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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 九話

■前回のあらすじ

・家の来歴を読み、納戸で「ひと口」と言いながら死んだ婆さまの水入れの瓢箪に辿り着く

・お菊と防人たちが恨みを祓い、最初の願いだけを紙の舟で流す

・祟りを出した家は村を出される。「日輪の掟は、生き残るように出来とるだに」

# 九話 大義である、友よ


 五日目、尾張の都には寄らず、三河に入った。


 ふと風が変わった。海の匂いが混じり始めて、田の向こうに遠く青い海が光っていた。そして道の先に塀が見えた。


 白い塀だった。どこまでも続く白く高い塀の上に瓦が載り、瓦の向こうには巨大な入道雲が見えた。塀の内側に木々が見えた。手入れがされた美しい森で、峠の原始の森とはまるで違う、人の手が一本一本の木に隅々まで入った里の中の森だった。


「後宮だら。帝の奥方さま方がお住まいだに。綾月様は、この奥の、そのまた奥の庵だよ」


 門の前には兵が立っていた。一人や二人ではなかった。門の両脇に十人ずつ、揃いの藍の衣に革の胸当て、十文字の槍の、都の奉行所の防人たちだった。その後ろに、狩衣に太刀を佩いた男が三人。腰に札の束を下げていた。祓士だった。塀の上にも見張りがいた。


 後宮という場所に不釣り合いな程に物々しかった。


 八千代は簾越しに兵たちの顔を見た。どの顔もひどく硬かった。ただの警備ではない。何かを警戒している顔だった。外からの何かを。あるいは、内からの何かを。


 八千代は帳面を開いて、百三十三番目の問いを書いた。


 この門は、誰を守り、誰を見張っているのか。


◇


 門の内側で、一人の娘が待っていた。


 臙脂色の着物に、黒髪をきちんと結い上げている。八千代より少し年上に見えた。顔立ちは柔らかいが、目の奥に芯の通った光があった。娘は籠から降りた八千代の前で、深く優雅に頭を下げた。


「ようお越しあそばしました。朝霧八千代様」


 あそばしました。また違う言葉だった。京の言葉とも三河の言葉とも違う、ゆっくりとした丁寧な宮中の言葉だった。


「藤家のあやめと申します。綾月様のお側にお仕えしております。長旅、お疲れでございましたでしょう」


「朝霧八千代にございます。お迎え、痛み入ります」


 あやめは顔を上げて八千代を上から下まで見た。京の女将と同じ目だったが、女将の目よりずっと柔らかかった。その目が、八千代の上着の脇の、手で縫い直した縫い目の上で少しだけ止まり、八千代の額のあたりで少しだけ止まった。峠で土をつけた額だった。土はもう落ちているはずだった。


「綾月様がお待ちかねでございます。……朝から三度、門の方をお尋ねでございました」


 三度。あの人が。


 八千代は思わず笑いそうになった。後ろでお菊がにやにやしていた。


「ほんじゃあ、うちはここまでだに。八千代の嬢さん、達者でな」


「お菊殿」


 八千代は振り返った。五日間、隣を歩いてくれた小さな老婆を。


「……ありがとう存じました。本当に。沢でも、踊りの晩でも」


「ありゃ、二遍とも、あんたが勝手に危のうなっただけだに」


 お菊は欠けた前歯を見せてにっと笑った。


「あんた、最初より、ちっとは柔らこうなったら」


「そう、でございましょうか」


「ほうだよ。顔が柔らこうなっとる。それと、ちっと怖い顔もするようになった。どっちも、ええ顔だに」


 お菊は腰の鈴をちりんと鳴らした。


「外から見れば日輪は、おっかないとこだら。けど、ええとこでもあるで。よう見て、よう覚えて、よう生きりん」


 生きりん。生きなさい。


 八千代はその言葉を、胸の内の帳面の、いちばん大事な頁に書き留めた。


 寅吉と卯吉が、籠の脇で並んで頭を下げた。


「お嬢さん、また乗ってな」


「次は兄やんやのうて、わしが前を担ぐやに」


「前はわしや」


「わしやに」


 お菊が二人の尻をぱしんと叩いた。三人は笑いながら門を出ていった。鈴の音が、ちりん、ちりんと遠ざかっていった。


◇


 後宮の奥は深かった。


 白砂の庭をいくつも抜け、池を渡り、橋を渡った。渡るたびに人の気配が薄くなり、木々の気配が濃くなっていった。庭が森に変わっていく。手入れされた森が、少しずつ、手入れされていない森に近付いていく。


 そして最奥。森の中の小さな空き地に庵があった。


 茅葺きの屋根と低い垣根と縁側。縁側の前の庭に野苺が赤く実っていた。


 その縁側に、人が座っていた。


 黒く長い髪を高く一本に結い上げている。黒紺の狩衣。武人の装束である。だがその腹は、狩衣の上からでも分かるほどに大きく膨らんでいた。


 八千代が垣根の戸をくぐった、その瞬間。


 庵がゆらりと揺れた。


 ぎしりと縁側の床板が軋み、垣根の竹がしなった。庭の野苺の葉が、不規則に上下に揺れる。八千代の体もまたゆっくりと呼吸するように上に下に引かれる。


「綾月様」


 あやめが静かに言った。咎めるというほど強くはない、けれどはっきりと抗議の色のある声だった。


 その声と一緒に、八千代の体を上に下に引いていたものが、すうっと遠のいた。遠のいたというより、八千代の周りの寸毫(すんごう)ばかりの空気だけが、元の重さのまま留め置かれたようだった。垣根の竹も野苺の葉も、まだ揺れているのに。あやめの指先が、いつの間にか八千代の袖にそっと触れていた。


 縁側の人は、気にした様子もなかった。


 あやめは小さく溜息をついた。


「……仕方の無いお方」


 八千代は、あやめの横顔と縁側の人とを見比べた。今のは何だったのだろう。あやめは何もしていないように見えた。ただ名を呼んで、溜息をついただけだった。


 やがて重さと軽さがふっと消えて、野苺の葉がゆっくりと起き上がっていった。あやめの指先も、八千代の袖からそっと離れた。


 その人が立ち上がった。大きな腹を片手で支えて、ゆっくりと縁側から降りてきて、八千代の前に立った。


 背が高かった。出雲で最後に会った時よりもずっと。八千代も器走りで背が伸びたはずなのに、まだ見上げなければならなかった。烏の濡れ羽色の髪。黒と灰が溶け合った大理石のような、意志の強い目。少女の頃の面影と、母になりかけている顔が、ひとつの顔の中でせめぎ合っていた。


 その人は八千代を見下ろして、ほんのわずかに口の端を上げた。


「大義である、友よ」


 八千代は膝を折って、深く頭を下げた。


「朝霧八千代、ただいま参上いたしました」


 それから顔を上げて、二年あまりぶりの顔を見た。胸の奥で何かがほどけた。


「……ご無沙汰をしておりました。綾月様」


「遅い」


 綾月はぶっきらぼうに言った。


「待ちくたびれた」


「五日の道のりにございますので」


「ああ」


 綾月は八千代の頭にぽんと手を置いた。大きな、傷だらけの手だった。その手が、ひどく温かかった。


 手は、すぐには離れなかった。


 綾月の大理石の目が、八千代の顔を、上から下まで見ていた。あやめが見たのと同じところで、同じように少しだけ止まった。縫い直した上着の脇と、額と。それから、八千代の目の奥で、長いこと止まった。


「……いろいろ、見てきた顔だな」


「……はい」


「話せ。全部」


「全部、でございますか」


「全部だ。以上の下に、書かなかった分も」


 八千代は瞬きをした。それから、少しだけ笑った。


「以上の下のことは、わたくしの方こそ、お伺いしようと思っておりました」


 綾月は答えなかった。答えずに、八千代の頭の上の手で、八千代の髪をくしゃりと一度だけ乱した。


「……よく来た」


 小さな声だった。あやめにも聞こえないくらいの。八千代にだけ聞こえるくらいの。


◇


 話せ、と言われたのに、八千代はその晩、ほとんど何も話せなかった。


 夕餉の膳の前に座って、八千代が箸を取るまで綾月が自分の箸を取らずに待っているのに気付いて、慌てて箸を取って、最初のひと口を食べて、三河の味噌の濃さに驚いて、二口目を食べたところまでは覚えていた。


 京の高札のことを話そうとした。沢の主のことを話そうとした。ひだるのことを、坂下の村のことを、納戸の瓢箪のことを話そうとした。


 口を開くたびに、言葉より先に瞼が落ちてきた。


 五日分の、知らなかった重さが、一度に肩に乗ってきたようだった。


「綾月様。八千代様が、舟を漕いでおいであそばします」


「見れば分かる」


「お床を、延べてまいりましょうか」


「……ああ」


 誰かの手が、八千代の手から箸をそっと取った。誰かの腕が、八千代の肩を支えた。大きな、傷だらけの手だったような気がした。臙脂色の袖だったような気もした。


 八千代は、庵の奥の、まだ戸の閉まったままの檜の匂いのする部屋の、その隣の部屋の布団の中で目を覚ました。


 夜だった。いつ寝かされたのか覚えていなかった。行灯の石には布が掛けてあって、障子の外の月明かりだけが、畳の上に四角く落ちていた。


 喉が渇いていた。起き上がろうとして、やめた。


 部屋の空気が、少しだけ重かった。


 苦しい重さではなかった。垣根の戸をくぐった時に野苺の葉を伏せさせた、あの重さの、ずっとずっと薄い、端の方だけだった。戸の向こうから、ほんの少しだけ漏れてきている。綿入れを一枚、上から掛けられているような重さだった。


 戸の向こうに、誰かが座っている。


 八千代はそれが誰なのか、確かめなかった。確かめる必要がなかった。


 出雲の離れで、七つの八千代は眠れない人の脇に一晩座っていたことがある。その人は今、身重の体で、眠れているはずの八千代の部屋の戸の向こうに黙って座っている。


 理由はないのだろう、と八千代は思った。理由はないけれど、座っているのだろう。


 八千代は布団を顎まで引き上げた。月明かりの中に、八千代の影が小さく映っていた。八千代と同じ形のまま、静かに落ちていた。


 帳面は枕元にあった。開かなかった。今夜のこれは、書き留めなくても忘れないと思った。


 戸の向こうの薄い重さに包まれて、八千代はもう一度目を閉じた。


 明日から、この地での暮らしが始まる。帰るのはひと月後の予定である。


 予定は、未定である。いつか嫌というほど学んだことだった。


■次回予告

・庭に鬼がいた

・侍女頭の舞と、銀の簪

・綾月の用意した書斎

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