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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 三話

■前回のあらすじ

・日輪の森は神のもの。「断りなしに伐ろうもんなら、神さんが来るだに」

・沢の石の字を読もうと素足で沢に入り、沢の主に足首を引かれる。お菊「知らんかったで済むのは、一遍だけだでね」

・森の境に置かれた亡骸と、三晩の番をする村の防人たち


# 三話 ひだる


 八千代が帳面に防人のことを書きつけようとした時だった。


 うなじの毛が、ちりと逆立った。


 何かを見たのではなかった。何かを聞いたのでもなかった。筆を持つ手の甲を、冷たい舌でひと舐めされたような気がしただけだった。気がした時にはもう、顔が勝手に森の暗がりの方を向いていた。苔の生えた倒木の下の方を。


 あそこに、何かがいる。


 分かったのは、それだけだった。分かったのとほとんど同時に、瞳の奥が細く絞られた。八千代が瞼の奥に力を込めるより先に。


 蛇の目は、八千代が力を込めなければ開かない。そのはずだった。けれど今は、目の方が勝手に立ち上がって、八千代を守るように身構えていた。倒木の下のそれは、八千代の知っているどんな祟りよりも濃かった。出雲で見た祟りといえば、神在月の晩に交番の裏の暗がりで揺れていた、煙の切れ端のような薄いものくらいしかない。それも見つけたらすぐに離れて、警邏(けいら)さんに知らせるものだと教わってきた。


 あれは煙ではなかった。そしてあれは、こちらを見ていた。


 目が絞られて、倒木の下の影が一段濃く見えた。影の中に、痩せた、骨と皮ばかりの、子供ほどの大きさの薄汚れた何かが腹這いになっていた。腹だけが異様に膨れて、手足は枯れ枝のようで、首が長かった。長い首をゆっくりと巡らせて、白い包みと、籠の脇に立つ八千代とを、代わる代わる見ていた。目がどこにあるのかも分からないのに、見られているのだけは分かった。


 それは顔の半分ほどもある大きな口を開いた。どす黒い土気色の歯茎に、不自然に白い歯の根が剥き出しのまま整然と植え付けられていた。


 籠の脇で、お菊の手が鈴の束を握るのが目の端に見えた。お菊にも見えているのだ。お菊の口が開きかけた。


 それより先に、八千代の口が動いていた。


「……あそこに」


 八千代の声は掠れた。


「倒木の下に、祟りがおります」


 おとくの動きは速かった。腰の袋に手を突っ込んで白と灰色の粉を掴み、八千代の指した方へ一息に撒いた。粉が宙に広がって、倒木の下の何もないところに落ちた。落ちたはずの粉が落ちずに、宙の何かの形に貼り付いた。痩せた背中。膨れた腹。長い首。塩と灰の粒が輪郭を白く描き出した。


「ひだるだ!」


 おとくが短く叫んだ。


「わしは左から回る! 権六、腹を突け! 太一は下がれ!」


 髭の大男が槍を構えて踏み込んだ。ひだると呼ばれた白い輪郭がおとくを避けるように跳ねた。地を這うように走って大男の槍の穂先を体を潰しながら潜り、そのまま包みの方へ向かう。痩せた年寄りが横から鋭く槍を突き出した。穂先がひだるの脇腹を掠めた。獣とも子供ともつかない甲高い悲鳴と共に、ひだるの腹から黒い粘ついた液が撒き散らされる。液に触れた下草がじゅうと音を立てて、僅かに白い煙が上がった。


 お菊は、まだ籠の前から動かなかった。


 ひだるの方を見てさえいなかった。鈴を握ったまま、街道の上手の藪と、下手の曲がり角と、森の別の暗がりとを、一つずつ確かめていた。祟りは一つ出ると二つ目が続くことがある。騒ぎに紛れて旅の籠を狙う野盗もいる。後になって、八千代はお菊からそう聞いた。


 ひだるが向きを変えた。包みではなく、一番近くにいた少年の方へ。


「太一!」


 太一と呼ばれた少年は、白い輪郭を睨んだまま下がらずに、静かに槍を構えた。ひだるは大きな口を開けて少年の左の脛に体当たりするように喰らいついた。太一は喰らいつかれながらも、必死にひだるへ槍を突き立てた。


 籠の脇で、お菊が小さく舌を打った。


「……しゃあないだに」


 次の瞬間、お菊はもう籠の脇にいなかった。


 ちりん、と鈴が鳴った時には、お菊は太一の脇に屈み込んでいた。その細腕では考えられないような力でひだるの口をこじ開けると、腰の鈴を一つ引きちぎって放り込んだ。


「腹ぁ減っとるだら。それ食っとりん」


 内側で鈴が鳴った。ひだるの腹が裂けて、黒い液が大量に吹き出した。


「今だに!」


 回り込んでいたおとくの槍と大男の槍が、左右から同時に腹と胸を貫いた。ひだるがどうと倒れる音と共に、肉の腐った匂いがあたり一面を覆った。


 お菊はもう太一の脇を離れて、籠の前に戻っていた。鈴を握り直して、また街道の上手と下手を見ていた。


◇


 太一は地面に座り込んで、自分の脛に大きな葉を一枚押しつけて呻いていた。脛を伝う赤黒い血が、肌を焼きながら煙を上げていた。


「太一。下がれ言うたら下がれ」


「……ぐ……すん、ません」


「でも、ようやった」


 おとくは太一の前に膝をついて、腰に吊るした瓢箪から緑色の水を太一の脛の傷口へかけた。傷口から溢れた黒い血が洗い流されて、太一のくぐもった叫び声が森に響いた。おとくは煙の消えた傷に腰の袋の粉を擦り込み、また緑の水をかけ、また粉を擦り込んだ。


「こん傷は残したら腐る」


 おとくは八千代の方を見ずに言った。


「腐ったら脚ごと落とさにゃならん。脚がのうなったら防人はできん。防人ができんようになったら、この村は四人だ」


 八千代は帳面を握りしめたまま立っていた。


「この班は、今年もう二人死んどる」


 おとくは布で槍先を拭った。


「この子が、その二人のうち一人の倅だ。十五だ。槍を持たせて三月だ」


 太一は荒い息をしながら白い包みの方を見ていた。包みは無事だった。


 お菊が籠の前を離れて、ひだるだった黒い染みの風上に立った。鈴を鳴らして、袋から塩を撒いた。それから八千代の方を見た。


「あんた、よう見えたな。助かっただに」


「……わたくしは、見えただけで」


「見えるのが大事だに。防人には見えん。粉撒いて形を出して、出た形を突く。見えるもんが一人おるだけで、だいぶ違うだよ」


 おとくが槍を左手に持ち替えて立ち上がり、二人の前に来た。


 おとくは、まずお菊に頭を下げた。深くはなかった。けれど、ゆっくりだった。


「お菊さん。鈴、すまなんだな。あんたの手を借りる気は、なかったんだが」


「借りたうちに入らんだに。太一の脚の分だけだら」


 お菊はぶっきらぼうに言った。


「あんたらの番に、うちが手ぇ出したら、あんたらの顔が立たんでね。……けど脚が一本かかっとったら、顔より脚だら」


「ああ。顔より脚だ」


 おとくは少しだけ口の端を上げた。それから、濁っていない方の目で、さっきよりもずっと長く八千代を見た。


「出雲の娘っ子。名は」


「朝霧八千代と申します」


「八千代」


 おとくは、八千代にも頭を下げた。お菊に下げたのと同じだけ、ゆっくりと。


「ありがとな。あんたが指ささなんだら、わしらは包みの前に粉を撒いとるところだった。撒いとる間に、太一の脚は膝から上までなかったかもしれん」


 八千代は、何と答えればよいのか分からなかった。分からないまま、慌てて頭を下げ返した。


 おとくはそれだけ言って、包みの方へ戻った。後ろの三人と、脚に布を巻かれた太一も、また森の暗がりの方を向いた。三晩目の番は、まだ終わっていなかった。


◇


 籠に戻ってからも、八千代は長いこと何も書けなかった。


 ひだる、という名を帳面に書いた。飢えて死んだ者の恨みが山の神気と混ざって生まれる祟りで、通る者の腹を空かせ、弱った者や死んだ者の肉を食う。お菊がそう教えてくれた。この辺りは百年前に大きな飢饉があって、それ以来ひだるがよく湧くのだという。


 祟りは人の悪い心から生まれる。生まれた祟りは人を食う。食えば育つ。育てばもっと食う。


 だから日輪の人は、井戸を叩き、厠の前で咳払いをし、しきたりを守り、恨まないようにする。悲しいのは悲しいだけにしておく。関所の役人の言葉が、ようやく腹の底まで落ちてきた。あれはただの心がけではなかったのだ。


 八千代はもう一行、書いた。


 防人。神通力を持たぬ者。槍と鉈と、塩と灰を混ぜた粉と、己の体で戦う。どんな小さな村にも五人。今年二人死んだ班がある。十五の子が槍を持って三月。


 それから、その下に書いた。


 出雲の子は、祟りを見たら離れよ、と習う。離れて、交番か祠へ知らせよ。祓うのは夜廻り(よまわり)の仕事で、夜廻りには照魔灯(しょうまとう)と弦を鳴らす機械がある。日輪では、見えた者が指をさし、村の五人が槍を持って前に出る。


 筆を止めて、窓の外を見た。


 森が流れていく。何層にも折り重なった、美しい緑が流れていく。あの緑のどこかに、今も何かが腹這いになって、こちらを見ているのかもしれなかった。


『八千代』


 瑞雲が囁いた。


『手、震えてる』


「……やはり祟りは恐ろしゅうございますね」


 それから、震える手のまま、帳面にもう一つ書き足した。ひだるの口の形。手足の長さ。地を這う速さ。


 怖かった。怖かったが、書かずにはいられなかった。書かずにいたら、太一が脛の肉を削がれたことが、ただの怖かったことで終わってしまう気がした。


◇


 夕刻、森がふっと途切れた。


 途切れた先に盆地があった。山に囲まれた平らな底に、瓦屋根の海がどこまでも広がっていた。真っ直ぐな大路と小路が定規で引いたように縦横に走り、その升目の一つ一つに瓦屋根がぎっしりと詰まっている。寺の塔と社の森と川のきらめき。電線はない。広告の看板もない。硝子の窓もほとんどない。あるのは瓦と木と土壁と紙の障子と、夕陽に照らされて金色に燃え上がるその全部だった。


 西京(さいきょう)。日輪の旧都である。


 千年前の絵巻がそのまま目の前に広がっていた。いや、千年前の絵巻が息をしていた。


 八千代は簾を上げたまましばらく動けなかったが、すぐに帳面を出して、大路の数を数え始めた。南北に何本、東西に何本。寺の塔は五重か三重か。屋根の瓦は本瓦か桟瓦か。牛車の轅の長さ。辻の祠の数。


『八千代、感動するか数えるか、どっちかにしなよ』


「両方いたします」


◇


 西京の南の入口には、もう一つ関所があった。


 摂津口の関所ほど大きくはなかったが、門の脇に番所があって、狩衣の役人と、槍を持った防人が立っていた。こちらの防人は森で会ったおとくたちとは違って、揃いの藍の衣の上に揃いの革の胸当てを着けて、揃いの塗りの槍を持っていた。穂先は、おとくたちの笹の葉のような細長いものではなかった。穂の根元から左右に鎌のような刃が張り出した、十文字の槍だった。腰には山刀の代わりに、揃いの拵えの脇差を差していた。


 出雲の警邏の藍よりも、ずっと深い藍だった。


「京の防人は奉行所の防人だでね」


 お菊が小声で教えてくれた。


「尾張の都、日輪京(にちりんきょう)にゃ防人の養育所があって、そこで仕込まれた者共が都や京の奉行所に勤める。都から離れるほど、その土地の者が勤めるだで。補充も、奉行所から送られてくることもあるし、村で育てることもある。……まあ、奉行所の防人は、田舎の防人のことをちっと下に見とるけどな」


 番所の脇の高い板塀に、高札が何枚も掲げられていた。


 黒々とした墨の字で、名と歳と罪と裁きが書いてある。八千代は籠の中から首を伸ばして、一枚ずつ読んだ。


 盗み。男。三十二。右手の指二本。


 姦通。女。二十四。男。二十七。両名、髪を落とし、村を出す。


 届け出の無き祝人を匿う。男。五十一。神祇局に引き渡し。


 付け火。女。十七。長屋九軒焼失、死者三名、内童一名。明朝、六条河原にて神送り(かみおくり)。


 盗み。童。十一。度重なるにより、追い山(おいやま)。


 八千代は最後の二枚を、もう一度読んだ。


 女、十七。童、十一。


「お菊殿。神送り、とは」


「お仕置きだに」


 お菊の答えは短かった。


「追い山、とは」


「山に返すだよ。村にも町にも置いとけん者を、握り飯一つ持たせて山に入れる。山の主さんが生かしてくれりゃ、それでええ。生かさんかったら、それが裁きだに」


「十一の子を」


「十一でも、盗みは盗みだら。三遍目だで、もう町にゃ置けん」


 お菊は八千代の方を見なかった。


 出雲なら、と八千代は思った。出雲なら、十一の子の盗みは、親が呼ばれて学舎の先生が呼ばれて、それで終わる。三遍目でも、たぶん。


「日輪の掟は、女子供だで軽うなるってことはないでね。女子供だで重うなることもない。同じだに」


■次回予告

・字がほどける旅籠

・京の送り火

・六条河原の白い筵


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