第一章 六話
■前回のあらすじ
・追い山の十一の子に、卯吉が握り飯を「落として」いく。掟を破らぬ情けの置き方
・淡海の主のお通り。半刻遅かった防人の倅と「恨んで、どないすんねん」
・盆の踊り納めの晩、唄を書き留めていた八千代の手首を、誰かが掴む
# 六話 踊り納めの晩、峠の主
若い男だった。
日に焼けて、酒の匂いがした。男は八千代の手首を掴んだまま、にこにこと笑っていた。
「見ん顔やな。どこの娘や」
「出雲から参りました。旅の者にございます」
「出雲か。ほうか。旅の娘も、踊り納めに来たんか」
「唄を書き留めておりました」
「唄か。唄やったら、森の方がよう聞こえるで」
男は八千代の手首を軽く引いた。
八千代は抗わなかった。森の方がよく聞こえる、という意味が分からなかった。森の中で何か別の唄があるのかもしれない、と思った。踊り納めの晩にしか唄わない、森の中だけの唄が。
「森の中でも、唄うのでございますか」
「唄う唄う」
男は笑った。
「輪を離れて手ぇ取られたら、もう返事したんと同じやさけ。ほな、行こか」
返事。何の返事だろう。八千代は首を傾げた。
二歩、引かれた。三歩目で、反対の手首を、小さな手が、痛いほどの力で掴んだ。
「その子は、うちの子だに」
お菊だった。
寝間着の上に野袴を引っ掛けただけの姿で、髪はほどけて、裸足だった。お菊は八千代の手首を掴んだまま、男の方を見上げた。お菊の後ろで、寅吉が膝に手をついて肩で息をしていた。顔が酒で赤かった。
「放しりん」
「なんや婆さん。この娘は輪の外におったで。手ぇ取ったら」
「他所の子だに。何も知らんだに。輪の外におったんじゃない。輪の外で、唄を書いとっただけだら」
男は八千代を見た。八千代の手の中の帳面と矢立を見た。それから八千代の顔を、もう一度見た。
「……書いとった?」
「放しりん、ゆうとるだに」
お菊の声が低くなった。腰の鈴に手がかかっていた。
男は舌打ちをして、八千代の手首を放した。
「紛らわしいとこに立っとるな! 女の顔して」
男はそう言い捨てて、別の娘の方へ歩いていった。その娘は男が手を差し出すと、くすくす笑って、その手を取った。二人は森の暗がりの方へ流れていった。
◇
宿に戻るまで、お菊は一言も喋らなかった。
部屋に入って、障子を閉めて、行灯の石に布を半分掛けて、それから八千代の前にどっかりと座った。
「あんた、何を書いとった」
「唄を。踊りの手の振りを。太鼓の拍を」
「森へ行く若い衆を見て、何を思った」
「……森の中に、何か祀ってあるのかと」
お菊は長い長い溜息をついた。
「盆の踊り納めの晩はな、神さんの目が輪の外に向いとる晩だに。輪の中のことは、神さんは見とらん。見とらんことになっとる」
お菊は言葉を選んでいた。三河の言葉で、選んで、選んで、ゆっくり喋った。
「その晩に森へ入った男と娘は、明くる朝、何を訊かれても答えんでええ。答えんでええことになっとる。……その晩に宿った子は、踊り子ゆうて、村みんなの子になる。父親が誰か、誰も訊かん。そういう晩だに」
八千代は、最初はお菊が何を言っているのか、すぐには分からなかった。
分からなかったのは、”私”の考え方だった。自分の中にある冷静な部分は、お菊が言葉を三つ選んだところで、「ああそういう事か」と状況を察していた。
実感として理解した途端に、背中が冷たくなった。
手首を掴まれた感触が、まだ右の手首に残っていた。輪を離れて手を取られたら、もう返事したのと同じ。紛らわしいとこに立っとるなや。女の顔して。
女の顔。
八千代は自分の顔を知らない。鏡で見ても、それが十五、六の若い娘の顔に見えるのだということを、頭では知っている。知っているが、その顔が他人の目にどう映っているのかを、八千代は一度も、本当には考えたことがなかった。男の目で、出雲の子供の目で、ずっと外を見てきた。見る側にいるつもりだった。
この地では、見られる側だった。
沢の主にも。踊りの輪の若い男にも。
「……申し訳、ございませんでした」
声が掠れた。
「わたくしは、何も、分かっておりませんでした」
「分からんで当たり前だに。出雲にゃ、こういう晩はないだら」
「ございません」
「日輪じゃ、ある。ええとか悪いとかじゃない。昔から、そうしとる。山の村は人が少ないでな。神さんに子をようけ持ってかれるで、ようけ産まないかん。……そういうとこだに」
お菊は八千代の右の手首を取って、掴まれていたところを、節くれだった親指でゆっくりと撫でた。
「あんたは、自分がどう見えとるか、知らんだら」
「……知りませんでした」
「覚えりん。今日のは、二遍目だに」
それから、少しだけ声をやわらげた。
「寅がな、飲んだ帰りに、輪の外のあんたを見つけたんだに。宿まで走って戻って、うちを叩き起こしてくれた。明日、寅に礼を言っときん」
沢で言われたことを思い出した。知らんかったで済むのは、一遍だけ。
お菊はそれ以上は叱らなかった。叱らずに、八千代の布団を敷いて、八千代をその中に押し込んで、自分は八千代の部屋の障子の前に座り込んで、そこで夜明けまで、うつらうつらと船を漕いでいた。
『八千代』
布団の中で、瑞雲が言った。
『自分が女の子だって、完全忘れてたでしょ』
八千代は答えなかった。
忘れていたのではない、と思った。覚えたことが、まだ一度もないのだ。
広場の太鼓はまだ鳴っていた。唄も聞こえた。三つ目ごとに天を指す手の振りが、目を閉じても瞼の裏で回っていた。
帳面は枕元に置いたまま、その晩は開かなかった。
◇
三日目は鈴鹿の峠を越えた。
峠の森は京の手前の森よりさらに深かった。杉の巨木が空を塞いで、昼だというのに夕暮れのように暗い。道の両脇の苔が湿った光を放ち、沢の音がどこか遠くで絶え間なく鳴っている。
八千代は朝から一言も余計なことを言わず、籠の中で行儀よく座っていた。足袋も脱がなかったし、簾も半分しか上げなかった。
『おとなしいね』
「二遍目でございますので」
『三遍目はないってこと?』
「三遍目は、ございません」
峠の上り口に茶屋が一軒あった。茅葺きの軒に色の褪せた幟が下がり、店先の床几で、旅の男たちが茶を啜っていた。籠を下ろして一息入れる間、店の奥から老婆が出てきて、お菊に何か小さな包みを手渡した。お菊は包みの中を確かめもせずに懐へ入れ、代わりに銭を何枚か置いた。
店の柱に、小さな木の札が打ち付けてあった。墨で丸が一つ描いてあるだけの札だった。
「お菊殿。あの札は」
「通り札だに」
お菊は茶を啜りながら、柱を見ずに言った。
「この峠には、山立が出るでね」
「やまだち」
「山の盗人だら。荷を担いだ旅の者を襲う。……あの札を貼っとる茶屋は、山立に通り銭を払っとるで、襲われん。払わん茶屋は、ある朝、焼けとる」
寅吉が茶碗を置いて、声を落とした。
「去年も、伊勢の荷が二つやられたやに。担いどった若い衆が一人、谷に落ちて上がってこんかった」
「奉行所の防人は」
「峠の上までは来てくれへんやんか。峠は主さんのお通り道やで、防人も祓士も、よう居つかへん。山立はそれをよう知っとるんやに。主さんがお通りになった後の荒れた道で、荷を拾うんや」
卯吉が、兄の言葉に被せるように言った。
「山立の頭には、祝人崩れもおるらしいやに。神祇局に名を届けとらん、野良の祝人。主さんの通り道が、目で分かるんやって」
「卯」
お菊が短く言った。卯吉は口を閉じた。
お菊は懐の包みを、着物の上からぽんと叩いた。
「この包みはな、茶屋の婆さまが山立の頭から預かっとる、今日の峠の通り道だに。今日はどの筋が荒れとるか、どの筋に主さんがおられるか。……うちらは、山立の目を借りて峠を越えるだよ」
八千代は何も言えなかった。
「人の盗人と、神さんと、祟り。この峠で一番おっかないのが、どれか分かるか」
「……神様、でございましょうか」
「その日によるだに」
お菊は茶碗を置いて、立ち上がった。
「人間の方が、祟りよりよっぽど厄介な日もある。……日輪はな、神さんだけ相手にしとりゃええとこじゃないでね」
八千代は籠に戻ってから、帳面に書いた。
鈴鹿の茶屋、柱に丸の札。山立に通り銭。山立の目を借りて峠を越える。
出雲の街道なら、峠の上にも警邏の詰め所がある。灯石の外灯が一町ごとに立っている。ここでは、盗人が峠の道を知っていて、盗人の知っている道を、祓士が借りて歩く。
帝の御威光は、峠の上までは届かないのだ、と八千代は思った。
峠の頂の手前で、お菊がふいに足を止めた。寅吉と卯吉も止まり、籠がそっと地面に下ろされた。
「……お嬢さん。出てきん。籠から。ほんで、伏せりん」
お菊の声が低かった。昨日までののんびりした三河の言葉ではなかった。
「頭下げて、地べたに額つけて、目ぇ閉じりん。何があっても、目ぇ開けたらかん。何があっても、声出したらかん」
八千代は籠から転がるように出て、道の土に膝をつき、額をつけた。湿った土の匂いがした。隣で寅吉と卯吉が同じように伏せていた。お菊も伏せていた。鈴の音が止まっていた。お菊が全部の鈴を手の中に握り込んでいた。
静かだった。
沢の音が止まっていた。鳥の声も、虫の声も止まっていた。森が息を止めていた。
それから、足音がした。
ずしん、と地面が揺れた。八千代の額に、土の震えが直に伝わってくる。ずしん。ずしん。途方もなく重い何かが、峠の頂の向こうから、ゆっくりと下りてくる。
匂いがした。京の手前の森で、ずっと鼻の奥に残っていたあの匂い。濡れた毛皮と土と血と、古い古い森の匂い。
それが目の前にあった。
息遣いが聞こえた。ふしゅう、ふしゅうと、熱い湿った息が八千代の髪を揺らした。
八千代は目を閉じていた。
勿論蛇の目も開かなかった。
生き物の中は覗けない。それは分かっている。だが覗けなくとも、開いた目は向こうから見える。見る者は見られる。
目の方は、身構えてはいなかった。熱い息には、害意がなかった。八千代など、道端の石と同じほどにしか思っていないのだ。開きたがっているのは、八千代自身の方だった。
八千代は奥歯を噛みしめて、蛇の目を閉じたままにした。開かずにいるのは、開くことよりずっと力の要ることだった。
熱い息が、八千代の頭の上で止まった。
梢の切れ間から夏の日がまっすぐに差し込んで、八千代の背中を照らしているのが分かった。その日の当たる熱さの下に、自分の影が黒く濃く落ちているのも分かった。
息が、ほんのひと呼吸だけ、止まっていた。
何か妙な物を見付けた、とでもいうように。
八千代は息をしなかった。土に押し付けた指先が震えるのを、土に食い込ませて押さえた。
ふしゅう、と息がまた動いた。
何を嗅いだのかも忘れたように、熱い息は八千代の上を離れていった。ずしん、ずしんと足音が遠ざかる。八千代たちの傍らをゆっくりと通り過ぎて、道を外れて、森の奥へ。
足音が消えた。
沢の音が戻ってきた。鳥の声が戻ってきた。夏虫達がまた一斉に鳴き始めた。まるで何事もなかったかのように。
◇
「……もう、ええだに」
お菊の手がゆっくりと開かれて、鈴がちりんと鳴った。
八千代は顔を上げた。額に土がこびりついていた。手も膝も震えていて、体中が汗でびっしょりだった。寅吉と卯吉は地面に座り込んで大きく息を吐いていた。
「峠の主さんやろ。兄やん、見たか」
「見るかいな。おうたら死ぬ言われとるやろが」
「ほやなあ……わしら生きとるよな?」
二人とも震えていた。お菊が八千代の前にしゃがみ込んで、額の土を指でそっと払ってくれた。それからじっと八千代の目を見た。
「わしらは運がええ」
「……運ですか」
「峠の主さんにおうて生きとる」
「蛇の目を開けたら、峠の主様に見つめ返されるような気がいたしました」
お菊は少しだけ目を見開いて、それから、ふっと息を吐いた。
「ほうだに。それでええ」
お菊は立ち上がって、主が去った森の奥の方を見た。
「主さんが何を考えとるかは、人には分からん。分からんもんは、見んのが一番だに。見て分かった気になった者から、連れてかれるでね」
八千代は自分の影を見下ろした。
木漏れ日の中の小さな影は、八千代と同じ形で、同じ場所に落ちていた。何事もなかったように。
■次回予告
・峠の下の切り株
・主さんは、わしらと祟りの区別なんぞつけなさらん
・瓢箪に呑まれた家




