第一章 八話
■前回のあらすじ
・断りなしに伐られた杉の切り株と、斧の来歴
・峠の主に潰された坂下の村。「恨んだら、あかんのやに」。若い防人の「半守」の陰口
・伊勢の宿場の白い餅。尾張で、瓢箪に呑まれた家に出会う
# 八話 ひと口
八千代は瓢箪の家に向き直って、瞼の奥に力を込めた。
瞳の奥が細く絞られる。世界の輪郭が一段鋭くなる。
蔓は生き物だった。瓢箪も生き物だった。蛇の目は生き物の中を覗けない。緑の繭は、八千代の目には、ただの濃い緑の塊にしか見えなかった。
だが、家は物だった。
柱も梁も壁も、物だった。八千代は家の方を読んだ。
家は八十年前に建てられた。建てたのは今の主の祖父で、今の主の母が、この家に嫁に来た。嫁に来た時、その人は十六だった。この家で子を四人産んで、三人を七つまでに山に返して、一人を育てた。育てた一人が今の主だった。
その人は年を取った。年を取って、目が見えにくくなった。足が弱った。嫁が来た。孫が生まれた。その人の寝床が、座敷から板の間へ、板の間から土間の脇へ、土間の脇から納戸へ移った。
納戸。
家の一番奥の、窓のない、三畳ほどの納戸。
八千代は蛇の目を納戸に向けた。納戸の中にあるものを、一つずつ読んだ。古い行李。割れた火鉢。黴びた筵。
それから、瓢箪が一つ。
乾いて、軽くなって、栓をされた、水入れの瓢箪だった。生き物ではない。物だった。
来歴が見えた。
去年の秋、その人が、南の垣根の下に実った瓢箪の中から一番形のよいのを一つ選んでもいだ。もがれた時から、瓢箪は物になった。その人は瓢箪を軒に吊るして乾かしながら、孫たちに話していた。春に皆で種を蒔いたこと。たくさん実りますようにと手を合わせたこと。孫たちも真似をして手を合わせたこと。瓢箪はその声を覚えていた。冬の間に中を抜いて栓をして、その人は瓢箪を水入れにした。
今年の夏になった。その人は納戸から出なくなった。出られなくなった。水入れの瓢箪だけが、その人の枕元にあった。
膳が来なくなった日があった。次の日も来なかった。三日目に、薄い粥が半分だけ来た。
ひと口。
瓢箪が、その人の声を覚えていた。乾いた唇が、水入れの瓢箪の口に何度も何度も当てられて、もう空になった中身を吸おうとした。
ひと口。わしにも、ひと口。
壁の向こうで、家族が夕餉を食べている音がしていた。
ひと口。
その人は、先月死んだ。
◇
八千代は蛇の目を閉じた。
膝が笑っていた。立っていられなかった。地面に手をついた。
「お嬢さん」
「……納戸です」
八千代は顔を上げた。
「家の一番奥の、納戸です。水入れの瓢箪が一つ。それが芯です。……それから」
声が震えた。
「あれは、たくさん実りますように、と言っておりません。ひと口、と言っております。わしにも、ひと口、と」
お菊の顔から、表情が消えた。
村の年寄りが目を逸らした。遠巻きの村人たちの何人かが、顔を見合わせて、それから俯いた。誰も何も言わなかった。言わなかったが、皆、知っていたのだと八千代には分かった。
「……婆さま、納戸に入れられとっただら」
お菊が誰にともなく言った。誰も答えなかった。
「ほうか」
お菊はそれだけ言って、腰の鈴を三つ引きちぎった。
「防人衆! あんたら、うちの後ろについてりん! 蔓を左右に刈って道を開けりん! 納戸まで行くだに!」
◇
五人の防人が、お菊の前に二人、左右に一人ずつ、後ろに一人の形で並んだ。前の二人が鉈で蔓を断ち、左右が鎌で伸びてくる蔓を払い、後ろの一人が腰の袋の塩と灰を撒いた。粉が瓢箪の口に入ると、瓢箪が甲高い声で鳴いて萎んだ。
お菊はその真ん中を、鈴を鳴らしながら歩いていった。
八千代は村の入口に立っていた。立っていろと言われた。目だけ貸せ、と。
「右の柱の陰から、太い蔓が一本! 下から来ます!」
八千代が叫ぶと、右の防人が鎌を振り下ろした。地面から跳ね上がってきた蔓が断たれて、のたうった。
「戸口の上! 瓢箪が三つ、落ちてきます!」
前の防人が鉈を振り上げた。落ちてきた瓢箪の一つが真っ二つになり、もう一つを左の防人が鎌の柄で叩き落とし、三つ目がお菊の肩に食らいつきかけて、お菊が鈴を一つ瓢箪の口に放り込んだ。瓢箪の中で鈴が鳴って、瓢箪が内側から弾けた。
家の中は見えなかった。八千代の目に見えるのは家の柱と梁と壁だけで、その間を這い回る蔓は、柱を這う時に柱の来歴を乱すことで、かろうじて形が分かった。柱の八十年のどこかが、ぐにゃりと歪む。歪んだところに蔓がある。
「土間の右! 梁の上を、太いのが納戸の方へ逃げていきます!」
お菊が土間に踏み込んだ。防人の一人が蔓に腕を取られた。もう一人が鉈で断ち切った。断ち切られた蔓の先の瓢箪が、防人の腕に歯を立てたまま萎んでいった。
納戸の戸が、蔓で何重にも縫い付けられていた。
「槌!」
お菊が叫んだ。後ろの防人が背負っていた木槌を渡した。お菊は小さな体で木槌を振りかぶって、蔓ごと納戸の戸を叩き割った。
割れた戸の向こうの闇の中で、乾いた水入れの瓢箪が、ぼうっと、薄黄色く光っていた。
その光から、無数の蔓が四方へ伸びていた。家じゅうに。家の外に。村じゅうに。
ひと口。
八千代の耳に、声が聞こえた。耳ではなく、蛇の目の奥に。
ひと口。わしにも。ひと口。
お菊は瓢箪の前に膝をついた。木槌を下ろして、両手で瓢箪を拾い上げた。蔓がお菊の腕に、肩に、首に巻き付いた。瓢箪たちが一斉にお菊の方へ口を向けた。
「婆さま」
お菊は瓢箪に向かって言った。
「ひもじかったなあ。ひもじかっただら」
蔓の締め付けが、止まった。
「ようけ実ったでね。婆さまの瓢箪、村じゅう実っとるでね。もうええだに。もう、ひもじいのは、ええだに」
お菊は瓢箪を、左手に持ったまま、右手で腰の小刀を抜いた。
「恨みの方は、うちがもらってくでね。婆さまは、最初の方だけ持ってきりん」
小刀の柄頭で、瓢箪の首を、こつん、と叩いた。
乾いた瓢箪に、細い罅が入った。
罅から、黒い煙のようなものが、しゅうっと噴き出した。煙は天井の方へ逃げようとして、お菊が撒いた塩に触れて、じゅっと音を立てて消えた。煙が噴き出すたびに、家じゅうの蔓が一本ずつ枯れていった。瓢箪の口が一つずつ閉じて、ただの瓢箪に戻っていった。
煙が出尽くした。
割れた瓢箪の中に、小さな、薄黄色い光の粒が一つだけ残っていた。
たくさん、実りますように。
八千代には、そう聞こえた。
◇
お菊は懐から紙を一枚取り出して、手早く折った。小さな舟の形だった。光の粒を、その舟の上にそっと載せた。
それから、歌い始めた。
三河の言葉で、八千代の知らない古い短い歌だった。前歯の欠けた口から少しだけ息の漏れる歌声で、子守唄のような調子だった。
実ったよ、実ったよ。
もう、ええよ、ええよ。
ひもじないよ、ひもじないよ。
お山で、腹いっぱいだよ。
もう、ええよ、ええよ。
お菊は舟を持って、村の脇を流れる小川まで歩いていき、水の上に舟を浮かべた。舟は光の粒を乗せたまま、ゆっくりと流れていった。下流へ。海の方へ。やがて見えなくなった。
瓢箪の家は、枯れた蔓に覆われたまま、しんと静まり返っていた。
八千代は小川の縁に立って、舟が消えていった方角をじっと見ていた。
「……お菊殿」
「なんだん」
「祓う、とは、消すことではないのですね」
お菊は八千代の隣に立って、同じ方角を見た。
「消すもんもあるだに。恨みの方は潰した。潰さな、また育つでな。育ったら、また誰ぞが食われる。けど婆さまの最初の願いは、恨みとは別もんだら。そっちまで潰したら、婆さまがかわいそうだに」
お菊は腰を叩いた。
「鎮めて、流して、遠ざけて、境を戻す。消すもんと消さんもんを見分けて、消さんもんは返してやる。それが祓うゆうことだに。……見分けるのが、いっとう難しいでね。あんたの目は、ええ目だに」
八千代はその言葉を、胸の内の帳面に書き留めた。
鎮めて、流して、遠ざけて、境を戻す。
◇
村の庄屋が、潰れかけた家の前に、家の者たちを呼び出した。
主の男と、その女房と、八つくらいの男の子と、五つくらいの女の子だった。男は青い顔をしていた。女房は俯いていた。子供たちは何が起きているのか分からない顔で、母親の着物の裾を掴んでいた。
庄屋は村人たちの前で、短く言った。
「この家から祟りが出た。親を納戸で干したで、出た。牛が一頭死んだ。隣の子が指を二本なくした。防人が三人怪我をした。祓士さんが通りかかってくれなんだら、明日は村ごとだった」
誰も何も言わなかった。
「村の定めにより、この家の者は、今日のうちに村を出る。持ってけるもんは、背負えるだけ。戻ることは許さん」
男が地面に手をついた。女房が子供たちを抱き寄せた。
お菊は何も言わなかった。防人たちも何も言わなかった。村人たちも何も言わなかった。
八千代は口を開きかけた。
開きかけて、閉じた。
何を言えばいいのか分からなかった。子供には罪がない、と言いたかった。だが言えば、あの納戸で、ひと口と言いながら死んでいった人に、罪がないとは誰が言うのだろう。この村に罪がないとは誰が言うのだろう。この村の人たちは皆、知っていたのだ。知っていて、黙っていたのだ。黙っていた罪は、誰が負うのだろう。
八千代には分からなかった。分からないまま、口を閉じた。
その日の夕方、四人は背負えるだけの荷を背負って、村を出ていった。誰も見送らなかった。
村の外れの道で、五つくらいの女の子だけが、一度だけ振り返った。
枯れた蔓に覆われた家を。それから、村の入口に立っていた八千代を。
八千代は目を逸らさなかった。逸らしたらいけない気がした。
女の子は母親に手を引かれて、また前を向いた。
「……あの子らは、どうなるのでございますか」
「さあなあ」
お菊は女の子の小さな背中を見ていた。
「どっかの村が拾うかもしれん。拾わんかもしれん。親は、もう、どこの村でも用心されるでな。祟りを出した家だで」
「……あんまりでございます」
「ほうだな。あんまりだに」
お菊は否定しなかった。
「けど、村ごと食われるよりは、ええ。この村にも子は三十人おる。あの家を村に置いといたら、村の者は、毎晩あの家の方を見て、また出るんじゃないか、また出るんじゃないかと思う。そう思いながら暮らしたら、今度は、その怖さが祟りになるだに」
八千代は黙っていた。
「日輪の掟はな、優しいようには出来とらんでね」
お菊は言った。
「生き残るように出来とるだに」
◇
その晩は、尾張と三河の境の川べりの宿に泊まった。
八千代は行灯の石の灯りの下で、四日分の帳面を開いた。書き留めきれなかったことが胸の内に溢れていた。
まず言葉を書いた。京の言葉。どす、おいでやす、おおきに、さかい、へえ。伊勢の言葉。やに、やんか、ほんま。近江の言葉。さけ、やし、それだけのこっちゃ、それから、あの漁師の言葉の終わり方。尾張の言葉。だがや、だで、だわ。三河の言葉。だら、だに、だもんで、りん、かん。
土地ごとに言葉が違う。山と川で隔てられた谷ごとに、違う形で言葉が生きている。出雲の言葉はどこにでも行ける。日輪の言葉は、その土地で根を張る。
筆を止めて、それから、問いの頁を開いた。
百二十八番。日輪の娘は何歳から女か。
八千代はその下に書いた。歳ではない。見た目で決まる。わたくしは、ここでは女である。神にとっても、人にとっても。
百二十九番。届け出をしない祝人は、どうなるのか。
これには、まだ答えを書けなかった。運のええ子どすわ、と言った役人の柔らかい声と、縄を解かれないまま冷たくなっていった細い手首のことを思い出して、八千代は、運のよい子と悪い子がいる、とだけ書いた。
それから、四日のことを書いた。
沢の淵の冷たい指。森の境の白い包みと、三晩番をする防人。ひだると、脛を削がれた十五の少年。京の高札と送り火と、六条河原の白い筵。眠るように逝った十七の娘と、握り飯一つで山へ入った十一の子。卯吉殿の落とした握り飯。霧の割れ目と、半刻遅かった防人の倅。踊り納めの晩の、掴まれた手首。峠の熱い息と、開けなかった目。坂下の村の、二つの小さな包みと、恨まんのやに、と言った女。納戸の水入れの瓢箪と、ひと口。村を出ていった四人と、振り返った女の子。
筆を止めた。長いこと止めていた。
それから一行だけ書いた。
この地の神は、理不尽である。
書いて、しばらくその一行を見つめた。それから筆に墨を含ませて、一本の線で消した。
違う。理不尽だと思うのは、八千代が他所者だからだ。自身の物差しと出雲の物差しの尺度で、日輪という世界を測っているからだ。日輪の人たちは、理不尽だとは一度も言わなかった。お菊も、おとくも、西京の女将も、湖の漁師も、坂下の女も。誰も。
八千代は消した一行の隣に新しく書いた。
日輪では、神は隣人ではない。家主である。人はその軒先を借りて生きている。家主は、店子と鼠の区別をつけない。
それから、もう一行書いた。
日輪は過酷だ。
書いて、また消した。
違う。過酷なのではない。真剣に生きなければ、生き残れないのだ。悲しいのを悲しいだけにして、恨まず掟も曲げずに、それでも掟の外の草むらに握り飯を一つ、置き忘れたふりをして置いていく。
八千代は消した一行の隣に書いた。
日輪の掟は、優しいようには出来ていない。生き残るように出来ている。優しさは、掟の外に、そっと置いてある。
筆を置いた。
窓の外で虫が鳴いていた。川の向こうの三河の森が、夜の中で黒く深く息をしていた。どこか遠くで獣が一声吠えた。
『八千代』
瑞雲が枕元でとぐろを巻いたまま言った。
『帰りたい?』
八千代はすぐには答えなかった。
帰りたいかと訊かれれば、帰りたかった。出雲の、何も起きない、何にも意味の付いていない夏の川に、裸足で入りたかった。誰にも見られずに膝を抱えて汽車に乗りたかった。
だが、帰りたいと同じくらい、明日が見たかった。明日の三河の森が、明日の綾月の顔が、まだ書いていない百三十三番目の問いが。
「……明日、綾月様に、お会いしてから考えます」
『ずるい答え』
「大人の答えでございます」
『十歳でしょ』
八千代は答えずに、行灯の石に布を掛けた。
■次回予告
・三河の後宮
・あやめと、お菊の別れ
・鬼姫綾月との再会




