第一章 十一話
■前回のあらすじ
・庭を掃く鬼の義覚と、松の上で朝酒の義賢。寝間着で庭に降りて侍女頭の舞に叱られる
・舞が銀の簪の古さと、空になった玉の留めに気付く
・膳五つと竈の神、綾月が用意した六百冊の書斎、『鈴鹿山縁起』の最後の一行
# 十一話 市の櫛
夕刻八千代は縁側で、綾月に出雲の話をした。
息壌の高い塔がまた一本増えて、天辺に新しい鳥居が載ったこと。子供たちの間で、小瓦板で遠くの友達と将棋を指すのが流行っていること。朝霧の蔵に千年物の白蛇の抜け殻が入って、それを見たくて夜中に蔵に忍び込んで、父に大目玉を食らったこと。
綾月の相槌は三つしかなかった。それで。それからどうした。阿呆か。
「お前は昔からそうだ。知りたいことがあると、禁を破って平気で立ち入る」
「お陰様で、日輪では命がいくつあっても足りませぬ」
「ああ、お菊を付けたのは正解だったな」
「……」
「阿呆め。だが、学びはあっただろう」
綾月は野苺を一粒口に入れた。
「ええ、それは、もう」
八千代は少し迷った。
迷ってから、話した。森の境の白い包みと、ひだると、十五の防人の少年のこと。京の高札と、六条河原のこと。淡海の霧の割れ目と、半刻遅かった防人の倅のこと。峠のことと、坂下の村のこと。瓢箪の家のこと。
それから、沢のことと、踊り納めの晩のことも話した。
話している途中で、縁側の床板がみしりと鳴る。
それから、庭の野苺の葉が地面の方へ伏せたり浮いたりざわざわと音を鳴らす。八千代の体も、上から押さえつけられるように重くなったり軽くなったりした。
綾月から放たれる目に見えない圧で空気が張り詰める。
「ほう…踊りの男か」
綾月の声は低かった。
「綾月様」
「近江のどこの宿場だ。名を言え」
「それには及びませぬ、私の無知故の不幸な行き違いでございました」
「そうはいかん」
「綾月様のお身体に、障ります」
綾月は黙った。重さが少しずつ引いていった。野苺の葉がゆっくりと起き上がっていく。
「……お菊が、ついていたのだったな」
「はい。二度とも、お菊殿が」
「なら、いい」
綾月は大きく息を吐いた。それから八千代の方を見ないまま、言った。
「日輪では、お前は子供ではなく唯のおなごだ」
「……ええ、それは、もう」
「出雲の物差しで、自分を子供だと思うな。日輪の神も人も、お前を子供とは見ない。私の客の、嫁入り前の娘と見る。手を出す者がいたら、私が叩き潰す。だが」
綾月はやっとこちらを見た。黒と灰の溶け合った、大理石のような目だった。
「私の目の届かんところでは、自分で気を付けろ。お前が沢の淵に沈んでからでは遅いのだ」
「……肝に、銘じます」
「銘じろ」
綾月はそれきり黙って、また野苺を食べた。八千代も黙って野苺を食べた。
しばらくして、八千代は訊いた。
「綾月様は、退屈で、ございましたか」
出雲の学び舎の中庭で、綾月は握り飯を三つ平らげたあと、八千代の苺を黙って半分持っていったことがあった。あの頃の綾月は、何を見てもつまらなそうな顔をしていた。
「……ここは退屈だ」
綾月は言った。
「だが、子を産むのだからな。仕方あるまい」
それから、少し間を置いた。
「だが、もう、退屈ではない」
◇
それから幾日か、八千代は驚き続けた。
驚き続けることに慣れることが、日輪で暮らすということなのだと、半月かけて分かった。
灯石は、昼のあいだ屋根の上に並べて陽に当てておくと、夜になって白く光る石だった。八千代はすぐに、屋根の日向に置いた石と、軒下の日陰に置いた石と、朝だけ陽の当たる東の端に置いた石とで、夜の光り方を比べた。日向の石は夜明けまで光り、日陰の石は宵のうちに消え、東の端の石は夜半で消えた。陽を浴びた刻と、光る刻とが、ほとんど同じだった。
舞にその話をすると、舞は眼鏡を押し上げて、そんなことは日輪の子は皆知っております、と言った。知っているのと、数えたのとは違う、と八千代は思ったが、口には出さなかった。
厠の戸の上には小さな棚があって、札が貼ってあった。入る前に咳払いを一つするのが作法だった。八千代は三日忘れた。
「嬢さん、咳払い、忘れとるら」
半助に言われた。四十がらみで無精髭の、庵の料理番だった。口数が少なく、話すときは大抵咳払いか顎で済ませる。
「厠の神さんが機嫌悪いだもんで。紙が湿っとっただら」
少し湿っていた。三日とも。
井戸の縁は、汲む前に二度叩いた。最初のひと汲みは、井戸の脇の苔むした小石に掛けた。下働きのおさよが教えてくれた。十四五のそばかすのある明るい娘だった。
「叩かんと、井戸の神さんがびっくりするだに。ほんで、最初のは神さんの分」
「叩かずに汲むと、どうなるのでございますか」
おさよは桶を持つ手を止めて、少しだけ声を落とした。
「隣の村で、去年な。よそから来たゆう嫁さんが、叩かんで汲んどったんだと。急いどる時は、ええわって。毎朝、毎晩。一年」
「……一年」
「一年経ったら、井戸の底に、なんか湧いたんだに。釣瓶を下ろすと、桶ん中に、髪の毛が入っとる。長い、濡れた白髪がな」
おさよは自分の両腕を抱いた。
「ほんで、その嫁さんの小さい子が、井戸を覗いとって、落ちた。……落ちたんじゃない、引っ張られたんだって、見とった婆さまは言っとった」
「その、子は」
「村に詰めとった祓士が片腕の肘から先を食われながら取り戻した。だけんど、娘は目玉を食われとったそうだに」
八千代は息を止めた。
「井戸には何がおるか分からん」
おさよは桶を井戸の縁に置いて二度こつこつと叩いた。いつもより丁寧に。
「嫁さんとこの一家が村を出された。祟りを出した家だもんで。……だで、叩くだに。叩くのは、なんでもないことだら。なんでもないことを毎日しとけば、なんでもないことで済むだに」
八千代はそれから、井戸を叩くのを一度も忘れなかった。
長く履いた履物には神が宿るので、夜中に勝手に歩いていかないように、爪先を外に向けて揃えて、横に小石を一つ置いておく。それもおさよが教えてくれた。
「ほんとに、宿るのでございますか」
「宿るに決まっとるじゃん」
八千代は出雲の革職人の手で丁寧に作られた編み上げの靴の横にも、小石を一つ置くようになった。
念のため、である。
日輪のしきたりは、どれもこれも、小さかった。咳払い一つ。井戸を二度叩く。小石を一つ。ひと口を小皿に。どれも、忘れたところで、その日のうちには何も起きないようなことばかりだった。
何も起きないようなことを毎日皆で欠かさずにやる。
欠かした家から、祟りが湧く。
八千代は帳面に書いた。しきたりは、祟りを湧かせぬための、毎日の祓いである。
◇
「嬢さん、市、行くか」
ある朝、半助が台所の戸口から顎をしゃくった。
「今日は、でら、ええ瓜が入るだに」
でらというのが半助の口癖だった。とても、という意味らしい。八千代は帳面を懐に入れて、二つ返事でついていった。
市は後宮の裏門から半刻ほど歩いた川沿いにあった。
筵の上に、瓜と茄子と冬瓜と青い柿が積まれ、川魚と海の魚と干物が並び、豆と米と麦と粟と稗の袋が口を開け、味噌の壺が肩を寄せ合っていた。人の声と、魚の生臭さと、瓜の青い甘さと、味噌の塩辛い匂いが、川風に混ざって流れていく。
「瓜ぁ、瓜ぁ、でら甘い瓜だにぃ」
「三文だら。いや二文でええわ、あんた!そこの雅な髪のお嬢さん!ほれ、どうか」
「なに言っとるだ、この助兵衛爺さん。こっちの瓜のがあめぇでよ!」
出雲の市場には硝子の天井があって、冷房が効いていて、品物には一つ残らず値札が付いていた。ここには値札が一枚もない。値は売る者と買う者の間で、その場で生まれて、その場で消える。
市の入口の大きな柳の下に、床几が一つ出ていて、縞の着物の男が二人、腕を組んで座っていた。二人とも腰に脇差を差していたが、侍にも防人にも見えなかった。店を出す者は皆、筵を広げる前に柳の下へ寄って、男たちの前の笊に銭を何枚か落としていった。
「半助殿。あの方々は」
「場所代の取り立てだに」
半助は柳の方を見ずに言った。
「ここらの市は、宮の貸元が仕切っとる。貸元ゆうのは、博打の親分だら。場所代を払わんと、筵が出せん」
「……奉行所は、何も」
「奉行所の防人は、祟りの番で手一杯だで。人の喧嘩までは手が回らん」
半助は少しだけ顎をしゃくった。
「親分の若い衆がああして座っとるで、盗人も山立も、この市には寄りつかん。喧嘩が起きりゃ、あいつらが収める。……嫌われとるけど、おらなんだら困る。そういうもんだに」
八千代は柳の下の男たちを見た。片方の男は、頬に古い刀傷があった。もう片方は、笊の銭を数えながら、店を出す婆様の手から重そうな籠を下ろしてやっていた。
半助は市場の片隅で瓜の山の前にしゃがみ込んで、売り手と無言でにらみ合った。
長いにらみ合いだった。どちらも一言も喋らなかった。やがて売り手が先に目を逸らして、溜息をついた。
「……半助さんにゃ、かなわんわ。二文でええ」
半助は四角い穴の開いた銅銭を二枚、売り手の掌に置いた。
「銭は、刷った紙じゃないで、ほどけんだに」
半助がぼそりと言った。
「鋳物師が、一枚ずつ型に流して作っとるだよ」
八千代は銭を一枚借りて、掌に載せた。蛇の目を開く。銭は物だった。読めた。火の匂い。砂の型。汗の滲んだ大きな手が、型から一枚ずつ取り出して、縁のばりを鑢で落としている。その手の温もりが、まだ銭の縁に残っていた。何百人の掌を渡ってきても、最初の手の温もりは消えていなかった。
半助は瓜を選ぶのを、八千代にもやらせた。
「持ってみりん」
持った。
「嗅いでみりん」
嗅いだ。
「叩いて、聞いてみりん。すかすかのは、ぽん、って高い音がするだよ」
叩いた。ぽんと高い音がした。
半助は首を横に振って、その瓜を山に戻した。
「目ぇだけで見たら、かん。手と、鼻と、耳と、全部で見るだに」
八千代は帳面に、いつもより大きく太い字で書いた。目だけで見てはいけない。
書いてから、少し考えた。蛇の目を持つ自分にこそ、要る言葉だった。
◇
市の外れに、人だかりのない一角があった。
人だかりがないのに、人が避けて通っていた。誰もそちらを見ないようにして、少しだけ道の反対側に寄って歩いていく。八千代はつい、そちらを見た。
杭が一本立っていて、そこに女が一人括り付けられていた。
三十前くらいの女だった。地面に座らされ、後ろ手に杭に括られている。口に木の板が噛まされていた。板の両端に紐が通されて、頭の後ろで固く結ばれている。女の顎は涎で濡れていた。杭の上に板札が打ち付けてあって、墨の字で、こう書いてあった。
讒言。女。二十八。隣家ノ者ヲ呪フ噂ヲ流シ、其ノ家ニ祟リヲ湧カセタル廉ニヨリ、三日晒シ。
八千代は足を止めた。
「見んでええ」
半助が言った。いつもより少しだけ強い声だった。
「……噂を流しただけで、晒されるのでございますか」
「噂は祟りになるだもんで」
半助は瓜の包みを持ち直した。
「隣の家の嫁が、あそこの家の姑は人を呪っとる、ゆうて、触れ回ったんだと。ひと月、ふた月。そしたら、ほんとに湧いた。姑の家の竈に、黒い、ちっこいのが、ようけ。姑は寝込んで、孫が一人、熱を出して死んだ」
半助は女の方を見なかった。
「祟りを湧かせた口は、塞いで晒すのが、三河の藩の定めだに。三日。三日経ったら、村を出される」
「……あの方を、誰も、見ないのですね」
「見たら、かん。見て、気の毒だとか、ざまあみろだとか、思ったら、その思いがまた、何ぞになる。だで、誰も見ん。おらんもんとして、通る」
八千代は目を逸らした。逸らす前に、一瞬だけ、女と目が合った。
女の目には、何もなかった。恨みも、悔いも恥も。三日誰にも見られずに座っていると、人の目はああなるのだと、八千代は思った。
市を離れてからも、半助はしばらく何も言わなかった。
それから、ぼそりと言った。
「……後宮の奥方さま方の噂は、誰も、晒されんけどな」
八千代は半助の顔を見た。半助はもう前を向いていて、それ以上何も言わなかった。
◇
半助が山菜売りと無言の価格交渉をしている間、八千代が不思議そうに眺めていると若い男が一人、八千代の横に立った。身なりもよく、人の好さそうな顔の男だった。手に何か持っていた。
「これ、もろうてくれんか」
男が差し出したのは黄楊の櫛だった。歯の細かい、よく磨かれた、手で彫った櫛で、背に小さな花の模様が彫ってあった。男はそれから少し緊張した面持で真っ直ぐに八千代の目を見た。
「さっき市で見かけて。どえりゃあきれいなお嬢さんだで、声掛けたんや」
八千代は櫛を見た。見事な細工だった。誰が彫ったのだろう。蛇の目で見たら、どんな手が、どれだけの刻をかけて彫ったのか、読めるはずだった。
「立派な、櫛にございますね。これを私に?」
八千代が首を傾げていると、横から太い手が伸びて、櫛を掴んだ。
半助だった。
半助は櫛を男の手に押し戻して、男の顔を見た。市で瓜の売り手とにらみ合った時より、ずっと長く、ずっと黙って見た。男の顔からすっと愛想が引いていった。
「……出直すわ」
男は櫛を握って、足早に去っていった。
八千代は半助を見上げた。
「半助殿。今のは」
「櫛を受け取ったら、かん」
半助は歩き出しながら言った。
「男が娘に櫛をやって、娘が受け取ったら、嫁に行くって返事だに。この辺じゃ、まだ、そうだ」
「……櫛一つで」
「櫛一つで。受け取った娘は、男の家が迎えに来る。来たら、断れん。断ったら、男の家の顔を潰すで、今度は男の家から、恨まれる」
恨まれる。恨みは、祟りになる。
八千代は、自分の手を見下ろした。さっき伸ばしかけた手だった。
『四遍目、だけどちょっとは学習したね』
瑞雲が言った。
八千代は答えなかった。答えられなかった。
沢でも、踊りの晩でも、最初の朝の庭でも、今も、八千代は同じ顔をしていた。見たい、知りたい、という顔だ。その顔のまま、手を伸ばす。伸ばした先に何が繋がっているのかを、考えずに。
日輪では、伸ばした手の先に、必ず何かが繋がっている。
しばらく歩いてから、八千代は気付いた。
櫛を差し出された時、半助は市の反対の端で、山菜売りと睨み合っていたはずだった。人混みを抜けてくる足音は、聞こえなかった。気が付いた時には、もう横から手が伸びていた。
「半助殿」
「なんだん」
「先ほどは、どちらから、おいでになったのでございますか」
半助は少しだけ足を緩めた。それから、前を向いたまま、ぼそりと言った。
「嬢さんは、祝人だで。言うといた方がええら」
半助は自分の右の掌を、ちらりと見下ろした。節の太い、包丁だこのある手だった。
「わしも、祝人だに。泡影を断つもん、ゆう名をもろうとる」
「ほうよう、を」
「泡と影。いっときで消えてまうもんだら。湯気。煙。声。火の粉。……人が手ぇ出す前の、ひと息の気配」
半助は掌を握った。
「さっきの男が、嬢さんの手に櫛を押しつけようとした、そのひと息を断った。断ったら、男の方が一拍遅れる。その一拍の間に、わしが間に合う。……そういうもんだに。足が速いわけじゃない」
八千代は半助の手を見た。それから、その手が毎朝握っている包丁のことを思った。
「神様から、授かったのでございますか」
「三河の海の神さんに、じかにな」
半助はそれ以上は言わなかった。言わない、という顔をしていた。
「若い頃は、それで祓士をしとった。祟りの湧きかけを断つ仕事だ。湧いてまったら、わしの手には負えん。……それも、もう辞めた」
「では、今は」
「飯炊きだに」
半助は少しだけ口の端を上げた。
「綾月様に拾われた。祓士を辞めて、どこにもおれんようになっとった時に。……飯炊きに、断つ手が要る庵だで」
半助はそれきり黙った。黙って、庵に戻るまで、八千代の半歩前を歩いた。
八千代は胸の内の帳面に書いた。半助殿、泡影を断つもの。三河の海の神より。元は祓士。今は、綾月様の飯炊き。
それから、少し考えて書き足した。飯炊きに、断つ手が要る庵。
■次回予告
・屋根の上の風切り鎌
・一の君の庭の石
・断りは、誰に、どうやって入れるのか




