第一章 二話
■前回のあらすじ
・出雲側の関所で小瓦板と結緒の玉を預け、檜の床の日輪側へ
・京言葉の役人が継祚禄と「野良者」を明かし、隣の部屋の野良の祝人の母子を「見せる」
・祓士のお菊と籠かきの寅吉・卯吉に迎えられ、霧を抜けて神々の地、日輪へ
# 二話 沢の主の嫁取り
深い、深い森だった。
黒に近い杉の緑。青みを帯びた檜の緑。陽を透かして黄金色に光る楓の若葉の緑。濡れた天鵞絨のような苔の緑と、刃物のように尖った羊歯の緑。それが何層にも折り重なって空を覆い、ずっと上の方で溶けて光の粒になっていた。
道は森の底を這う細い筋でしかなかった。人が二人並べば一杯になるほどの踏み固められた土の道で、その両側から大蛇の背のような根が盛り上がって道の縁を齧っている。出雲の大社の御神木ほどの幹が、ここでは当たり前のようにそこかしこに立っていた。大人が五人手を繋いでも抱えきれない幹を蔦が這い上がり、苔が覆い、茸が棚のように生えている。
匂いが濃かった。湿った土と腐葉土と樹脂と苔と遠くの水と、それから獣。どこかに大きな獣がいる。見えないが匂いがする。
出雲にも森はある。大社の森も深い。だが出雲の森は、人が歩くための道があり、人が祀るための社があり、人が手を入れた森だった。この森は違う。人の方が森の隙間を借りて歩いている。この道は、森が人に渋々通らせてやっている道だった。
「日輪はな」
籠の横を歩きながらお菊が言った。八千代が簾を上げっぱなしにして首を突き出しているのに気付いたらしい。
「大方が山と森だに。まっとうに人が住めるとこは、谷の底と川の縁と街道の筋だけだもんで」
「山と森は、どなたのものなのでございますか」
「神さんのだら」
当たり前のように言った。
「山には山の主がおって、森には森の主がおる。川には川の、沼には沼の。人はその隙間に住まわしてもらっとるだけだに。木ぃ伐るなら主に断りを入れにゃならん。断りなしに伐ろうもんなら」
お菊は腰の鈴をちりんと鳴らした。
「神さんが来るだに」
「来て、どうなるのです」
「そりゃ食われるだよ」
あまりにあっさりした言い方だった。寅吉と卯吉も何も言わなかった。当たり前のことを当たり前に聞かれた、という顔をして肩を竦めていた。
八千代は帳面を膝の上で開いて、百三十一番目の問いを書いた。
断りは、誰に、どうやって入れるのか。
書いてから、問いの横に小さく書き足した。恐らく食われる、は比喩ではない。
◇
昼過ぎ、沢のほとりで籠が下ろされた。
寅吉と卯吉が沢の水で顔を洗い、お菊が背負い籠から握り飯と竹の水筒を出して渡してくれた。水は驚くほど冷たく甘い香りがした。
「あたりを見てくるでよ、休んどってな」
お菊はそう言い残すと手近な岩を足掛かりに太い楢の枝へ飛び移り、枝から枝へ渡って森の中へ消えていった。年寄りの足の運びではなかった。神通力を己の体に巡らせて足腰を強めているのだ。祝人の中にはそういうことのできる者がいると八千代も知っていたし、八千代自身にも少しだけできる。ただし八千代のそれは脚に流せば坂道が少し楽になる程度のささやかなもので、あんな風に枝から枝へ渡るなど思いもよらなかった。
八千代が口を開けて見上げていると寅吉が笑った。
「お菊婆は猿みたいに身軽なんやに」
「とてもお年とは思えませぬ……」
八千代は感心しながら握り飯を半分食べたところで、沢の真ん中にある岩に目を留めた。
平たい岩の上にもう一つ丸い石が載っている。丸い石には何か彫ってあった。字のようにも渦のようにも見える。流れに洗われて角が取れ、苔が半分を覆っていた。
寅吉と卯吉は少し下手の木の根に並んで腰を下ろし、こちらに背を半分向けて握り飯を頬張りながら、どちらが前の棒を担ぐかで言い合っていた。
八千代は握り飯を口に押し込んで立ち上がった。
編み上げの靴の紐を解いて脱ぎ、足袋を脱いで靴の中に押し込み、小紋の裾を膝の上までたくし上げて帯に挟んだ。それから素足で沢に入った。
ざぶり、と水が鳴った。
冷たかった。冷たさが足の裏から脛へ、脛から膝へ駆け上がってくる。八千代は小さく声を上げて笑い、苔で滑る石を一つずつ選びながら真ん中の岩へ向かった。
後ろで言い合いがぴたりと止んだ。
「お、お嬢さ――」
寅吉の声が裏返った。振り返ると、寅吉と卯吉は握り飯を持ったまま弾かれたように立ち上がって、揃ってこちらに背を向けたところだった。寅吉は背を向けたまま両手を宙でばたばたさせていた。
「そ、そこは、あかんやに! お嬢さん、そこは……その……」
何があかんのかは言わなかった。言えないらしかった。こちらを見ずに言える言葉を探して、見つからないでいるようだった。卯吉の方は一言も言わずに指を二本口に咥えて、森の上の方へ向かって鋭く長く指笛を吹いた。
鳥でも呼んでいるのだろうか、と八千代は思った。それよりも石の字が気になった。
屈んで瞼の奥に力を込めると、丸い石の彫り物はやはり字だった。古い古い、楔を並べたような字だ。ここに眠るは――
「お嬢さん!」
頭の上からお菊の声が降ってきた。今まで聞いたことのない鋭い声だった。楢の枝が大きくしなって、小さな体が岸の岩の上にとんと降りた。
「上がりん。今すぐ上がりん」
「少しお待ちくださいませ。この石に字が」
「上がりんゆうとるだに!」
その時、足首が冷たくなった。
沢の水の冷たさとは違う冷たさだった。誰かの指がそっと巻き付くようなひやりとした重さが、両の足首に同時に来た。川の流れがいつの間にか変わっていた。それまで脛の脇を素直に流れていた水がゆっくりと渦を巻いて、八千代の足を沢の下手の深い淵の方へ引き始めた。
引かれる。
八千代は脚に神通力を流して踏ん張った。坂道を少し楽にするだけの強めでは、踏ん張りにもならなかった。足が川底に吸い付いて、まるで持ち上がらない。
お菊が沢に飛び込んできた。小さな体のどこにそんな力があるのかと思うほどの勢いで八千代の腕を掴み、岸へ引き戻しながら、もう片方の手で鈴を三度鳴らした。
「ご無礼いたしました! この子は他所の子で、何も知らんだに! 嫁入りの子じゃないだに! ご無礼いたしました!」
足首の冷たさがふっと離れた。
お菊は八千代を岸まで引きずり上げると、淵の方に向き直って地面に手をつき、長いこと頭を下げていた。寅吉と卯吉も八千代の方を見ないようにしながら、淵の方へ頭を下げた。
八千代は岸の石の上に座り込んで自分の足首を見た。痕は残っていなかったが、冷たさだけがまだ骨の内側に残っていた。
それから、脚が妙にだるかった。踏ん張ろうとして流した神通力の分だけ、ふくらはぎが半日歩いた後のように重い。ほんの少し強めただけでこれだった。見る力の方に生まれついた八千代には、体を強めるのは少しばかり荷が重いのだ。
◇
お菊は頭を上げると、八千代の前にしゃがみ込んだ。
怒鳴られると思った。だがお菊は怒鳴らなかった。たくし上げたままの八千代の裾を黙って下ろして膝を隠し、それから八千代の目を見た。
「あんた、出雲じゃあ女子も平気で川へ入るのか?」
「……はい、夏には子供はよく川に入ります……」
「子供か」
お菊は少し黙った。
「あんたは、ここじゃ子供に見えんだに。どこからどう見ても、嫁入り前の娘だら。嫁入り前の娘が沢に脛を出して入るのはな、日輪じゃ、沢の主さんに嫁入りを申し込んどるのと同じことだに」
「よ、嫁入り」
「沢の主さんは、嫁が欲しい。昔から、そういうことになっとる。日照りの年には、村から娘を一人、ああして沢に入れることもあるだに。入った娘は帰ってこん」
八千代は何も言えなかった。
「それにな」
お菊は寅吉と卯吉の方をちらりと見た。二人はまだ沢に背を向けたまま、淵の方へ手を合わせ続けていた。
「日輪じゃ、娘は男衆の前でも脛を見せんでね。見せたら、嫁にもろうてくれ言うとるのと同じだに。山の村じゃ今でも嫁盗みがあるでよ。街道でそんなことしとったら、攫われても誰も文句を言ってくれん。あの二人は気のええ子らだで、すぐ背中向けて、指笛でうちを呼んでくれたけどな」
八千代は自分の膝を見下ろした。
汽車の老婆と同じことを言われている、と思った。あなたくらいの年頃の綺麗な娘さんならなおさら。
長い間、無自覚でいたからか、脛を出して川に入ることに何か意味があるとは思っていなかった。十年、出雲の娘として生きた。出雲では子供が夏に川に入ることはそれほど珍しいことでは無い。
ここでは常に意味が付いて回る。しきたりという形で。
八千代の体は、ここでは子供ではなく、嫁入り前の娘として見られている。神には嫁に欲しがられ、人には嫁にもらってくれと言っている娘だと思われる。八千代が自分の体をどう思っていようと、そんなことはこの地の誰も、沢の主も、知ったことではないのだ。
「……申し訳、ございませんでした」
「謝らんでええ。知らなんだら、しょうがないだに」
お菊は八千代の頭を、ぽんと優しく叩いた。
「その代わり、覚えりん。知らんかったで済むのは、一遍だけだでね」
『ちゃんと覚えてよね、ここはもう日輪だよ』
瑞雲が言った。いつになく真面目な声だった。
八千代は濡れた足のまま帳面を開いて、百三十二番目を書いた。問いではなかった。
日輪では、娘は沢に入らない。娘は脛を見せない。わたくしは、ここでは娘である。
それから少し考えて、その下に小さく書き足した。出雲の沢の主は、約定により嫁を取らない。日輪の沢の主は、取る。
沢の真ん中の岩の上で、彫り物のある丸い石が、苔に半分覆われたまま流れに洗われていた。何が彫ってあったのかは、結局全て読めず仕舞いになった。
「お菊殿。あの石は、何なのでございますか」
お菊は沢の方を見ずに、草鞋の紐を締め直した。
「……帰りに、またここを通るだら。そん時に教えたる。今日はもう、沢を見んとき」
◇
日が傾きかけた頃、道の脇の森との境目に、白い布の包みが置かれているのが見えた。
人の丈ほどの細長い包みで、森の最初の木の根元にそっと寝かせてある。傍らに欠けた茶碗がひとつ。中に握り飯がひとつ。野の花がひと束。
人の形だった。
その包みから少し離れて、五人の男女が立っていた。
皆、野良着の上に古い革の胸当てを着けて、手に手に槍を持っている。槍の穂先は笹の葉のように細長く、柄は手の脂で黒く光っていた。腰には鉈や山刀を差し、もう片方の腰に下げた袋の口から、白と灰色の混じった粉がこぼれていた。
一番年嵩の四十がらみの女が、籠に気付いて槍の石突きで地面を一つ突いた。左の目に古い傷が縦に走っていて、その目は白く濁っていた。立っているだけなのに、どこにも隙がなかった。槍の石突きは擦り減って丸くなり、胸当ての革は何度も繕われて継ぎだらけだった。
「お菊さんか」
「おう、おとくさん。今日が二晩目かん」
「三晩目だ。今夜を越したら、主さんにお任せできる」
お菊が手を合わせ、寅吉と卯吉も手を合わせた。八千代も慌てて手を合わせた。
「この村の人だら。山にお返ししとるだよ」
お菊が八千代に言った。
「人は死んだら神さんの懐に還るもんだで。土ん中に埋めるとこもあるけど、この辺の古い村は、こうして森の境に置いて山の主さんに返すだよ。主さんとこの獣が来て食べてくれりゃ、その人は神さんの一部になる。この森のどっかの木んなって、どっかの獣んなって、ずっとここにおる」
「では、あちらの方々は」
「ここの防人だに」
防人。地誌に一行だけ書いてあった言葉だった。神通力を持たないまま、鍛えた体と技と槍と塩とで祟りと戦う者たち。
「亡骸を森に置いたら、三晩、村の防人が番をするだよ。主さんとこの獣が来る前に、祟りが来ることがあるでね。祟りに食われた亡骸は、山へ還れん。還れんで、また祟りになる」
片目の槍の女、おとくが八千代を見た。濁っていない方の右目で、上から下までじっくりと。
「貴人の子か。いや、出雲か」
「左様にございます」
「祝人だな。目がそういう光り方をしとる」
「……見て分かるものなのでございますか」
「祝人の目は、わしらにはないもんだで」
おとくはそれ以上何も言わずに、包みの方へ向き直った。後ろの四人も同じ方を向いた。一人は髭の濃い大男で、一人は痩せた年寄りで、一人は八千代とそう変わらない背丈の十五、六の少年だった。もう一人は、少年の母親くらいの年の女だった。
皆、黙って森の暗がりを見ていた。
お菊は籠の脇から動かなかった。籠の前に立って、腰の鈴の束に軽く手を添えたまま、防人たちの背中と、森の暗がりと、街道の上手と下手とを、ゆっくり順に見ていた。
「お菊殿は、ご一緒に番をなさらないのでございますか」
「番はあの人らの仕事だに」
お菊は目を動かしたまま言った。
「うちの仕事は、あんたを三河まで無事に届けることだら」
■次回予告
・倒木の下の、こちらを見ているもの
・防人と、祓士の役目
・西京の高札




