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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 七話

■前回のあらすじ

・寅吉の知らせで駆け付けたお菊に連れ戻され、祭りの晩の意味を知る。日輪では、見られる側

・鈴鹿の茶屋の通り札。山立の目を借りて峠を越える

・峠の主のお通り。伏せて、蛇の目を閉じたまま耐える

# 七話 坂下の村


 峠を下りる途中、道の脇にいくつか切り株があった。


 新しい切り株で、切り口はまだ白く、樹液がじわりと滲んでいた。籠の幅ほどもある大きな杉だった。切り株の周りに、斧と鋸と草鞋が散らばっていた。それから、黒く乾いた染みが、地面の広いところを覆っていた。


 切り株の倒れた先の森が、えぐれていた。


 何か途方もなく大きなものが、木々を薙ぎ倒しながら、峠の下の方へ、まっすぐに駆け下りていった跡だった。


「……誰ぞ、断りなしにこんなに伐ったんだら」


 お菊が手を合わせて低く言った。


 八千代は染みには近付かなかった。代わりに、切り株の脇に落ちていた斧を見た。斧は物だった。物の来歴なら、蛇の目で読める。


 読むべきかどうか、少し迷った。迷って、読んだ。


 斧は伊勢の鍛冶が打ったものだった。柄は三度すげ替えられていた。最初の持ち主は年寄りで、次がその息子で、今の持ち主はその孫だった。孫の手は大きくて、指の付け根に胼胝があった。斧は毎朝研がれていた。研ぐ横で、小さな子供が五人、順番に斧の刃に指を近付けては叱られていた。


 孫の手が、この杉に向かって斧を振り上げた。


 良い木だ、高く売れる、と誰かが言った。冬を越せる、と別の誰かが言った。斧が杉に食い込むたびに、手の持ち主は笑っていた。


 それから森が息を止めた。


 八千代は蛇の目を閉じた。その先は、見なかった。


「お菊殿。この方々は、悪い人だったのですか」


「さあなあ」


 お菊は切り株を見下ろした。


「家に子が何人もおって、食わせにゃならんで伐ったんかもしれん。ただの欲で伐ったんかもしれん。どっちかは、うちには分からん。……けど、主さんには、どっちでも同じだら」


◇


 峠を下りきったところに、坂下の村があった。


 村の入口で、人が集まっていた。


 集まって、黙って、村の一番奥の家の方を見ていた。


 家は、なかった。


 家のあったところに、柱が何本か折れて突き立っていて、屋根の茅が辺り一面に散らばっていた。家の裏の材木置き場の杉の丸太が、全部、地面に押し潰されたように平らになっていた。辺りの土が深く抉れていて、その抉れの形が、大きな、大きな獣の前足の形をしていた。


 女が一人、潰れた家の前に座り込んでいた。泣いてはいなかった。膝の上に、小さな子供の草履を一つ載せて、黙って座っていた。


 その脇で、三人の男が穴を掘っていた。皆、野良着の上に革の胸当てを着け、腰に鉈を差していた。防人だった。三人のうち一人は片腕を布で吊っていた。


 掘った穴の脇に、筵に包んだものが四つ並んでいた。大きいのが二つと、小さいのが二つ。


「……ゆうべ、来なさった」


 片腕を吊った防人が、お菊に気付いて、掘る手を止めずに言った。


「主さんが峠から下りてこられた。夜中にな。わしら五人で門の前に立った。立つしかなかったんやさ」


「何で、主さんが下りてきなさった」


「材木置き場に、祟りが湧いとった」


 防人は穴の底に鍬を突き立てた。


「欲の祟りや。伐った杉の丸太の中に、伐った者らの、もっと伐りたい、もっと売りたいゆう欲が溜まって湧いとったんやに。わしらは知らなんだ。見えなんだ。祝人のおらん村やで、見えん。……主さんには見えとった」


「ほんで」


「主さんは、祟りを潰しなさった。祟りのおった材木置き場ごと、隣の家ごと、家におった者ごと。門の前に立っとったわしらのうち二人ごと」


 防人は筵の包みを見た。


「主さんは、わしらと祟りの区別なんぞ、つけなさらん。濁ったもんがあったで、潰しなさった。それだけや。……伐った三人は峠で食われて、この家は、伐った者の家やった。子が五人おったんやに」


 小さな包みは二つだった。


 八千代は数えてしまって、数えたことを悔やんだ。


 五人のうち、三人は助かったのだろうか。助かった三人は、どこにいるのだろうか。膝の上に草履を載せた女の周りに、子供の姿は見えなかった。


「あと半日早う、祓士さんが通りかかってくれとったらな」


 防人はそう言って、また穴を掘り始めた。


 責める口調ではなかった。ただ、そう言った。


 穴の向こうで、もう一人の若い防人が、鍬を振り下ろしながら低く言った。


「半守(はんもり)さんらは、都の偉いさんの門なら何十人で守っとるのにな」


 口の中で言ったような声だった。それでも八千代の耳には届いた。片腕の防人が「やめとけ」と短く言った。若い防人はそれきり黙って、穴を掘り続けた。


 お菊は聞こえなかったような顔で、塩を撒き続けていた。


 半守、という言葉を八千代は知らなかった。知らないまま、胸の内の帳面の端に書き留めた。


 お菊は黙って、腰の袋から塩を出して、潰れた家の風上から撒き始めた。祟りの残りかすが、もうないことを確かめるように、丁寧に。寅吉と卯吉が黙って鍬を借りて、穴を掘るのを手伝い始めた。


 八千代は何をすればいいのか分からなかった。


 分からないまま、潰れた家の前に座っている女の隣に、黙って座った。女は八千代の方を見なかった。八千代も女の方を見なかった。二人で、潰れた家の方を見ていた。


 しばらくして、女がぽつりと言った。


「恨んだら、あかんのやに」


 伊勢の言葉だった。


「恨んだら、祟りになるでな。うちの人の欲が祟りになったんやに。今度うちが恨んだら、またうちの家から祟りが出るやんか。……ほやで、恨まんのやに」


 女は草履を握りしめていた。


「恨まんのやに」


 八千代は何も言えなかった。


 悲しいのは悲しいだけにしておく。関所の役人に言われた時、それは心がけのことだと思った。京の女将が言った時、それは強さのことだと思った。


 今は、それが、この地の人が自分の身を守るための、ぎりぎりの線なのだと分かった。恨めば、祟りが生まれる。祟りが生まれれば、神が来る。神が来れば、また誰かが潰される。


 だから恨まない。恨めない。


 悲しみを悲しみのまま、腹の底に沈めて、それでも明日、田に出る。


 八千代は女の隣で、女が草履を握りしめている間じゅう、ずっと座っていた。


◇


 その晩は、峠の伊勢側の宿場に泊まった。


 寅吉と卯吉の生まれ在所に近い宿場で、二人は宿に着くなり、宿の名物の、こし餡を薄い求肥で包んだ白い餅を山ほど買ってきた。


「お嬢さん、食べ。これ食べたら元気出るやんか」


「峠越えたらこれ食べなあかんのやに。決まりやに」


「決まりではないやろ」


「決まりやに。兄やんが決めたんやんか」


「わしは決めてへん。お前が決めたんや」


 二人がいつもの調子で言い合うのを聞きながら、八千代は餅を一つ食べた。甘かった。昼から何も食べていなかったことに、食べてから気付いた。二つ目を食べて、三つ目に手を伸ばして、気付いたら泣いていた。


 寅吉と卯吉が、言い合うのをやめて黙った。


 お菊が八千代の背中を、とん、とん、と叩いた。


「泣いてええだに。泣くのは恨むのとは違うで」


「……はい」


「餅は全部食べりん。寅と卯が、なけなしの銭で買うてきたんだで」


「なけなしやないわ」


「なけなしやに」


 八千代は泣きながら、四つ目の餅を食べた。


◇


 四日目、伊勢の平野を抜けて尾張に入った。


 森が少しだけ遠のいて、代わりに田が広がった。出雲の田よりずっと小さく不揃いな、川の曲がりや森の縁に合わせて形を変えた田だった。その畦に案山子が立っていた。案山子の胸には白い札が貼られて、墨で字が書いてある。鳥避けではなく祟り避けの祓札で、田に湧く小さな祟りを寄せ付けないためのものだとお菊が教えてくれた。


「田の祟りは、たいがい妬みだでね。隣の田の方がよう実っとる、うちの田は実らん、ゆう妬みが溜まって湧く。だで、どこの田にも同じ札を貼る。どこの田も同じだ、妬むことはない、ゆうてな」


 八千代は案山子の札の字を帳面に写した。写しながら、どこの田も同じだと札に書いて田ごとに貼るというのは、ずいぶん人の心をよく知ったやり方だと思った。


 出雲の田には、札の代わりに鎮杭(しずめぐい)が立っている。一町に一本、膝ほどの石の杭が神気の溜まりを吸って、祟りの湧きを抑える。けれど杭は、妬みまでは吸わない。


 昼過ぎ、小さな村を通りかかった。


 村の入口で、村人たちが遠巻きに一軒の家を囲んでいた。


 その家が、瓢箪に呑まれていた。


 文字通り呑まれていた。瓢箪の蔓が家の壁を這い上がり、屋根を覆い、窓を塞ぎ、戸口を塞いで、家全体を緑の繭のように包み込んでいる。蔓には瓢箪が何百と生っていた。大きいのも小さいのも、青いのも黄色いのも。見ている間にも蔓がぐんぐん伸びて、新しい瓢箪がぽこ、ぽこと実っていく。


 実った瓢箪の一つ一つに、口があった。


 瓢箪の腹が横に裂けて、裂け目の中に、小さな歯が並んでいた。


 家の前で、五人の防人が鎌と鉈を振るっていた。伸びてくる蔓を片っ端から刈り払っているが、刈ったそばから新しい蔓が伸びる。一人が蔓に足を取られて引き倒され、仲間が慌てて蔓を断ち切って引きずり戻した。引きずり戻された男の脛に、瓢箪が一つ食らいついていた。


「お菊さんやないか!」


 村の年寄りがお菊を見つけて駆け寄ってきた。尾張の言葉だった。


「えらいことだがや。三日前から、あの家の瓢箪が止まらんのだわ。昨日、隣の家の子が蔓に引っかけられて、瓢箪に指を二本食われた。今朝は牛が一頭やられた」


 だがや。八千代は帳面を開く暇もなく胸の内に書き留めた。


「中の者は」


「裏口から、なんとか逃げたわ。けど家がまるごとあれだで。蔓が隣の家まで来とる。……このままだと、明日には村ごとだがや」


 お菊は瓢箪の家を目を細めて見て、それから八千代の方を振り返った。


「お嬢さん。あんたの目で見てみん。あれの芯がどこにあるか」


「……よろしいのですか」


「ええだに。あれは神さんじゃないで」


■次回予告

・蛇の目が読む、家の八十年

・「ひと口。わしにも、ひと口」

・祓うとは、消すことではない


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