私なの」
小さく、そう言った。
指差された先。
そこに写っていたのは――
取り囲む側の、一人だった。
――意外な答えだった。
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
私は唇を噛みしめ、ゆっくりと顔を上げた。
そして――彼女を睨む。
軽蔑を隠そうともせずに。
その視線を、彼女は力なく受け止めた。
消えてしまいそうな声で、ぽつりと呟く。
「違う……!」
声が、かすれていた。
「いじめてる側なんかじゃない……!」
息が詰まるように、言葉が途切れる。
「私……私、いじめられてたの……!」
「……」
理解が追いつかない。
私は冊子の写真と、目の前の彼女を何度も見比べた。
白黒の写真。
目元は隠されていて、はっきりとは分からない。
似ていると言われれば、そうかもしれない。
でも――それだけだ。
それに。
どう見ても、写真の中のこの子は“追い詰められている側”じゃない。
囲んでいる側。
逃げ道を塞いでいる側。
それに――
口元。
あれは、怯えている人間の顔じゃない。
ほんのわずかに、笑っている。
……嘘だ。
そう言い切ってしまえば、どれだけ楽だったか。
けれど。
口をついて出たのは、違う言葉だった。
「……説明して」
自分でも驚くくらい、静かな声だった。
彼女は小さく息を吸い――話し始める。
「中学二年のとき私……、部活、頑張ってたの。」
か細い声。
「卓球やってて……。小さい頃から続けてて……だから、部活も一生懸命やった。」
言葉を探すように、ゆっくりと紡いでいく。
「私、目立たない子だったけど……二年のとき、認められて。レギュラーになったのよ。」
「へぇ……」
思わず、声が漏れる。
細い肩。華奢な腕。
正直、運動をしているようには見えなかった。
――意外だ。
そんな感想を胸の奥に押し込みながら、私は続きを促す。
「でもね……」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「そこから……いじめが始まったの。」
空気が、変わる。
「“生意気だ”って。ただ、それだけの理由で。」
言葉が、出なかった。
吐き出すようにこぼれるその声に、何も返せない。
気づけば、自分の指先がわずかに震えていた。
次の瞬間。
彼女の声が、強くなる。
「なんで……」
押し殺していたものが、あふれ出すみたいに。
「私……好きな卓球、頑張ってただけなのに。」
顔を上げ、わたしに訴える。
「確かに、ちょっと浮かれてたかもしれない。
でも――いいじゃない。」
震えながら、それでも言葉をぶつけてくる。
「何がいけないの?」
その問いは、まっすぐで。
「頑張ってきたことを認められて、嬉しくなるのが……そんなに悪いことなの?」
――違う。
彼女は、私に言っているんじゃない。
その言葉は。
あのとき、彼女を傷つけた“誰か”に向けられている。
私は小さく首を振った。
……さっきまでの私は、この子を疑っていた。
それどころか、断罪していた。
「うそ」なんて、言い切って。
……何も知らないくせに。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
「……それで?」
静かに、続きを促す。
彼女は一度、目を伏せた。
「部活、辞めたの。」
「辞めた……」
「手が痛いって……嘘ついて。」
淡々と彼女は言った。
「そうすれば、終わるって思ったから。いじめも、なくなるって
……でも、なくならなかった。」
静かな否定。
「あいつら、ただ私をいじめたかっただけだった。」
声に、少しずつ熱を帯びていく。
「暇つぶしで。殴って、蹴って、悪口言って……それだけ!」
私は、気づけば拳を握っていた。
自分のことじゃないのに。
どうしようもなく、怒りが込み上げてくる。
「だから、我慢したの。」
彼女は続ける。
「そのうち飽きるって。反応しなければいいって……誰にも言わずに。」
急に荒げた声が小さくなる。
「それでね……」
彼女は、かすかに自嘲するみたいに笑った。
「あいつら、諦めたの。飽きたのかな?
無表情で受ける私に、つまらなくなったんだと思う。」
――けれど。
「その代わりに」
言葉が、ゆっくりと落ちてくる。
「別の子を、連れて来ていじめるようになったの。」
胸の奥が、ざわつく。
「それが――」
彼女の指が、写真の中の一人を指す。
「……この子」
私の目が指差す方へと向けられた。
「渡邉典子さん。」
その名前が、静かな教室に落ちた。




