第一章 五話
■前回のあらすじ
・旅籠で、刷った字と機械の縫い目がほどけていく
・送り火の夜、女将「恨んではおりまへん。恨んだら、祟りになりますさかい」
・六条河原で、十七の娘が送り手の掌に眠るように送られる
# 五話 卯吉の握り飯
河原の端の方で、もう一人、縄を解かれている者がいた。
十一の子供だった。痩せて、頬骨が出て、目ばかり大きい男の子だった。右の腕に、墨で太い一本線が入れられていた。役人がその子の手に竹の皮の包みを一つ持たせて、川上の山の方を指さした。
男の子は包みを持って歩き出した。誰も付いていかなかった。誰も見送らなかった。
八千代の足が勝手に一歩出た。
お菊が八千代の袖を掴んだ。
「かんよ」
「何も、何も持たせないで、山に」
「握り飯は持たせた。それが掟だに。あんたが余計なもん持たせたら、あんたが掟を破ったことになる。他所者が掟を破ったら、綾月様の顔に泥を塗ることになるでね」
八千代は袖を掴まれたまま、遠ざかる男の子の背中を見ていた。
その時、八千代の脇を、卯吉がすっと通り過ぎた。
卯吉は男の子の方は見なかった。のんびりと、河原の端の、男の子がこれから歩いていく土手の道の方へぶらぶらと歩いていって、道端の草むらに腰を下ろした。懐から竹の皮の包みを出して握り飯を一つ食べ、もう一つを食べようとして、やめて、包みを草むらの上に置いたまま立ち上がった。
置き忘れた、という顔で、のんびりと戻ってきた。
男の子が土手の道を上っていった。草むらの前で足を止めた。しばらく立っていた。それから屈み込んで、包みを拾って、懐に入れて、また歩き出した。
振り返らなかった。
「卯吉!」
寅吉が弟の頭をはたいた。
「お前、握り飯どこやった」
「落としたんやに」
「落としたやないわ。昼どうするんやさ」
「兄やんの半分もらうやんか」
「あほ、やらんわ」
お菊は何も言わなかった。言わずに、腰の鈴を一つ、ちりんと鳴らした。
八千代は帳面に、やっと字を書いた。
卯吉殿、握り飯を落とす。
それから、その下に小さく書いた。
掟は情けを知らない。人は情けを知っている。掟を破らぬ情けの置き方を、この地の人は知っている。
◇
西京を発って東へ山を越えると、湖があった。
淡海。出雲では琵琶湖と呼ぶ大きな湖である。朝の湖は霧に覆われていて、白い霧が水面の上をゆっくりと這い、その切れ間から鏡のように凪いだ水がちらちらと覗いていた。水は驚くほど青かった。空の色をそのまま溶かし込んだような青だった。
湖岸の葦原で、小舟が一艘漁をしていた。舟の上に老いた漁師が一人、網をゆっくりと手繰っている。
暫く籠が湖岸の道を進んでいくと、ふいに、湖が静かになった。
さっきまで葦の間でさえずっていた葦切りが黙った。水面を跳ねていた小魚が跳ねなくなった。湖岸に寄せていた細かな波が、寄せるのをやめた。霧だけが、何事もなかったように水面を這っている。
老漁師が網を手繰る手を止めて、櫂を舟の中に置き、湖の沖に向かって深く頭を下げた。
寅吉と卯吉が籠を下ろした。お菊が腰の鈴を手で押さえた。鳴らさないように。三人とも湖の方を向いて、深々と頭を下げた。八千代も慌ててそれに倣った。
頭を下げたまま、八千代は水面の端だけを見ていた。
湖岸の水が、すうっと引いていった。
波が引くのとは違った。湖そのものが、ほんの指一本ぶんほど、沖の方へ傾いたようだった。葦の根元が濡れた泥をのぞかせ、小石の上を小さな蟹が慌てて走った。それから水がゆっくりと戻ってきて、戻りすぎて、葦の茎を掌一つぶんほど高く濡らしてから、元の高さに落ち着いた。
沖の方で、霧が一筋、割れていた。
何かがそこを通っていったのだと分かった。何が通ったのかは分からなかった。霧の割れ目は湖の真ん中から北の方へまっすぐに伸びていて、その幅は、八千代の知っているどんな舟よりも、どんな橋よりも広かった。
見てはいけない、と体の奥の何かが言っていた。
霧の割れ目がゆっくりと閉じていった。
葦切りがひと声鳴いた。小魚が跳ねた。波が、また湖岸に寄せ始めた。
◇
籠が再び動き出した。
老漁師はもう網を手繰り始めていた。寅吉が声をかけた。
「ええ朝やなあ、おっちゃん。湖の主さん、お通りやったんか」
「ああ」
漁師は網を手繰りながら振り返った。深い皺の顔で、笑ってはいなかったが怒ってもいなかった。
「今年は、よう通らはる。去年うちの倅を持っていかはってからやさけな」
八千代は息を止めた。
「……持って、いかれた」
思わず声が出ていた。漁師は籠の中の見慣れない装束の娘を見た。
「あんた、他所の人やな」
「出雲から、参りました」
「ほうか」
漁師は網を手繰る手を止めなかった。
「倅はな、この浦の防人やった。去年の夏、この葦原に祟りが湧いた。溺れ死んだ者の恨みが溜まったやつでな。舟を引っくり返して、乗っとる者を水に引きずり込む。倅らが五人で舟出して、追い詰めとった」
漁師はそこで少し黙った。
「追い詰めた時に、主さんがお通りになった」
「……」
「主さんは、祟りを嫌わはる。湖を濁すもんやさけな。せやから、祟りを呑まはった。祟りと、祟りが掴んどった舟と、舟に乗っとった倅ら五人と、まとめてな」
網の中で、銀色の魚がぴちぴちと跳ねていた。朝の光を浴びて鱗がきらきら光っていた。
「主さんには、倅と祟りの区別がつかはらへん。つける気もあらへんのやし。湖の濁りを呑まはった、それだけのこっちゃ」
「……お恨みには、ならないのですね」
聞いてはいけないことだと分かっていて、八千代は聞いた。
漁師は少しだけ手を止めて、湖の沖を見た。霧の割れ目が閉じていったあたりを。
「恨んで、どないすんねん」
静かな声だった。
「この湖の魚、わしら毎日もろて食うとる。わしの親父も爺さんも、この湖の魚で育った。湖がわしらを食わしてくれとる。たまに湖が、わしらの方を食う。それだけのこっちゃ」
「それだけ」
「それだけや」
漁師はまた網を手繰り始めた。
「それに、倅らが、あと半刻早う祟りを仕留めとったら、主さんはお通りにならへんかった。主さんが動かはる前に祟りを祓う。それが防人の仕事や。倅は、半刻遅かった。それだけのこっちゃ」
漁師の言葉の終わり方は、京とも伊勢とも違っていた。近江の言葉だった。八千代はそれを書き留められなかった。
「ほな、気ぃつけて行きや。出雲のお嬢さん」
◇
籠の中で、八千代は長いこと何も言わなかった。
湖が遠ざかっていく。霧が晴れていく。湖の水が青く青く朝の光を跳ね返していく。恐ろしいほどに美しかった。
神は祟りを嫌う。嫌って、自ら殺す。殺す時に、人を巻き込む。巻き込んだことに、気付きもしない。
だから、神が動く前に祓う。祓いが半刻遅れたら、神が祟りごと人を呑む。
防人とは、祟りと戦う者ではなかったのだ、と八千代は思った。祟りと戦って、神が動くのを止める者だ。神と人とのあいだに、己の体だけで立っている者だ。
「お菊殿」
「なんだん」
「祓士は、神とは戦わないのでございますか」
お菊は籠の横を歩きながら、少しだけ考えているようだった。
「並の祓士じゃあ主のような神さんは祓えん。祓士が神さんにできるのは、祀る、詫びる、退く。たいがいはそれだけだに」
「たいがいは」
「どうしても退かん神さんもおる。祟りに堕ちかけとる神さんとかな。そういう時は、命張って刃を向けるだよ。殺すためじゃない。殺したら土地が祟るでね。暴れて暴れて神さんの気が済むまで付き合うて、鎮めて帰ってもらう」
「……それで、勝てるのですか」
「勝てん」
お菊はあっさり言った。
「勝つもんじゃないだに。鎮まるまで持ちこたえるもんだら。持ちこたえられなんだら、死ぬ。うちの若い頃の相方も、それで死んだ。……祓士は稼ぎはええけど、畳の上じゃ死ねん。みんな知っとって、なるだに」
ちりん、とお菊の腰の鈴が鳴った。
八千代は帳面を開いて、さっき書けなかった漁師の言葉を書いた。恨んで、どないすんねん。それから、その下に書いた。倅は、半刻遅かった。
◇
その晩は、淡海の東の宿場に泊まった。
盆の踊り納めの晩だった。宿の窓の外の、宿場の真ん中の広場に櫓が組まれて、提灯が並び、太鼓が鳴り始めていた。
八千代は膳を片付けてもらうとすぐに窓に張り付いた。
唄が聞こえる。近江の踊り唄だ。節回しが京の唄とも違う。囃子詞が多い。太鼓の打ち方に癖がある。輪になって踊る人々の手の振りが、三つ目ごとに一度、天を指す。
聞き取れない。窓からでは遠すぎる。
お菊は隣の部屋で、とうに寝息を立てていた。五日の旅のうち一番長い道のりを歩いたあとだった。寅吉と卯吉は宿の主人と酒を飲みに出ていた。
『八千代』
「少しだけです」
『まだ何も言ってないよ』
「唄を、書き留めるだけです。輪の外で聞くだけです」
『絶対少しだけじゃないやつだよそれ』
八千代は帳面と矢立を懐に入れて、宿を出た。
広場は人でいっぱいだった。浴衣の男女が櫓の周りを幾重にも輪になって回っていて、提灯の灯りが汗ばんだ顔を赤く照らしていた。太鼓が腹に響く。唄が近い。八千代は輪の一番外側の、提灯の灯りがぎりぎり届くところに立って、帳面を開いた。
夢中になった。
唄の一節を書き、囃子詞を書き、手の振りを絵に描き、太鼓の拍を点で打った。三つ目ごとに天を指すのは、山の神に見せているのだと、隣で踊っていた婆様が教えてくれた。踊り納めの晩は、山の神も輪の外で見ていなさる。その婆様の言葉も書いた。
どれほど書いていたのか分からない。
気付くと、輪の中の人の顔ぶれが変わっていた。年寄りと子供がいなくなっていた。踊っているのは若い男と若い女ばかりで、輪がだんだん崩れて、二人ずつ、三人ずつ、広場の外へ流れていく。広場の裏の、鎮守の森の暗がりの方へ。
八千代は顔を上げて、それを見ていた。
なぜ森へ行くのだろう、と思った。森の中にも何か祀ってあるのだろうか。踊り納めの晩にしか開かない祠でもあるのだろうか。
右の手首を、誰かが掴んだ。
■次回予告
・「その子は、うちの子だに」
・鈴鹿の山立
・峠の主の熱い息




