第一章 四話
■前回のあらすじ
・害意ある視線に蛇の目が立ち上がり、八千代は祟り「ひだる」を見つける
・歴戦の班頭おとくの防人たちが塩灰と槍で祓い、十五の太一が脛を噛まれる。お菊は仕方なしに鈴を使う
・おとくの礼。そして西京へ。京の防人と、神送り・追い山の高札
# 四話 送り火と神送り
宿は鴨川の近くの古い旅籠だった。
女将は細面の、背筋のしゃんとした老女だった。
「ようお越しやす。遠いとこ、おおきに。お疲れやしたやろ。お湯沸いとりますさかい、先に汗流しとくれやす」
おおきにはありがとう。さかいは、だから。京の言葉は柔らかくて、角がどこにもない。だが柔らかいぶん、どこに芯があるのか分からない。女将の目はにこやかに笑いながら、八千代の頭から爪先までを一瞬で値踏みしていた。若くて身なりも育ちも良い出雲の娘。全部見透かされている気がした。
湯から上がって部屋に戻ると、行灯にはやはり白く光る丸い石が入っていた。
八千代は荷を解いて、汽車で読みかけていた文庫本を取り出した。出雲の工場で何万部と刷られた薄い本である。
開いて、目を見開いた。
字が動いていた。
紙の上の刷られた黒い字が、蟻の行列のようにゆっくりと端からほどけていく。一画ずつ形を失って、ただの黒い線になり、点になり、紙の繊維の中に滲んで消えていく。
『字、逃げてる』
「逃げて、おりますね」
地誌で読んだことはあった。長い来歴を持たない物、手をかけられていない物は、大結界の内側では形を保てない。読んだことがあるのと目の前で見るのとは、まるで違った。
八千代はしばらく本を見つめて、それから荷をひっくり返した。
帳面。これは八千代の手書きで、字は一画もほどけていない。汽車の切符。刷った字の部分だけがほどけかけて、駅員が手で押した日付の判は残っている。新聞の切り抜き。これは文庫本よりずっと早くほどけていて、もう半分が白い。出雲の地図。刷った線が消えかけているのに、八千代が鉛筆で書き込んだ線は残っている。
八千代は懐中時計を出して、新聞と文庫本と切符を並べ、一行ほどけるのにかかる時を計った。
新聞は六十数える間に三行。文庫本は一行。切符の刷り字は、まだ半分残っている。
紙が安いほど早い。刷った数が多いほど早い。人の手が触れたところほど遅い。
帳面に書きつけていて、ふと気付いた。上着の脇の縫い目が、親指が入るほど開いていた。出雲の工場の機械で縫った縫い目だった。糸はほどけていないのに、縫い目だけが、縫われた意味を忘れたように、ゆるんでいる。
八千代は上着を裏返して、縫い目を一つずつ確かめた。手で付け直した釦の糸は、少しもゆるんでいなかった。そして手縫いの西洋下着は無事だった。
『下着、お母さんの手縫いでセーフ』
「……ええ、本当に」
『三河に着く頃には、すっぽんぽんだったかもね』
「繕いますとも。手を掛けて」
八千代は針と糸を出して、ゆるんだ縫い目を一つずつ手で縫い直し始めた。縫いながら、口の端が上がっているのが自分でも分かった。
やはり面白い。
この地は、古い物が強く、新しい物が弱い。
◇
夜が更けると宿の外がざわめき始めた。下駄の音と人の声が通りを流れていく。
女将が障子の外から声をかけた。
「お嬢はん、もうすぐ送り火どすえ。二階の窓から、よう見えますさかい」
二階の窓を開けると、京の夜が目の前にあった。灯りの少ない深い夜で、碁盤の目の街が黒い海のように沈んでいる。その向こうの東の山の黒々とした斜面に、ぽっと火が灯った。
ひとつ、またひとつと火が繋がって線になり、線が形になる。大きな一の字の下に、左と右へ払いが伸びて、大の字になった。続いて北の山にも西の山にも次々と火が灯った。妙と法の字。舟の形。鳥居の形。京を囲む山々に、火の形がひとつまたひとつと浮かび上がる。
街の人々が通りに出て、屋根に上って、窓から身を乗り出して、その火を見上げていた。誰も声を上げなかった。ただ静かに手を合わせていた。
「盆に帰ってきはった仏さんを、お山へお送りするんどす」
いつの間にか女将が隣に立っていた。
「京の仏さんは、お山から降りてきはって、お山へ帰らはる。ほんで、また来年降りてきはる。……うちの旦那も、息子も、あのお山におりますのえ」
女将の横顔を火の光が橙に染めていた。泣いてはいなかった。少しだけ嬉しそうだった。年に一度帰ってくる家族を送り出す顔だった。
八千代は窓枠を握って、火の大の字を見上げた。
過去の自分は、どこへ帰るのだろう。ここにいるのだから帰る場所はないのかもしれない。どこかの盆に、どこかの火を目印に。考えても仕方のないことだった。仕方がないと分かっていて、それでも胸の底から何かが浮かび上がってきた。八千代はそれを、送り火の方へそっと押しやった。お山へ。どこかのお山へ。
悲しいのは、悲しいだけにしておく。
「女将様」
「へえ」
「明日の朝、六条河原で、神送りがあると伺いました」
女将の手が、合わせたまま少しだけ止まった。
「……高札、読まはったんどすな」
「送り火で、その方も、お山へ送っていただけるのでしょうか」
女将は大の字を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「送られる仏さんと、送られへん仏さんがおります」
静かな声だった。
「人を殺めた者は、お山へは入れてもらえまへん。お山の神さんが嫌がらはりますさかい。塩をして焼いて、灰は鴨川に流します。川が海まで持ってって、海の神さんが、気が向いたら拾うてくれはる。……気が向かはらへんかったら、それまでどす」
「十七、と」
「十七でも、十一でも、九十でも同じどす」
女将はやっと八千代の方を見た。にこやかではなかった。かといって冷たくもなかった。
「お嬢はん。あの子の付け火で焼けた長屋にな、うちの姪の孫がおりましてん。四つどした」
八千代は息を止めた。
「恨んではおりまへん。恨んだら、祟りになりますさかい」
女将はもう一度大の字を見上げた。
「せやから、明日の朝は、見に行きまへん。見に行ったら、恨んでしまいそうどすさかい」
◇
翌朝、八千代は六条河原へ行った。
行くべきではないと分かっていた。お菊も止めた。
「見て、どうするだかん」
「見て、書き留めます」
「書き留めて、どうするだかん」
「……分かりませぬ」
八千代は正直に言った。
「分かりませぬが、見ずに、知らないふりをして三河へ行くことは、できないのです」
お菊は長いこと八千代の顔を見ていたが、やがて溜息をついて、自分も草鞋の紐を締め直した。
「顔に出したらかんでね。何があっても」
河原にはもう人垣ができていた。藍の衣に胸当ての防人たちが槍を横に構えて人垣を押さえ、その内側の、川に近い砂利の上に、白い筵が一枚敷いてあった。
筵の上に娘が座っていた。
十七と聞いていたが、もっと幼く見えた。髪を短く切られ、白い単衣を着せられ、両手を前で縄で括られている。目隠しをされており遠くからは表情を伺うことは出来なかったが、泣いてもいなかった。ただ、川の音を聞いているようだった
その前に、白い狩衣の男が一人立っていた。
若くはなく、年寄りでもなかった。神祇局の者だとお菊が囁いた。執行部の祝人で、送り手と呼ばれる。手には何も持っていなかった。刃物も、縄も、札も。
役人が罪状を読み上げた。高札と同じことを、もう少し長く。読み上げが終わると、河原がしんとした。人垣の誰も声を出さなかった。
送り手が娘の前に屈み込んで、右の掌を、そっと娘の頭に当てた。
それだけだった。
娘は眠るように肩が落ちて、括られた手が膝の上に落ちて、体が前に傾いだ。送り手がそれを片腕で受け止めて、筵の上にそっと寝かせた。娘は口を開けて眠っているようにしか見えなかった。
ただ、もう息をしていないことだけが違った。
人垣がほどけ始めた。
何事もなかったように、人々は河原を離れていく。ほどけていく人垣の端で、もう鮎の塩焼きの屋台が煙を上げていて、男たちが串を買っていた。子供たちが石を投げて水切りをしていた。
「……刃を、使わないのですね」
八千代は声を押し殺して言った。
「刃で殺したら、恨みが残るだに」
お菊も小声で答えた。
「恨みを残して死んだ者は祟りになる。神通力で送ったら、恨む間ものう眠るように逝くで、祟りにならん。……そう言われとる」
「言われとる、というのは」
「ほんとかどうか、誰も知らんでね」
お菊は筵の上の娘を見ていた。
「祟りにならんかったら、ならんかったんだら。なったら、なったで、うちらが祓う。どっちにしても、刃でやるより、やる方の気が楽だで。……そういうことかもしれんだに」
八千代は返事ができなかった。
帳面を開いて、筆を持った。字が書けなかった。筆先が紙の上で止まり、墨の点だけが一つ落ちた。
―――
【後書き】
■次回予告
・掟の外の、置き忘れた握り飯
・淡海の霧の割れ目
・踊り納めの晩




