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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 十話

■前回のあらすじ

・物々しい後宮の門。「この門は、誰を守り、誰を見張っているのか」

・お菊たちとの別れ。あやめに迎えられ、最奥の庵で二年あまりぶりに綾月と再会

・あやめの「綾月様」と「仕方の無いお方」。その夜、戸の向こうの薄い重さに包まれて眠る


# 第十話 鬼の庵の朝


 後宮の朝は、鐘ではなく箒の音で始まった。


 しゃっ、しゃっ、と規則正しく、少しも急がずに、誰かが庭を掃いている。八千代は布団の中でその音を聞きながら、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。天井は杉の板で、木目が川の流れのように走っている。新しい畳と、糊を利かせた敷布と、どこかで焚いている薪の煙の匂いがした。遠くで法師蝉が、つくつくおーし、と鳴き、もっと遠くで牛が鳴いた。


 いつも下の階から聞こえてくる筈の父のお気に入りのラヂオの音はしなかったし、遅くまで本を読んで朝寝坊をした八千代を起こす母の声も聞こえなかった。


 ゆうべ戸の向こうにあった安心する気配も、もうなかった。


『起きた?』


 枕元で瑞雲がとぐろをほどいた。


「起きました。……ここは、三河でございますね」


『三河だよ。五日しか経ってないよ』


「五日が、ひと月ほどに長うございました」


 八千代は起き上がって、寝間着の襟をかき合わせた。それから箒の音のする方へ、障子を細く開けた。


 庭に鬼がいた。


◇


 八千代の倍近い背丈の鬼だった。赤銅色の肌に、額から一本、太い角が生えている。肩も腕も岩を積み上げたように厚く、その厚い手に竹箒を握って、庭の白砂の上の落ち葉を、一枚も残さずに掃いていた。掃いた跡の砂に、細い筋目が波の形に揃っている。


 目は金色だった。峠で伏せていた時に、閉じた瞼の向こうに感じたものとは違う。もっと穏やかな色だった。


 鬼が八千代に気付いて、箒を止め、深々と頭を下げた。


「お目覚めですかな。義覚(ぎかく)と申します。綾月殿にお仕えしております」


 声は低く太く驚くほど丁寧だった。


「綾月殿が、ずっと心待ちにしておられましたでな。ようお越しくださった」


「カカッ」


 頭の上から笑い声が降ってきた。


 松の枝に、女の鬼が一人寝そべっていた。義覚よりひと回り小さく、肌は影浅葱色で、角は二本、真っ白な髪が枝から垂れ下がっている。腰に水瓶と煙管を下げて、片手に瓢箪を持って、朝から酒を飲んでいた。


「固まってやがる。かわいいねえ」


「おい、客人に向かって」


「いいじゃないか。あたしは義賢(ぎけん)さ。こいつの女房役。……あんたが八千代だろ、姐さんから、耳にタコができるほど聞かされてるよ。ちっこい、賢い、よく喋る、ってね」


「綾月様が、そのように」


「姐さんに比べりゃ、誰だってよく喋るさ」


 松葉がぱらぱらと義覚の頭に降った。義覚は溜息をついて箒の柄で頭を払った。


 噂に聞いていたが本物の鬼だ、と八千代は思った。


 出雲の昔話にも、絵巻にも、鬼はいた。金棒を持って、虎の皮を巻いて、人を食う鬼。目の前の赤鬼は朝の庭を掃いて、木の上の青鬼は酒を飲んで笑っている。


 八千代は寝間着のまま縁側を降りて、裸足で白砂の上に立った。


 近くで見たかった。角の付け根がどうなっているのか。肌の赤銅色は日に焼けた色なのか生まれつきなのか。義賢の煙管の雁首の細工。瓢箪の口の栓。鬼の式神はどのような約定で成り立っているのか。


「義覚殿。その、近くで見てもよろしいでしょうか」


「八千代様」


 後ろから、硬い声がした。


◇


 藍の着物に眼鏡をかけた娘が、縁側に立っていた。


 十六七だろうか。背筋がまっすぐで、眼鏡の奥の目が少しも笑っていない。娘は縁側から降りもせずに、八千代の素足と寝間着と、下ろしたままの髪を、上から順に見た。


「侍女頭の、舞と申します。ただいまより、八千代様のお支度を承ります」


「朝霧八千代にございます。よろしくお願い」


「お上がりくださいませ」


 有無を言わせない声だった。八千代は慌てて縁側に上がった。足の裏の砂を払う間もなく、舞は八千代を部屋の中へ押し戻し、障子を閉めた。


「八千代様。後宮で、寝間着のまま庭へお出になるおなごは、おりませぬ」


「……義覚殿と義賢殿を、もっと近くで拝見したくて」


「鬼達はどこへも逃げませぬ。毎朝、あそこにおります」


 舞は眼鏡を押し上げた。


「逃げぬのは鬼だけで、噂は早う走ります。後宮は、塀の内側に目がございます。ほかの奥方様の侍女、下働き、出入りの商人、庭師。…綾月様の庵の庭に、寝間着に素足で髪を下ろした年頃の娘が鬼と戯れていた、という話は、昼までに後宮の端まで届きます。夕方には尾ひれが付きます」


「尾ひれ」


「鬼姫が、出雲から得体の知れぬ祝人の娘を呼び寄せて、庵に囲うておいでだ。出雲の間者ではないか。身重の体で、夜通し何を企んでおいでか。……そういう悪い尾ひれでございます」


 八千代は口を開けて、閉じた。


 ゆうべ戸の向こうに座っていた気配を思い出した。理由もなく、ただ座っていた人のことを。それを、そういうふうに言う人がいるのだ。


「後宮では噂は罪にはなりませぬ」


 舞は小さくそれだけ言って、八千代の髪に櫛を入れ始めた。


『やー、また怒られたね』


 瑞雲が揶揄うように言う。


『日輪に来てから、三遍目』


 八千代は答えずに天を仰いだ。三遍目はないと峠で言ったのは自分だった。


◇


 舞の支度は驚くほど効率的で速かった。


 髪を梳いて三つ編みに編み直し、浅葱の小紋を着付けて、帯を締めるまで、八千代がひと言も口を挟めないうちに終わった。


 最後に、舞は朝霧の銀の簪を手に取った。


 挿そうとして、舞の手がほんの一瞬だけ止まった。窓から差した朝の光が簪の銀の上を滑った、その一瞬に、舞は眼鏡の奥で目を細めていた。


「……古い品でございますね」


「朝霧の家に伝わる簪でございます。母から、母の母から」


「三百年。いえ、もっと」


 舞は簪を光に傾けた。


「新しい銀は、光が当たった時、ひと息だけ白く跳ねます。古い銀は、跳ねずに、吸います。この簪は、吸いました」


 それから、簪の根元の飾り玉の台を、指先でそっとなぞった。


「ここの留めが、空でございますね。何か入っておりましたか」


「出雲では、ここに力を細める玉を仕込んでおります。結緒と申しまして。……日輪では何の役にも立たぬと、摂津口の関所で預けてまいりました」


「力を、細める」


 舞は、少しだけ黙った。


「出雲の方は、ご自分の目に、わざわざ枷をお掛けになるのですか」


「掛けねば、出雲の機械が狂いますので」


「……左様でございますか」


 舞は簪を三つ編みの結び目に挿した。挿しながら、眼鏡の奥の目が、八千代の顔を一度だけ見た。何かを測るような目だった。それから、ほんの少しだけ、羨むような目にも見えた。気のせいかもしれなかった。


 八千代は鏡の代わりに、舞の眼鏡に映る自分を見た。


「舞殿。その眼鏡は」


「尾張の玉磨きの職人が、水晶を手で磨いたものでございます」


「水晶。硝子ではなく」


「硝子の玉では、綾月様のお側では解けます。刷った字と同じでございます」


 八千代は京の旅籠で、文庫本の字が蟻の行列のようにほどけていったのを思い出した。


「では、硝子の眼鏡をかけて日輪に入った出雲の方は」


「主のおわすお山など抜ければ5日もあれば曇ります。職人の技の冴えなどで違うようですが詳しくは分かりかねまする」


「実際に硝子の劣化する様子を見た方はいらっしゃいますか。どのように曇りゆくのでしょう。外から曇るのか、内から」


「八千代様」


「…はい」


「綾月様がお待ちでございます故、それらのご関心は後ほど」


 舞は眼鏡を押し上げた。


「綾月様が箸を取らずに何かをお待ちになるのは、この舞、初めて拝見いたしました」


◇


 居間に、膳が五つ並んでいた。


 五つとも綾月一人の前に並んでいた。綾月は濃紫の小袖を着て、髪を下ろして、大きな腹を脇息にもたせかけていた。八千代が入ってくると、何も言わずに自分の隣の座布団をぽんぽんと叩いた。


 八千代は隣に座った。


 座った途端に、体が綾月の方へ傾いた。


 自分で傾いたのではない。座布団ごと、ずるりずるりと、綾月の方へ引き寄せられていく。膳の上の椀の汁が、同じ方へ小さく波立った。


「綾月様」


 部屋の隅で握り飯を結んでいた臙脂の着物のあやめが、手を拭いて立ってきて、八千代の座布団の縁にそっと指を添えた。


 座布団が止まった。綾月の方へずるずると引かれていたのが、まるで畳に縫い付けられたように、ぴたりと止まった。椀の汁だけが、まだ綾月の方へ小さく波立っていた。


 綾月は、気にした様子もなかった。


 あやめは小さく溜息をついた。


「……仕方の無いお方」


 八千代は座布団の上で、あやめの指先と綾月の横顔とを見比べた。ゆうべ垣根をくぐった時と同じだった。あやめは名を呼んで、指を添えて、溜息をついただけだった。それだけで、八千代の周りだけが綾月の力から外れた。


 やがて引き寄せる力がふっと消えた。綾月はそっぽを向いていた。下ろした髪の間から見える頬が少しだけ赤かった。あやめは何事もなかったように隅へ戻って、また握り飯を結び始めた。


 膳には、粒が小さくて少し黄色みがかった香りの強い飯と、黒鉄を溶かしたような暗褐色の味噌汁と、川魚の串焼きと、茄子と瓜と青菜の漬物と、根菜の胡麻和えが載っていた。


 綾月は箸を取る前に、膳の端の指先ほどの素焼きの小皿に、飯と汁と魚をひと口ずつ取り分けた。それを柱の棚に供えて、手を合わせた。棚には煤けた古い札が貼ってあって、八千代には字が読めなかった。


「竈の神だ」


 綾月が言った。


「最初のひと口は、竈の神に渡す。毎朝だ。毎昼も、毎晩も」


「お忘れになると、どうなるのでございますか」


「三日、焦げ飯だった」


 廊下の奥で、誰かが咳払いをした。


 八千代は棚の小皿を見た。


 瞼の奥に力が入りかけて、八千代はそれを押さえた。峠で、湖で、学んだことだった。神は見るものではない。見て分かった気になった者から、連れていかれる。竈の神がどんな姿をしているのか、知りたくてたまらなかったが、食べているところをじろじろ見られるのは、誰だって嫌だろう。


 見なかった。


 見なかったが、気配は分かった。小皿の上の飯の湯気が、まっすぐ立ち上らずに、ほんの少しだけ、棚の奥の暗がりへ吸い寄せられるように傾いていた。廊下の向こうの台所で、竈の熾火が、誰も火吹き竹を使っていないのに、ぱちりと一つ爆ぜた。


 八千代は手を合わせて、小さく言った。


「いただきます」


 出雲の言葉だった。綾月がちらりとこちらを見た。


「斎宮の家では、何も言わなかった」


「申し訳ございません。出雲の癖で」


「よい」


 綾月は箸を取った。


「お前が言うのは、悪くない」


 味噌汁をひと口飲んで、八千代は固まった。


 濃い。塩の強さではない。豆の味が、舌の上に重く深く居座る。


「濃ゆいだろう……豆だけで、二年寝かせる」


 綾月が言った。


「一口目は驚く。二口目で旨くなる。三口目で、これでないと物足りなくなる」


 その通りだった。三口目で、八千代はもう、出雲の白い味噌の味を思い出せなくなっていた。


「半助に言ってやれ。喜ぶ」


 廊下の奥で、もう一度咳払いがした。さっきより少しだけ、嬉しそうな咳払いだった。


◇


 綾月は五つの膳を、八千代が一つの膳を食べ終える前に平らげた。


 あやめが小鉢を一つ運んできた。野苺が山盛りに入っていた。綾月はその中から一粒つまんで、八千代の口元に持ってきた。


「食え」


 八千代は口を開けた。野苺が舌の上に転がった。甘くて、少しだけ酸っぱくて、朝の露の匂いがした。


「ここのは、特別だ。私が毎朝見ている」


 八千代は胸の内の帳面に書き留めた。綾月様、朝餉に膳五つ。竈の神にひと口。三河の味噌、豆のみ、二年寝かせ。野苺、毎朝見ておられる。


 少し迷って、書き足した。


 綾月様、わたくしの口に、野苺を一粒。


◇


 朝餉のあと、綾月は八千代を庵の奥へ連れていった。


 ゆうべ、戸の閉まったままだった部屋だった。檜の匂いがまだ新しい。綾月が戸を引くと、朝の光がまっすぐに差し込む窓があって、その窓の下に、白木の文机が一つ置かれていた。


 机の上に、尾張の硯と、太いのと中くらいのと細いのと、三本の筆と、美濃の紙の束。


 それから、壁という壁が棚だった。


 棚という棚に、写本が詰まっていた。背に手で書かれた題簽が、ずらりと並んでいる。歌集。物語。地誌。本草。神々の縁起。土地ごとの昔話。祭りの次第。唄の本。出雲で刷られたはずの本まで、誰かが手で一冊ずつ書き写して綴じ直してあった。


 八千代は戸口に立ったまま、動けなかった。


「お前に文を出した日に、舞に言った」


 綾月が言った。


「……ふた月、かかりました」


 いつの間にか後ろにいた舞が言った。


「六百冊でございます。それから、机の高さを、三度、直させられました」


「お前の背丈に合わせたからだ」


 八千代は文机の前に座ってみた。


 ぴったりだった。肘を置く高さも、膝を入れる深さも、紙に向かう時の目の近さも。出雲の自分の部屋の机よりも、ずっと体に合っていた。


 綾月は、出雲で最後に会った二年あまり前の八千代の背丈しか知らないはずだった。


「……二年あまり分を、お足しになったのですか」


「足した。二度、足し間違えた」


 八千代は机の天板に掌を当てた。ほのかに温かかった。朝の光のせいだけではないような気がした。


「綾月様」


「礼はいらん」


 綾月はそっぽを向いた。


「退屈だったから、作っただけだ」


 あやめが袖で口元を隠して、肩を震わせていた。


◇


 その日の昼から、八千代は書斎に籠った。


 どの本から開けばいいのか分からなくて、端から一冊ずつ題簽を読んでいって、読み終わる前に日が傾いた。結局手に取ったのは二冊だった。『山城国神名帳』と『鈴鹿山縁起』。


 峠のことが書いてあるかもしれないと思ったのだ。


 『鈴鹿山縁起』は古い本だった。峠の主のことは、確かに書いてあった。いつからおられるか。どのような時に下りてこられるか。森の恵を借りる時の断りの入れ方。そして禁忌について。


 姿のことだけが、一行も書かれていなかった。


 大きさも、毛の色も、目の色も、何もない。三百年分の書き手が、誰一人として書いていない。代わりに、本の最後の頁に、一番古い字で、こう書いてあった。


 主ノ御姿ヲ記サントスル者、其ノ筆ヲ折ルベシ。見タル者ハ、書キ残サズ。書キ残シタル者ハ、見テ居ラズ。


 八千代は長いことその一行を見ていた。


 見た者は書き残していない。書き残した者は見ていない。


 峠で、閉じた瞼の奥で蛇の目が疼いた時のことを思い出した。あの時開けていたら、自分はこの本に一行を書き足せたのだろうか。それとも…


 八千代は帳面を開いて、百三十四番目の問いを書いた。


 神の姿を書き残した者は、どこへ行ったのか。


 書いてから、その問いの横に、小さく書き足した。好奇心は猫をも殺す。


■次回予告

・しきたりは毎日の祓い

・三河の市と、柳の下の男たち

・櫛一つで嫁入りの返事


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