第一章 十二話
■前回のあらすじ
・沢と踊りの晩の話に、綾月の力が漏れる。「自分で気を付けろ」
・井戸、厠、履物。日輪の小さなしきたり
・半助と市へ。貸元の場所代、手で鋳た銭、晒された女、差し出された櫛。半助が明かす「泡影を断つもの」
# 十二話 野分と断り
庵に近付いた頃、屋根という屋根の上に、妙なものが立っているのが見えた。
竹竿の先に鎌が括り付けてあった。刃を上に向けて、空を切るように。西の空には、刷毛で掃いたような細い筋雲が幾筋も流れていた。
「野分が来るだら」
半助が空を見上げて言った。
「風の神さんが、でら機嫌悪うして、暴れとる時だに。鎌は、その風を切るためだ」
「切れるのですか」
「切れるもんなら、切りたいだら」
半助は少しだけ笑った。
「切れんけどな」
八千代は屋根の上の鎌を見上げた。切れないと分かっていて、それでも掲げる鎌。祈りと抗いの、ちょうど真ん中にあるような鎌だった。美しくて、少しだけ悲しかった。
◇
その夜、野分が来た。
出雲の台風なら、八千代は何度も経験していた。鉄筋の建物の中で、小瓦板に流れてくる報せを見ながら、窓の外の雨を眺めてやり過ごすものだった。
ここは茅葺きの庵だった。
風が来た。庵の柱が鳴り、梁が鳴り、障子が内側へ弓なりにたわんだ。茅の屋根の上を、何か途方もなく大きなものが、何度も何度も撫でて通っていく。そのたびに天井の板が浮き上がりかけて、浮き上がりかけたまま、止まる。
『台風みたい』
瑞雲が襟の奥に潜り込んだ。
『屋根、とばない?』
「……分かりませぬ」
障子が開いて、綾月が入ってきた。寝間着の上に羽織を一枚引っ掛けて、髪を下ろしていた。
「来い」
綾月は八千代の手首を掴んで、居間へ連れていった。
「ここにいろ。ここなら、結界が強い」
居間には、あやめと舞と、侍女たちと、半助と、おさよが集まっていた。皆、囲炉裏を囲んで座っていた。
綾月は上座に腰を下ろす前に、左の肩を掌で一度押さえた。庵に戻ってから、これで三度目だった。身重の体は、どこもかしこも重いのだろう、と八千代は思った。
綾月は居間の上座に座って、目を閉じた。
それきり動かなかった。
蛇の目をもつ八千代には綾月が何をしているのか分かった。庵ごと、上から押さえつけていた。見えない大きな結界で、茅の屋根を、柱を、梁を、地面に向かって押さえ込んでいる。風が屋根を剥がそうとするたびに、それと同じだけの力で押し返している。
この日は皆居間で眠った。
◇
「行くぞ」
綾月の声で目が覚めた。夜明け前だった。風は止んでいた。
「外だ」
庵の外に出ると、空が変わっていた。夏の湿った重い空ではなかった。高くて、薄くて、どこまでも青い、秋の空だった。
庭の野苺達は半分倒れていた。だが庵の茅は一本も乱れていなかった。屋根の上の鎌も、一本も倒れていなかった。
人の手の入らない森の方では、木が何本も根こそぎ倒れているのが見て取れた
義覚と義賢が、ずぶ濡れで垣根の外に立っていた。一晩じゅう、庵に倒れかけてきた木を支え、飛んでくる枝を払っていたのだった。
「結界は緩まなかったようだね」
「ああ、無事だ」
あの結界は義賢が編んだものだった。それを綾月が使っていたのだ。
「ぬ、森の主は今朝は機嫌が良いようですな」
義覚が所々光が指す森の奥の方を指さして言った。
「古い木が倒れて、日が入る。森が若返ると、喜んでおられる」
八千代は森の縁で倒れた大きな杉を見た。根の張っていた穴に、朝の光がまっすぐに差し込んでいた。夜通し庵を撫で回した風と、森を若返らせる風は、同じ風だった。神の怒りは、神の恵みと、同じなのだ。
綾月は鼻を鳴らすと、倒れた野苺の茎を一本ずつ起こし始めた。
「……手伝え」
八千代は綾月の隣にしゃがみ込んで、野苺を起こした。根の浮いたのは土を寄せて押さえ、折れたのは添え木をして、駄目になったのは抜いて、空いたところに、森の縁から株を分けてきて植え直した。綾月は身重の体で、黙って、一株ずつ植えた。
◇
昼過ぎ、野分の片付けに追われる庵の面々の中、手持ち無沙汰な八千代はおさよに手伝いを申し出た。そして後宮の別の御殿まで倒れた樹木の始末の段取りを伝えに行った。
野分の後の後宮は、庵と同じくどこも慌ただしかった。折れた枝を運ぶ下働き、屋根に上る大工、濡れた几帳を干す侍女たち。八千代は余所見をしていたせいで聞いた道順を間違えて、知らない庭に出てしまった。
手入れの行き届いた、静かな庭だった。
池の縁の、楓の木の下に、小さな石が並んでいた。
丸い石。拳ほどの大きさの、川で拾ってきたような石が、十いくつ。きちんと一列に並んで、どの石の前にも、野の花が一輪ずつ供えてあった。野分で倒れた花を、誰かがもう挿し直していた。
一つ一つの石に墨で小さく字が書いてあった。
名ではなかった。月の名だった。卯月。霜月。文月。睦月。
「……一の君様のお庭だに」
後ろから声がした。おさよだった。八千代が遅いので探しに来たのだった。
おさよは石の方へ手を合わせて、小さな声で言った。
「七つまで育たなんだ御子さまの石だで。帝の御子さまの。一の君さまの御子さまも、ほかの奥方さまの御子さまもおる」
「十四も」
「十四だけだに。一の君さまは五人お産みになって、今もおいでなのは、二人だら」
八千代は石の数を数えて、数えたことを悔やんだ。坂下の村でも、同じことをした。
「月の名が、書いてございますね」
「連れてかれた月だに。名は書かん。七つになる前の子は、神さんのうちの子だで、名は人の方のもんじゃない。神さんが持ってかれた月だけ、覚えとく」
七つまでは、神のうち。
地誌で読んだ言葉だった。読んだ時は、昔の人の、子供を大事にする言い回しだと思った。
違った。
これは、子供が死んでも泣かないための言葉だった。泣けば、神に未練が見える。未練が見えれば、残りの子も連れていかれる。だから、七つまでは神の子だと思っておく。神の子が神のところへ帰っただけだと。
十四の石の前に、十四の花が挿し直してあった。野分のあった朝に。
誰かは、泣いていないふりをして、毎朝ここに来ているのだ。
八千代はその夜、帳面に書いた。一の君様の庭に石十四。月の名のみ。名は書かず。
それから、綾月の大きな腹のことを考えて、筆が止まった。
石が並ぶのは、一の君の庭だけではないのだ。
◇
野分で倒れた杉は、そのままにはしておけなかった。
庵の垣根の外、森との境に倒れた一本は、根の土ごと起き上がって、庵の薪小屋の屋根に梢を預けていた。放っておけば、次の雨で小屋が潰れる。伐って、割って、冬の薪にするのがいちばんだった。
けれど野分の明くる日、半助は斧を持ち出さなかった。
代わりに、台所から酒の小徳利と、塩と、米をひと掴み包んだ紙と、小さな木の札を一枚持って、垣根の外へ出ていった。八千代は帳面を持って、その後ろについていった。
「見とってええだに。ただ、黙っとりん」
半助は倒れた杉の根元にしゃがみ込んだ。根の張っていた穴の縁に、平たい石を一つ据えて、その上に酒と塩と米を並べた。木の札には、墨で半助の名が書いてあった。
半助は札を石の脇に立てて、森の方へ向いて、低い声で名乗った。
「三河の後宮の奥の、庵の飯炊き、半助でございます。この杉を一本、冬の薪にいただきとうございます。代わりに、春に苗を三本植えます」
それから、頭を下げた。森の奥へ、深く、長く。
森は何も言わなかった。
「これで、三晩待つだに」
半助は立ち上がって、膝の土を払った。
「三晩のうちに、ここが荒らされとったら、否だ。供えもんが散らかっとる、糞が置いてある、爪の痕がある。……そうなったら、この杉には手を付けん。小屋は、別の所に建て直す」
「荒らされて、いなかったら」
「許しだに。伐ってええ。伐ったら、切り株に酒を掛けて、春に苗を植える。それで、貸し借りなしだ」
八千代は帳面を開いて、手が震えないように気を付けながら書いた。倒れた杉の根元。酒、塩、米。名を書いた札。名乗り。代わりの苗、三本。三晩。
百三十一番目の問いの答えだった。断りは、誰に、どうやって入れるのか。
一晩目、八千代は夜中に二度、厠に立つふりをして垣根の方を見た。暗くて何も見えなかった。蛇の目は開かなかった。これは、見てよいものではない気がした。
二晩目、雨が降った。
三晩目の朝、半助と二人で垣根の外へ出た。
石の上の酒は徳利ごと、そのままそこにあった。塩は雨に溶けて、石の上に白い輪だけを残していた。米は、一粒残らずなくなっていた。
石の周りの土には、何の痕もなかった。
「……許しだに」
半助は小さく息を吐いた。
「米は、鳥か、鼠か、森の誰ぞかが持ってったんだら。それは、ええ。荒らしたのと、持ってったのとは、違うでな」
半助はその日の昼までに杉を伐って、割って、薪小屋の脇に積んだ。最後に、切り株に徳利の酒を掛けて、もう一度森の方へ頭を下げた。
八千代は、その日の帳面の、百三十一番目の問いの下に書いた。
名乗る。代わりを約す。三晩待つ。荒らされなければ許し。持っていかれるのは、許しのうち。
それから、峠の切り株のことを思い出した。断りなしに伐られた杉と、坂下の村の、二つの小さな包みのことを。
三晩待てなかった人たちがいたのだ。冬を越すために。
■次回予告
・甘く重く湿った香の文
・あやめの神通力
・三の君の座敷




