第一章 零話
はじめまして。
本作は、神々の地「日輪」と神と約定を結んだ国「出雲」を舞台にした和風ファンタジーです。
ここから、出雲の少女・朝霧八千代の、日輪を知る旅が始まります
# 零話 百二十七番目の問い
葉月の汽車は蒸していた。
窓を上まで押し上げても入ってくるのは湿った熱い風と機関車の吐く石炭の匂いと稲の青い匂いばかりで、少しも涼しくはならなかった。線路の両側には田が広がり、穂を孕みかけた稲が風のたびに一斉に傾いて銀色の腹を見せる。その向こうに白い入道雲が立ち、さらに向こうには息壌建築の塔が並んでいた。塔の屋上には朱塗りの小さな社が載っていて、電波塔の天辺にも律儀に鳥居が立っている。
見慣れた出雲の田舎によくある景色である。
八千代は窓際の席で膝を抱えていた。
抱えた膝の上に帳面を載せて、帳面の上に地誌を広げて、地誌の上に頬杖をついている。暑いので羽織代わりの上着は脱いで丸めて枕にし、小紋の袖は肘までたくし上げ、足袋も脱いで座席の下に揃えてあった。素足の指の間に感じる風が少しだけ涼しく感じる。
斜向かいの席の老夫婦が、さっきから何度かこちらを見ていた。
年若い娘が汽車で墨壺を開けて帳面に何か書きつけているのが珍しいのか。こんな座り方をしているのが珍しいのか。たぶん両方だろうと思ったが、八千代は気にしなかった。汽車の中がこれだけ空いているのだ。人様の迷惑にならなければ面と向かって咎める人もいないだろう。
『足ぃ』
襟の内側で細い声がした。
「何です」
『さっきから向こうのおばあさんがチラチラとコッチ見てるよ』
「暑いのです」
首に巻き付いた白銀の式神が、山吹色の紋様をちかちかと瞬かせて黙った。瑞雲である。八千代にしか聞こえない声で、八千代が口にしないことばかり言う。
八千代は地誌の頁をめくった。
出雲学問所の教授が二十年程前に書いた「日輪見聞録」の写しで、ほとんどの頁が八千代の書き込みで黒くなっている。帳面の方には問いが並んでいた。日輪の灯りは何で灯すのか。日輪の銭は誰が鋳るのか。日輪の子は字をどこで習うのか。日輪の神はどんな形をしているのか。地方ごとに違う言葉を喋るのは本当か。日輪でもやはり祟りは恐ろしいのか。日輪の死者の送りは出雲とどう違うのか。
百二十七番まで来ていた。
汽車に乗ってから十一増えた。
◇
帳面の間に、文が二通挟まっていた。
一通は須賀湊からのものだった。出雲京の東で代々工房を営む須賀家の次男で、八千代の許嫁である。
許嫁、という二文字を思い浮かべるたびに、むず痒い思いをする。
彼の事が嫌いなのではない。湊は穏やかで礼儀正しくて字が綺麗で、筆まめだった。出立の三日前に届いた文も、残暑お見舞い申し上げますから始まって、庭の朝顔が今年は青ばかり咲くことと、工房の職人が猫を拾ったことと、日輪は暑いと聞くので体に気を付けてほしいことが丁寧に綴られていた。
そして最後に一行。
お帰りを、お待ちしております。
八千代はその一行を読んで、そっと目を逸らす。
待たれている。許嫁として。妻になる娘として。この体が女だから。
『また止まってる』
「推敲しているのです」
『許嫁へのお便りに推敲いる?』
いる。失礼がなく、冷たすぎず、期待させすぎず、それでいて向こうが傷付かない、ちょうどよい温度の文。
ふと思う、あの頃の自分が今の"私"を見たら何と言うだろう。笑うだろうか。たぶん黙って目を逸らすだろう。
八千代は窓の外を見た。稲田の上を白鷺が一羽低く渡っていく。その白さが目に痛かった。
"私"になる以前のことは、もうぼんやりとしか思い出せない。顔も声も住んでいた町の名も、薄い紙を何枚も重ねた向こうのように遠く感じられる。ただ時々ふとした拍子に胸を刺すものがある。夕餉の味噌汁の匂い。小さな手に指を握られた感触。玄関の鍵がかちゃりと鳴る音。そういうものが何の前触れもなく浮かび上がってきて、胸を刺して、また沈む。
八千代はそれを誰にも言わない。言えるはずもない。
だから代わりに目の前のものを見る。稲の青と白鷺の白と入道雲の眩しい縁を見る。今の自分が生きているのは此処なのだと、七つの冬までかけて決めた。決め事は守る。
八千代は筆を取り直した。
湊様。お心遣い痛み入ります。日輪にて身を慎んで務めて参ります。朝顔の青と猫の名、楽しみにしております。湊様もどうぞご自愛くださいませ。
お待ちしております、の一行にはあえて触れなかった。
文を畳んで封をした。摂津の駅で出雲への便に出せば、しばらくは考えずに済む。考えずに済むことに少しだけほっとして、ほっとした自分が少しだけ嫌だった。
◇
もう一通は、ひどく短い。
上質な和紙に、太く荒く墨の飛んだ字で、たった二行。
後宮は退屈だ。来い。
以上。
差出人の名はなかったが、八千代にこんな文を書いて寄越す人はこの世に一人しかいない。
綾月。元は日輪の貴人、斎宮家の娘で、今は日輪の帝の十三番目の妃である。四年前、出雲に留学してきた、大人びていて、背が高く、多くは語らないが言いたいことはハッキリと言うそんな女性だった。そして何より圧倒的なまでの神通力の強さが彼女の特徴だった。
当時七つの幼子だった八千代は、彼女の案内役という名の世話役兼監視役を偉い人に頼まれた。最初は大人達に押し付けられたのだと思いながら淡々と役目をこなしていたが、散々っぱら振り回されて、気付いた時には一年と五か月が経っていた。そして、帰り際に彼女は八千代の事を友と呼んでいた。
その彼女が身籠ったという。十四にもならないうちに。
神通力を持つ者は体が早く育つ。器走り、と日輪では呼ぶ。八千代自身も十歳にして背丈も顔つきも十五、六の娘のようだと言われる。日輪ではそれが当たり前で、十三で母になる女子も珍しくはないのだと地誌には書いてあった。早いと思うのは自身の経験と知識からくる物差しのせいだと八千代は分かっていた。分かっていて、それでも胸の奥が落ち着かなかった。
「後宮に収まるような器ではないと思いますが、果たしてどうでしょう」
『怪獣みたいな人だもんねー』
彼女の退屈だは、助けてくれという意味だ。一年半近く隣にいた八千代にはそれが分かる。そして以上の下には、たいてい書かなかったことの方が多い。
◇
摂津の二つ手前の駅で、老夫婦が降りた。
降り際に老婆が八千代の座席の横で足を止め、少し迷うような顔をしてから、小声で言った。
「お嬢さん、日輪へ行かれるのかしら」
「左様にございます」
「その座り方、向こうではおやめなさいね」
八千代は瞬きをした。
「…ええ、ご忠告痛み入ります。」
「向こうでは、ちゃんとした娘さんは、人前で足を出さないから。あなたくらいの年頃の娘さんならなおさら。……余計なお世話だったらごめんなさいね。私、若い頃、摂津口の宿で働いていたものだから」
老婆はそれだけ言って、夫に手を引かれて降りていった。
八千代は自分の素足を見下ろした。
あなたくらいの年頃の。
あの老婆には八千代が十五、六に見えていたのだ。十歳の子供が膝を抱えているのではなく、十五、六の娘が素足を出して膝を抱えているように。
『だから言ったのに』
「……分かっております」
八千代は足袋を履き直した。それから少し考えて、帳面に百二十八番目の問いを書いた。
日輪の子供は何歳から大人か。
◇
空いた向かいの席に、老夫婦の置いていった新聞が畳んで残っていた。
八千代は手に取って、社会面の隅の小さな記事に目を留めた。
摂津口にて日輪から出雲側への越境を図った母子、関所にて拘束。母子は日輪の者で、子は継祚禄に名が刻まれながら届け出のない、いわゆる野良の祝人とみられる。出雲側の関所は出雲と日輪の取り決めに基づき身柄を日輪に引き渡した。
記事はそれで終わっていた。
野良の祝人。祝人は神通力を持つ者のことだ。日輪では祝人が届け出をしないとどうなるのか、地誌には書いていない。
八千代は帳面を開いて、百二十九番目の問いを書いた。
日輪で届け出をしない祝人は、どうなるのか。
書いてから、新聞の日付を見た。三日前だった。
◇
摂津の駅を出た瞬間、八千代は足を止めた。
正面にとてつもなく巨大な鳥居があった。
駅前通りの突き当たり、商館と役所の建ち並ぶごく普通の出雲の街並みの、その先に、巨大大鳥居が空を塞いでいた。
大きいという言葉では足りなかった。柱の一本が商館の塔ほどもあり、笠木は夏の空のずっと高いところにあった。朱塗りは何百年もの雨風に晒されて錆びた血のような色に沈んでいる。
そして鳥居の向こうは白かった。
霧だった。晴れた夏の昼日中だというのに、鳥居の内側だけが乳白色に閉ざされている。その霧が生き物の呼吸のように、ゆっくりと膨らんでゆっくりと萎んでいた。
日輪大結界。
出雲の人ならば誰でも知っているが、知っているだけで中を知る人はそこまで多くない。あの霧の向こうに日輪がある。現代において未だに神代の姿を保ち続けている土地が。
八千代の背筋を何かがぞくりと這い上がった。
知りたい。あの霧の向こうは出雲の約定の外であり、剥き出しの神代の世界が広がっているという。書で読んだ事が真であるならば、私はそれをこの目で見て書き留めたい。
『顔。にやけてる』
「気の所為でございましょう」
『口の端、上がってる』
黙りなさい。
■次回予告
・出雲と日輪の床の境目
・京言葉の役人と、隣の部屋の泣き声
・霧の中は神さんの懐




