第一章 一話
■前回のあらすじ
・十歳の朝霧八千代は、出雲の汽車で「問いの帳面」を広げ、日輪行きを前に胸を躍らせている
・綾月の文は「退屈だ。来い。/以上。」の二行。以上の下には、たいてい書かなかったことの方が多い
・老婆に「向こうではおやめなさい」と言われ、野良の祝人の母子の記事を読み、摂津口の巨大な鳥居に辿り着く
# 第一話 霧の鳥居
関所は鳥居の手前にある豊かな森の中にひっそりと建っていた。
外では蝉が狂ったように鳴いていた。
出雲側の建物は見慣れたクラシックな息壌造りで、硝子の扉と白い床と整然と並ぶ窓口と、冷房の効いた快適な空気があった。窓口の利発そうな男性の係員が書類と計器に目を落としながら淡々と言った。
「取決めにより、ここから先の電子機器の持ち込みは禁止となります。お手持の小瓦板等はこちらでお預かりします。お手荷物はこちらの絡繰口にお願いいたします」
八千代は懐から小瓦板を取り出し、頭の上から色付きの電網眼鏡を外した。これらの電子機器は出雲なら子供でも持っている文明の利器である。手荷物の風呂敷をベルトコンベアーに載せるとゲートの向こうへと吸い込まれていった。
「電子機器はこちらの二点でございます」
係員は八千代の声に驚いたように顔を上げた。書類に落としていた目が、書類の歳の欄と、八千代の顔とを、二度行き来した。それから、そっと盆の上の小瓦板と眼鏡を受け取った。
「……確かに、お預かりいたします。それと、結緒も」
八千代は三つ編みの結び目から銀の簪を抜いて盆に載せた。朝霧の家に伝わる古い簪で、根元の飾り玉の奥に、小指の爪ほどの息壌結晶が一粒仕込んである。神通力の焔で焼き締めて作る、力を細めるための玉だった。
係員は細い鉤の付いた道具で玉の留めをそっと外して、玉だけを桐の小箱に収めた。蓋に名札を貼ろうとして、筆が止まった。
「行き先は」
「三河でございます。ここから籠で五日と伺っております」
「……五日」
係員は小さく繰り返した。それから、名札に八千代の名を、ずいぶん丁寧な字で書いた。
「日輪には杭も網もございませんので、緒は向こうでは何の意味も成しません。お戻りの際に、こちらでお返しいたします。……必ず、お返しいたしますので」
玉を抜かれた簪は、ほんの少しだけ軽かった。八千代はそれを三つ編みの結び目に挿し直した。細めの役に立たなくなっても、挿さずにいるとどうにも落ち着かない。物心ついた時から挿している簪だった。
「向こうでは、案内の方が」
「はい。三河の祓士の方が、関所の裏まで迎えに来てくださると」
「……そうですか。それなら」
係員は自分に言い聞かせるように頷いた。
「では、そこの絡繰の門を潜って頂いて、はい、結構です」
八千代が門を潜り、係員の男に軽く頭を下げると、係員も立ち上がって見送ってくれた。
「お嬢さん、どうぞお気を付けて、行ってらっしゃい。……どうか、ご無事で」
「ありがとうございます、行って参ります」
最初の事務的な態度とは打って変わって、やけに丁寧な見送りだった。思い当たる節がない。少し引っかかるものを感じながら、八千代は風呂敷を片手に廊下を進んだ。
廊下の角を曲がる時、後ろで係員が隣の窓口の同僚に小さく言うのが聞こえた。
「……十の子が、あの修羅の地へ、か。摂津から三河まで、五日の長旅……案内はあるにしても」
何の話だろう、と八千代は思った。思っただけで、すぐに忘れた。
『さらだばー、出雲』
「暫しの別れにございます」
建物の奥で床が変わっていた。
白い床がある線を境にふっと木の古い床へ切り替わり、硝子の壁が檜の壁になる。冷房の乾いた空気は、線を越えた途端に湿った青い木の匂いのする空気になった。建物そのものが出雲と日輪を縫い合わせているようで、八千代は何となしに線の手前で歩みを落とした。
ここから先は日輪の縁である。
◇
檜の側の窓口には、狩衣を着た初老の男が静かに座っていた。
背筋が真っ直ぐで肩が厚い。出雲の役人にはまず見かけない立派な体つきだった。男は八千代の差し出した招待状を受け取って差出人の名を見ると、ほんのわずかに眉を上げ、それから八千代を上から下まで眺めた。
浅葱の小紋。その上に羽織った、出雲の兵が着るような短いカーキの上着。黒い編み上げの靴。三つ編みの結び目に挿した銀の簪。
「出雲のお方どすな」
どす。京の言葉だった。書物では読んだことがあるが、耳で聞くのは初めてだった。
「左様にございます」
「お歳は」
「十にございます」
「……十」
男はもう一度八千代の顔を見た。器走りとは言わなかった。言わずとも分かる、という顔だった。
「こっちへおいでやす」
おいでやす。八千代は胸の内の帳面にそっと書き留めた。どすは、です。おいでやすは、いらっしゃい。日輪の言葉、その一とその二。
◇
通された小部屋に窓はなかった。
壁に掛けた行灯の中で、蝋燭ではなく、白くぼんやり光る丸い石が灯っている。部屋の真ん中の台に丸い鏡が据えられていた。大人の顔ほどの大きさで、縁には蛇とも波とも雲ともつかないうねる線が彫られ、台座には注連縄が巻かれている。
ただの鏡でないことは、朝霧の娘ならひと目で分かった。
朝霧家は神域の品を扱う家だ。古い社の御神体の修繕と、神域に長く置かれて力を帯びた品の鑑定と、その目録作りを代々の家業にしている。八千代は七つの時から蔵の目録係をしていた。
「前へ。名を」
八千代は一歩進んで鏡に向き合った。
「朝霧八千代と申します」
鏡の面が水のように揺れた。映っていた八千代の顔がふっと薄くなり、その奥から淡い光の筋が浮かび上がって、絡まり、ほどけ、字の形に結び直された。
朝霧八千代。
自分の名が、自分の顔の代わりに鏡の中に浮かんでいる。胸の奥を誰かの指先でそっとなぞられて、自分という帳面の一行を確かめられたような感覚があった。
「……刻まれておすな。結構どす」
役人は鏡の字と、出雲の神祇の役所が出した届け書とを見比べて、届け書の方を読み上げた。
「万物を見分けるもの……届けと名、相違ございまへん」
鏡の中の字がほどけて消え、元通りの八千代の顔が映った。
八千代はその顔をじっと見返したまま、口を開いた。
「恐れながら、お伺いしてもよろしゅうございますか」
「へえ」
「この鏡には、名しか映らないのでございますか。出雲の継祚禄では、名と一緒に、授け神も力の名も読めると聞いております。届け書を見比べておられたのは、そのためでございましょうか」
役人は少しだけ目を細めた。面白がっているのか値踏みしているのか、八千代には分からなかった。
「よう見てはりますなあ。……これは孫写しどす」
「孫写し」
「継祚禄の本物は、伊勢の奥宮においでになる。出雲にも本物が一枚、蝦夷にも一枚。昔はひとつの大きな鏡やったのを、三つに分けはったと言いますな。その本物を写した写しが四枚。神さんから力を授かれるのは、本物とその写しだけどす。写しの写し、孫写しになると、刻まれた名があるかないか、それしか分からしまへん。せやさかい、関所では届けと名を突き合わせますのや」
「では、名があって届けがなければ」
役人は黙って目を糸のように細めて笑顔を作った。
その時、隣の部屋で子供が泣いた。
◇
襖が細く開いていた。
隙間の向こうの板の間に、女と子供が座っていた。
女は三十前くらいで、日に焼けた百姓の顔をしていた。両の手首を白い縄で一つに括られ、縄には字の書かれた札が幾枚も結ばれている。その膝に五つか六つの女の子がしがみついて泣いていた。女の子の額にも札が一枚貼られていて、結った髪に小さな白い花が一輪挿してある。
挿してあるのではない、と八千代は気付いた。
花は女の子の髪の中から咲いていた。泣くたびに花びらが一枚ずつ増えて、増えたそばから額の札がじりじりと焦げて、焦げるたびに花がしおれて、また咲いた。
「ああ…三日前に、出雲へ抜けよう思て、来はったんどす」
役人が静かに言った。
「その子、継祚禄には名が刻まれてましたんや。それを局に届けんと、隠しとった。神祇局に届けたら、子は養成所へ引き取られて、親は二度と顔を見られへんようになる。そう思い込んではったらしい」
「思い込んで、というのは」
「顔は見られます。年に一遍。……まあ、そういうことになってますのや」
役人の言い方は柔らかいが、温度を感じられなかった。
「あの方々は、どうなるのでございますか」
「子は局が引き取ります。神通力があるんやったら、どこぞの村が喜んで迎えますやろ。運のええ子どすわ」
「お母様は」
「母親は尾張の百姓どすさかい、尾張の藩がお裁きになります。届けを出さずに祝人を隠すのは、定めでも重い罪どす」
八千代は襖の向こうから目を離せなかった。
では、運の悪い子は、と言いかけて口を噤んだ。
役人も特に何も言わず、どこか満足そうに頷くと立ち上がり、襖をすっと閉めた。
◇
男が襖閉める前の一瞬に、八千代は見てしまった。
見るつもりはなかった。ただ瞼の奥に力が入ってしまっていた。瞳の奥が細く縦に絞られて、世界の輪郭が一段鋭くなる。朝霧の家の者が蛇の目と呼ぶ、物を見分ける目。
蛇の目は生き物の中を覗かない。覗けない。だから八千代が見たのは女でも子供でもなく、女の手首を括っている白い縄の方だった。
縄には来歴があった。
どこかの薄暗い蔵で、年寄りの縄師が一本ずつ字を撚り込みながら綯ったまじないの縄だった。それから幾人もの手首を括ってきた。泣いている手首も、暴れている手首も、もう諦めた手首も。その中に一つ、ひどく細い手首があった。今の女の子と同じくらいの。その手首は、縄を解かれないまま冷たくなっていった。
八千代は力を抜いた。
閉じた襖の向こうで、子供の泣き声だけがまだ続いていた。
「出雲のお方は、ああいうのを見はると、すぐ顔に出はりますなあ」
役人が溜息混じりに呟き、今度は真っ直ぐに八千代の目を見る。
「日輪では、滅多な事で心のうちを顔に出したらあきまへん。恨みも哀れみも、祟りの種になりますさかい。悲しいのは悲しいだけにしときなはれ」
「……肝に、銘じます」
「ほな、よい旅を」
八千代は頭を下げて小部屋を出た。
出る時に台の上の孫写しがもう一度目に入った。鏡は八千代を映し、八千代の後ろに伸びる影を映していた。
八千代は帳面を開かなかった。百二十九番目の問いの答えを、書き足す気にはなれなかった。
◇
関所の裏手に籠が待っていた。
黒塗りの飾りの少ない籠だが木目が美しく、漆の艶が夏の陽を柔らかく弾いている。担ぎ手は二人の丈夫で、どちらも日に焼けて腕が丸太のように太く、顔がよく似ていた。兄弟だろう。
籠の脇に小柄な老婆が一人立っていた。
白髪をきりりと後ろで束ね、藍染めの野袴に脚絆を巻き、腰には小さな鈴を幾つも下げた帯を締めて、背中に背負い籠を負っている。顔は深い皺だらけで、日に焼けて胡桃の殻のような色をしていた。
老婆は八千代を見上げてにっと笑った。前歯が一本欠けていた。
「あんたが朝霧さんとこのお嬢さんだら」
だら。また知らない言葉だった。
「……左様にございます」
「ほうか、ほうか。こりゃまあえらいべっぴんさんだに。うちは菊ゆうもんだわ。三河の祓士だもんで、鬼姫さま、ああ綾月様に言われて、あんたを迎えに来ただよ。三河まで五日の道のりだに。よろしく頼むでね」
「朝霧八千代にございます。道中、よろしくお願い申し上げます」
八千代が深々と頭を下げると、お菊は目を丸くしてから、からからと笑った。
「えらい固いねえ。出雲の人は、みんなそんな喋り方するだかん」
「わたくしが少々固いだけかと」
「ほうだら。まあええわ。五日もありゃ柔らこうなるら」
八千代は胸の内の帳面に慌てて書き足した。だらは、だろう。だには、だよ。だもんでは、だから。らは、だろうの略か。かんは、かい、か。日輪の言葉、その三からその七まで。まだ霧の鳥居の手前だというのに、もう帳面が足りない。
お菊は八千代の顔を下から覗き込んで、ふと笑うのをやめた。
「あんた、さっき関所で何ぞ見せられただら」
「やはりあれは、見せられたのでございますね」
「顔に書いてあるだに」
お菊は八千代の頬を、節くれだった指でぺちんと軽く叩いた。
「それ、霧に持ってかんようにしりん。霧の中は神さんの懐だで、腹ん中溜めとるもんがあると、寄ってくるもんがおるでね」
◇
担ぎ手の兄弟は寅吉と卯吉といった。伊勢の出だという。
「お嬢さん、籠揺れるで、しっかり掴まっとってな」
「揺れるでゆうても、兄やんの担ぎは下手やで、ほんまに揺れるんやに」
「黙っとれ卯。お前の方が下手やろが」
「兄やんの方が下手やに」
「お前や」
「兄やんや」
お菊が二人の尻をぱしんと叩いた。
「ええで、はよ担ぎん」
籠に収まりながら八千代は胸の内に書き足した。伊勢の言葉は、やにで終わる。三河の言葉は、だらで終わる。京の言葉は、どすで終わる。出雲の言葉はどこにでも行ける言葉で、どこの言葉でもない。汽車と網と塔で繋がれた、四角く均された言葉だ。日輪の言葉は、山や川で隔てられた谷ごとに、それぞれの形で生きているのだろう。
◇
籠が霧に入った。
音が消えた。あんなに煩かった蝉の声も遠くの汽笛も、厚い綿に包まれたように遠ざかって、代わりに圧が来た。胸の奥を大きな掌でゆっくり押されるような重さだった。苦しくはない。ただ世界の密度が変わっていく。空気が水に近付き、水が土に近付いていく。
霧に入る前、八千代は帯の間から懐中時計を出していた。
祖父が若い頃に須賀の職人に一から手で作らせた時計で、文字盤の数字まで手で彫ってある。これなら霧でほどけないだろうと父が持たせてくれたもので、関所の出雲側の大時計にきっちり合わせてあった。霧の中で蓋を開けると、秒針が動いていた。
動いていたが、どこかおかしかった。
一つ刻むたびに、ほんのわずかに、次の一つが遅れる。時間の流れすら粘り気を帯びたようにゆっくり重くなってゆく。
八千代は時計を見つめたまま、息を詰めて、自分の胸の内で秒を数え始めた。時計とは別に、一つずつ。
『こわくないの』
「面白うございます」
八千代は小声で答えた。
『そういうとこだよ』
耳の奥で何かが鳴っていた。鈴の音にも遠い祝詞にも獣の唸りにも聞こえた。あるいは自分の血の流れる音だったのかもしれない。籠の外でお菊の腰の鈴がちりんと鳴った。
「大丈夫だに。霧はすぐ抜けるら」
ちりん、ちりん、と鈴の音が霧の中で道標のように鳴り続けた。
その音に重なって、一度だけ、何かが籠のすぐ脇を通った気がした。
足音はなかった。大きな気配だけが、籠の簾一枚向こうを、のそりと通り過ぎていった。寅吉と卯吉の足が止まり、お菊の鈴が止まった。誰も何も言わなかった。
八千代は時計を握ったまま目を閉じた。直感的に目を開けてはいけないとそう思ったのだ。
どれほどそうしていたのか分からない。
やがて鈴が鳴り始め、籠がまた揺れ始めた。担ぎ手の足音が、石畳を踏む硬い音から土を踏む柔らかい音に変わった。
八千代は目を開けて、時計を見た。
秒針は何事もなかったように、まっすぐに時を刻んでいた。ただ八千代が胸の内で数え続けた数と比べると、時計はちょうど五分ほど遅れていた。数え間違えたのか、時計が遅れたのか、霧の中で時がどこかへ行ったのか、八千代には分からなかった。分からないので、帳面に百三十番目の問いとして書くことにした。
簾の隙間から、緑が見えた。
緑などというひとつの言葉では到底足りない、何層にも何層にも折り重なった黒々とした森が、空を覆っていた。
ここが、日輪。
■次回予告
・森の道と、沢の真ん中の古い石
・日輪では、娘は沢に入らない
・森の境に置かれた白い包み




