一話目 揺れる日常
わたしは、教室で両手を広げ、小さくあくびを噛み殺しながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
校庭の桜はすでに散り始めていて、薄紅の花びらが春の風に乗り、ひらひらと空へ舞い上がっていく。
枝先には代わりに柔らかな新緑が芽吹き、季節がもう次の段階へ進んでいることを静かに告げていた。
――春、本番。
わたしの名前は、中森明穂。
影森高校二年B組。
今年二年生になったばかりの、ごく普通の女子高生。
この名前の由来は、まあ単純で。
お母さんが昔から 『中森明菜 』の大ファンだったらしく、そこから一文字だけ変えて付けたらしい。
……いや、もう少し他に候補なかったのかな、とは今でも思う。
名前の元になった人は、母に聞かされたあとでYouTubeの動画を見たことがあった。
長い髪に、凛とした佇まい。
歌も上手くて、綺麗で、どこか芯の強さを感じる女性だ。
きっと母は、わたしにもそんな風になってほしくてこの名前を付けたのだろう。
けれど現実は――まあ、真逆だ。
自分で言うのもなんだけど、顔立ちはそれなりに整っている……と思う。
ただ、それだけ…。
面倒くさがりなわたしは、髪もずっとショートカットのまま。
化粧もほとんどしない。
寝坊してボサボサの頭のまま登校し、みんなに笑われたことだってある。
そんなときは、わたしも一緒に笑って誤魔化したこともあった。
――それが、わたし。
ちょっと雑で、ちょっと適当で、
どこにでもいる、普通の女子高生だ。
「明穂、なにぼーっと黄昏れてるの。五月病?」
机に肘をつきながら顔を覗き込んできたのは、友人の 葛城結依 だ。
結依とは高校で知り合ってから、気づけば一番長く一緒にいる友達。
二年生になっても同じクラスで席も前と後ろ、ほぼ毎日一緒にいる。
結依は同い年なのに、どこか落ち着いていて、わたしのいい加減さをさりげなく軌道修正してくれる。
友達というより、少しだけお姉ちゃんみたいな存在で――そして、少しだけ憧れでもある。
「違う違う。ほら、最近あったかいじゃん。ちょっと眠くなっただけ。」
「それを五月病って言うんじゃないの?」
くすっと結依が笑う。
わたしもつられて笑ってしまう。
――いつもの、どうでもいいやり取り。
だけど、こういう時間が一番落ち着く。
結依は、わたしとはだいぶ違う。
ほんのり茶色がかった髪は丁寧に整えられていて、肌も白くて透き通るようだ。
派手ではないけれど、自然なメイクがよく似合う。
淡いピンクのリップに、くるんと上がったまつ毛。
目元はぱっちりしていて、笑うとさらに印象が明るくなる、かわいい女の子。
顔立ちなら――まあ、わたしだって負けてないと思いたい。
でも、ちゃんと手をかけている結依には、どうしても敵わない。
そして何より一番負けている部分。
それは……
胸。
結依の胸は大きい。
前に触らせてもらったことがあるけれど、柔らかくて、妙に弾力があって、プニプニのポヨヨンとしててびっくりした。
わたしはといえば、見事なまでに平らだ。
だから彼女の姿を見るたび、つい自分の胸を確認してしまい、ため息がこぼれてしまう。
「ところで、明穂。昨日の怪我は大丈夫なの?
記憶は…。」
不意に声のトーンが少しだけ落ちた。
その言葉に、わたしは反射的に頭へ手を伸ばした。
昨日、わたしは階段から転げ落ちた。
結依の話では、ただ踏み外したように見えたらしい。
でも自分の感覚としては、足を滑らせたというより――急に意識が途切れた、そんな感じに近かった。
指の痛みはすぐに消えたけど、頭を打ったせいなのか、落ちる直前の記憶がどうにも曖昧だ。
結依に付き添われて帰る途中も、断片的な映像が頭の奥に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していて、少し気分が悪かった。
家に着いてから、お母さんの車で大きな病院へ連れて行かれた。
CTやレントゲンも撮ったけれど、検査結果に異常はなし。
朝起きたころには、記憶の混乱もすっかり治まっていた。
――頭は、たぶん大丈夫。
「けど、他の部分はね。そんなに大丈夫じゃないかも。」
わたしはそう言って、袖とスカートをそっとめくる。
転げ落ちたときにぶつけたところは、ところどころ黒い痣になっていた。
それを見た 結依 は、眉を寄せて小さく肩をすくめた。
「酷いね……でも、それくらいで済んでよかったよ。
頭打って気を失ってたとき、本気で死んじゃうかと思ったんだから。
そのあとも明穂、変なこと聞いてくるしさ。心配したよ。」
顔をしかめながら言う 結依 に、わたしはカラカラと笑って手を振った。
「ほら、わたし、体だけは丈夫だから。これくらいじゃ死なないって。
でも……心配かけたのはごめん。ありがと。」
そう軽く返すと、結依は呆れたように小さく息を吐いた。
「それでさ、今日部活行くの?」
「もちろん行くよ。手がちょっと痛いから軽めに射って終わりにしようと思うけど。なんで?」
「私も早く終わるからさ、帰りちょっと買い物付き合ってよ。」
「了解、了解。じゃあ放課後、終わったら連絡する。」
そうして、何事もないみたいに約束が決まる。
当たり前の放課後。
いつも通りの一日。
――そんなはずだった。
わたしの部活は弓道部だ。
元々運動だけは得意なわたしが一目で気にいった部活。
理由はわりと単純だった。
――かっこいいから。
――落ち着きのない自分を少し変えたかったから。
軽い気持ちで始めたはずなのに、今ではそれなりに夢中になっている。
弓道は、思っていたよりずっと奥が深い。
『射法八節。』
足踏み、胴作り、弓構え、打ち起こし、引き分け、会、離れ、残心。
一つひとつに意味があって、少しでも乱れれば矢は外れる。
静かな競技だけど、集中を途切れさせる隙はない。
その中でわたしが一番大事にしているのは、呼吸だった。
昔、会が待てず、早気になっていた頃、先生に教わった呼吸法。
腹式呼吸とは違う、丹田に意識を落とし、ゆっくり息を整える。
それを身につけてから、的中率は明らかに上がった。
――けれど今日は、うまくいかなかった。
「なんだ明穂、今日は調子悪いじゃん。」
先輩に声をかけられ、わたしは苦笑して首を振る。
「昨日、階段から落ちちゃって。あちこち痛くて、体が全然まとまらないんですよお。」
「はは、そんな日は無理すんなよ。変な癖つくと戻すの大変だぞ。」
「ですよね……」
わたしは早めに弓を片付け、部室を後にした。
結依と合流して、夕方の駅前を一緒に歩く。
彼女との買い物は、なんだかんだ楽しい。
結依はお洒落に詳しくて、わたしが普段入らないような店もいろいろと知っている。
彼女と一緒に歩いていると、自分も少しだけ“普通の女子”に近づけた気がするのが、少し嬉しかった。
「明穂もちゃんとお洒落すればいいのに。
顔も綺麗なんだし、背も高いし、絶対モテるよ。」
いつも言われる台詞に、わたしは両手を広げてため息をついた。
「だって面倒なんだもん。
ズボンの方が動きやすいし、パーカーとかTシャツの方が着たり脱ぐの楽でしょ。」
わたしは昔から、機能優先の人間だ。
「ほんともう……」
結依は頬を膨らませ、呆れたように笑う。
それでも、隣にいてくれる。
そんな時間が、わたしは好きだった。
店を出たあと、結依が足を止めた。
「私このあと、もう一件寄らなきゃいけない店あるんだ。
明穂はどうする?」
「わたしは帰るよ。昨日の怪我、思ったより響いててさ。
早く治したいし。」
「そっか……ごめんね付き合わせて。
じゃあ明穂、お大事に!」
「うん。じゃあまた明日。」
手を振り合い、わたしは踵を返す。
その瞬間だった。
――不意に。
頭の奥で、何かが弾けた。
光とも音ともつかない、不思議な感覚だった。
見覚えのないはずの風景。
映像の断片が、胸の奥に流れ込んでくる。
現実と記憶の境目が、ふっと揺らいだ気がして――わたしは思わず頭を押さえ、足を止めた。
「結依……」
遠ざかっていく彼女の背中に、かすれるような声が漏れる。
もちろん、振り返る気配はない。
街の明かりも、行き交う人も、何ひとつ変わらないはずの日常。
なのにわたしの脳裏には、
さっきまで隣で笑っていた結依の――
変わり果てた姿が、ノイズ混じりの映像となって焼きついて離れない。
――逃げて。
誰の声かも分からない言葉が、
冷たく胸の奥に落ちた。
世界が、少しだけ――壊れて見えた。




