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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 十三話

■前回のあらすじ

・野分の夜、綾月が庵ごと押さえ込む。森を若返らせる風

・一の君の庭の十四の石。七つまでは神のうち

・倒れた杉に半助が断りを入れ、三晩待つ。問い百三十一の答え


第十三話 三の君の茶会


 野分から三日後、三の君の使いが文を持ってきた。


 使いの侍女は白く塗った顔に紅を差した細い目の女で、庵の門の中へは入らなかった。門の外から、庭を掃く義覚の方を怯えたように見て、文を舞に渡すと、冷たく笑って去っていった。


 文は八千代宛てだった。


 出雲より遥々お越しの客人に。後宮の奥の長月の庭が見頃でございます。ささやかながら茶の席を設けますゆえ、ぜひお越しあそばしませ。出雲の珍しいお話を、お聞かせくださいませ。


 美しい字だった。そして、紙に香が焚きしめてあった。甘くて、重くて、湿った香だった。鼻の奥に絡みついて、なかなか離れない。


 八千代は文を膝の上に置いて、御目、借り奉る、と唱えて、蛇の目を開いた。紙は物だった。読めた。


 京の紙漉きの、冷たい水の中で漉かれた紙。後宮の文箱の中で、ひと月眠っていた紙。それから、細い指が墨を含ませた筆で字を書いていく。迷いのない、美しい手だった。最後に紙は、香炉の上にかざされた。


 香の煙が紙に染みていく。その煙に、色があった。好奇心の色。警戒の色。それから、底の方に、ほんの少しだけ、黒く濁った色が混じっていた。


 八千代は蛇の目を閉じた。


「行く義理はない」


 綾月が言った。文を見もせずに。


「三の君は、私が嫌いだ」


「……存じませんでした」


「京の公家の出だ。斎宮の家も、私も、嫌いだ。私が後宮に入った日に、門で塩を撒かせた女だ」


 あやめが、文を手に取って香を嗅ぎ、眉を寄せた。


「ですが、綾月様。お断りあそばせば、角が立ちます」


 あやめは文を畳み直しながら、静かに言った。


「断れば、綾月様が出雲の客人を囲い込んで、誰にも会わせぬ、と言われましょう。あるいは、出雲の客人が日輪の後宮を見下し、茶の一杯も受けぬ無礼者と。どちらに転んでも、噂の種でございます」


 噂の種。市の外れの杭と、木の板を噛まされた女の顔が、八千代の頭をよぎった。


 八千代は文を見下ろした。


 以前、こういう文に似た断れない話を何度も受け取った記憶が蘇る。しがらみに縛られた取引先との関係。接待の席での、酒を注ぎながらの探り。相手の懐に一歩踏み込ませて、その一歩で何を言うかを見る。ありふれた、大人の世界ではよくある話だった。


「私が出れば、茶会を潰す事になる」


 綾月が言った。比喩ではないことを、八千代はもう知っていた。産み月まで、あとふた月もなかった。


「わたくしが、参ります」


 八千代は言った。


「綾月様の代わりに。出雲の客人として」


「八千代」


「探られて困るようなことは、わたくし、存じませぬので」


 嘘だった。何を探られるのか、八千代は知らない。知らないが、綾月が自分に何かを黙っていることだけは、知っていた。


 綾月は長いこと八千代を見ていた。それから、野苺を一粒つまんで、八千代の掌に載せた。


「任せる」


「……はい」


「だが、何かあれば知らせよ」


 八千代は掌の野苺を見た。


 この人を呼ばずに済むように、と思った。この人がここから一歩も出ずに済むように。


◇


 茶会の支度は、舞が三日かけて仕込んだ。


 宮中の礼の角度。茶碗の回し方。膝の進め方。扇の置き場所。舞は八千代の膝が畳を擦る音にまで、いちいち眼鏡を押し上げた。


 着物は、萩の模様を淡く散らした薄紫の小袖になった。


「地味すぎれば、出雲は日輪を軽んじている、と言われます。派手すぎれば、出雲の娘が後宮で目立とうとしている、と言われます」


 舞は帯を締めながら言った。


「ほどほど、が、一番難しゅうございます。後宮とは、そういうところでございます」


 頭の上の色付き眼鏡は外した。朝霧の銀の簪だけは、三つ編みの結び目に挿したままにした。これだけは外さないと、八千代は決めていた。


 あやめが門まで見送りに来て、八千代の襟元を直した。


 門の外には誰もいなかった。義覚も、垣根の向こうで箒を止めて背を向けていた。八千代は、ずっと訊きたかったことを訊いた。


「あやめ殿。一つ、お伺いしてもよろしゅうございますか」


「なんなりと」


「綾月様が力をお漏らしになるたびに、あやめ殿が綾月様、とお呼びになって、そうすると、わたくしの周りだけが元に戻ります。……あれは、何をなさっておいでなのですか」


 あやめの手が、襟の上で止まった。それから、少しだけ笑った。


「お気付きでございましたか」


「蛇の目を開かずとも、座布団が止まりましたので。……それに、綾月様、とお呼びになった後、お口の中で、何か長く、唱えておいででした」


「寸毫の祝詞は、一字も欠かせませぬので」


 あやめは、悪戯を見つかった子供のような顔をした。


「綾月様、とお呼びするのは、その間を稼ぐためでございます。お呼びすれば、綾月様は、ほんの一息だけ、こちらをご覧になりますから」


「わたくしの名は、寸毫を保つ者、と申します」


 あやめは襟の合わせを、指先で寸分の狂いもなく揃えた。


「手の届くところの、ほんの僅かなものを、今のまま保つ力でございます。湯の熱。器の縁のひび。結び目。……それから、綾月様が知らずにこちらへ向けておしまいになる力の、ほんの端のところを」


「端の、ところ」


「全部は、とても。綾月様のお力は、わたくしの手には大きすぎます。ですから、端の寸毫だけを、元の重さのまま保って、いなすのでございます。八千代様の座布団一枚分、袖一枚分くらいなら」


 あやめは八千代の襟から手を離した。


「昔からでございます」


 あやめは庵の方を振り返った。縁側に、大きな腹を抱えた綾月が座っているのが、垣根越しに小さく見えた。


「綾月様は、お小さい頃、抜き身の刃物のようなお方でした。斎宮の家の、誰も近寄らない奥の間で。嬉しくても、悲しくても、腹が立っても、力が勝手に溢れて、お部屋の物が全部、割れてしまう。お世話の侍女が、ひと月ともたずに替わっていきました」


 あやめは懐かしむように目を細めた。


「わたくしは、五つでお側に上がりました。あの頃は湯呑み一つ保つのがやっとで。割れるお茶碗を、毎朝一つだけ、保って差し上げたのです。綾月様は、割れなかったお茶碗を、不思議そうに、ずっと見ておいででした」


「……一つだけ」


「一つだけ。次の年に二つ。その次の年に、四つ」


 あやめは笑った。


「今は、八千代様の座布団まで保てるようになりました。綾月様は、ちっともお気付きにならないふりをなさいますけれど」


「お気付きで、ございますか」


「お気付きでございますよ。お気付きだから、平気でお漏らしになるのです」


 あやめは小さく溜息をついた。いつもの溜息だった。


「仕方の無いお方」


 それから、襟元を最後にもう一度だけ整えた。


「三の君様は、柔らかいお言葉の裏に、刃を隠されるのがお上手です」


「京の方は、怖うございますね」


「怖うございます」


 あやめは真顔で頷いた。それから少しだけ笑った。


「ですが、出雲には、出雲の戦い方がございましょう。」


 出雲の学び舎の中庭で、八千代は綾月に昔話をした。遠つ世で、勤めの合間に、誰に頼まれたのでもなく、こつこつと読み集めていた古い噺。布団の中の小さな子らに、語って聞かせた昔話。それを、出雲風に少しずつ作り変えて。桃太郎も、かぐや姫も、鼠の嫁入りも。綾月の感想はいつも同じだった。阿呆な話だ。もう一つしろ。


「ええ、わたくしにも戦うための武器はございます」


 八千代の日輪との戦い方は、もう決まっていた。


◇


 三の君の屋敷の庭は、見事だった。


 萩と女郎花と桔梗と薄が、どれも一番美しく見える角度に植えられて、白砂は波の形に掃かれ、池には錦の鯉が泳ぎ、その上に楓が枝を差しかけていた。人が自然を自分の掌の上に乗せて、愛でている美しさだった。峠の森の美しさとも、綾月の庵の野苺の美しさとも違っていた。


 座敷には女が七人いた。


 真ん中に座っているのが三の君だった。二十五か、三十か。白い細面で、目尻に紅を引いて、扇を半分だけ開いて口元に当てている。顔は若いのに、目がひどく古かった。何百年も前の絵巻の中から、こちらを見ているような目だった。


「ようおいでやす」


 三の君は扇の陰で笑った。


「出雲の、朝霧のお嬢はん。遠いとこ、ようおこしやしたなあ」


 八千代は舞に三日仕込まれた通りの角度で頭を下げ、仕込まれた通りの言葉で挨拶をした。三の君の目が、一瞬だけ細くなった。仕込まれたものが仕込まれたものだと、見抜かれた気がした。


 茶は楽焼の茶碗で出た。苦くて、奥の方に、かすかな甘みがあった。


 それから、質問が始まった。


 出雲には空を飛ぶ機械があるとは本当か。息壌の塔は勝手に伸びるのか。塔の天辺の鳥居には誰がお参りするのか。汽車というのは、牛よりも速いのか。七人の女たちが、代わる代わる、矢継ぎ早に訊いた。八千代は一つずつ答えた。答えるたびに女たちは扇の陰で笑い、感心し、驚いた。


 悪い人たちではない、と八千代は思った。退屈しているだけだ。塀の内側で、毎日同じ庭を見て、同じ顔を見て。


 女たちの話が、少しずつ、出雲から逸れていった。


「そういえば、先月、二の君様のところの下女が、送られはったんやて」


「まあ。何をしはったん」


「二の君様の簪を、一本、くすねたんやて。十四の子どすえ」


「まあ、まあ」


「六条河原やのうて、後宮の裏の井戸端で、静かに送られはったそうどす。二の君様は、お優しいさかい」


「ほんに、お優しいわあ」


 女たちは扇の陰で笑った。八千代は茶碗を持ったまま、表情を動かさないようにした。顔に出したら、あきまへん。摂津口の役人の声が、耳の奥で聞こえた。


 十四の子が、簪一本で、井戸端で。


 送られた子の話は、それきりだった。次の話題に移っていった。誰もそれ以上、その子のことを考えていなかった。


◇


「綾月はんは、お元気どすか」


 三の君が言った。扇をぱちり、と閉じて。


 座敷の空気が変わった。七人の女の目が、一斉に八千代に集まった。


「お変わりなく。日々、健やかにお過ごしでございます」


「そうどすか。それはよろしおした。……お腹の方も」


「はい」


「ご立派なお腹やそうどすなあ。後宮で、皆、噂しとります」


 三の君は扇を開いて、口元を隠した。


「二つ、あるんやないか、って」


 八千代の指先が冷たくなる。


「双子は、忌み子と申しますやろ。家を、割る、と。日輪の古いお家では、片方を、生まれたその晩に、山へお返しするところもあるそうどすなあ」


 女たちの何人かが、扇の陰で目を伏せた。何人かは、目を伏せなかった。


「あんさん、綾月はんと一番仲がよろしいんやろ。何か、聞いてはりまへんか」


 八千代は知らなかった。


 双子のことは、綾月から一言も聞いていなかった。腹が大きいのは見ていた。膳を五つ平らげるのも見ていた。だが二つだとは。


 知らなかった。だが三の君の目は、知っている目だった。確かめに来ている目だった。どこかから、漏れている。


 八千代は三の君の目を見ないようにして、座敷の中を見た。


 蛇の目を、ほんの少しだけ開いた。


 人は見ない。座敷を見た。物と場を。


 見えた。


 女たちの口元から、細い黒い煙が立ちのぼっていた。一人一人の口から、糸のように細く。噂を口にした者の口からも、口にしなかったが目を伏せなかった者の口からも。煙は天井の下で集まって、ゆっくりと渦を巻いていた。


 小さな渦だった。まだ形がない。だが形になりかけていた。


 お菊の言葉を思い出した。恨みの方は、潰さな、また育つでな。市の外れの杭を思い出した。悪い噂は祟りになる。隣家の竈に湧いた黒いちっこいのが、ようけ。


 この煙が形を持ったら、どこへ行くのか。


 庵へ行く。綾月の腹の中の、二つの命へ行く。


 八千代は茶碗を置いた。


 どう答えても、綾月が傷つく。知っていると答えれば、噂は真になる。知らないと答えれば、十三番目の妃は出雲の友にすら隠している、と言われる。何も答えなければ、何も答えなかったことが、また噂になる。


 問いには、答えない。


 問いの方を、変える。


「出雲に、古い噺がございます」


 八千代は声に力を込める。


「子供の頃に、祖母から聞いた噺でございます。……少し、長うございますが、お聞きくださいますか」


■次回予告

・問いには答えない。問いの方を変える

・一番強いのは、すぐ隣に

・噺は刀ではない。だが盾には、なる


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