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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 十四話

■前回のあらすじ

・三の君から茶の招き。八千代が綾月の名代に

・門であやめが明かす「寸毫を保つ者」と、抜き身の刃物のようだった幼い綾月

・茶会で、二の君の下女の話と、双子の噂を向けられる


# 第十四話 鼠の嫁入り


 祖母から聞いた噺というのは真っ赤な嘘だ。

 この噺の出処は、はるか昔に読んだ本だった。その後に噺を聞かせたのは小さな子供だった。その子の顔は、もう思い出せない。


 八千代は声を、頭と腹ちょうど真ん中に置いた。


「むかし、むかし。ある山の、大きな木の根元の、小さな穴に、鼠の親子が住んでおりました」


 座敷が、少しだけ静かになった。


 八千代は父鼠の声を、腹の底に置いた。低く重々しく、少しだけ間の抜けた声で。


「娘や。お前も年頃じゃ。この世で一番強いお方のところへ、嫁にやろう」


 母鼠の声を、頭のてっぺんに置いた。高くせかせかと。


「そうですとも、そうですとも。一番強いお方といえば、お日様でございますよ」


 鼠の親子は、お天道様のところへ行った。お天道様の声は、ゆったりと、温かく。


「わしより強い者が、おるぞ。雲どのじゃ。雲どのがわしの前に来ると、わしは何も照らせぬ」


 雲の声は、ふわふわと、頼りなく。


「わしより強い者が、おるぞ。風どのじゃ。風どのが吹くと、わしはどこへでも飛ばされる」


 風の声で、八千代は野分の夜を思い出した。ごうと喉の奥で鳴らすと、女たちの何人かがびくりと肩を震わせた。


「わしより強い者が、おるぞ。土塀どのじゃ。わしがどれほど吹いても、土塀どのだけは、びくともせぬ」


 鼠の親子は、土塀のところへ行った。


 八千代はそこで、ちらりと座敷の外の、屋敷の白い土塀を見た。女たちもつられて、土塀を見た。


 土塀の声は重くどっしりと、それから、少しだけ情けなく。


「わしより強い者が、おるぞ」


「まあ。土塀どのより強いお方が」


「鼠じゃ」


 座敷が、しんとした。


「わしの根元を、かり、かり、と齧る。毎晩、毎晩、かり、かり、と。わしは、それが、いっとう怖い。この世で一番強いのは、鼠どのよ。お前たちじゃ」


 どっと、座敷が沸いた。


 若い奥方が一人、扇を取り落として笑い転げた。年嵩の奥方も、口元を袖で押さえて肩を震わせた。池の鯉が一匹ぱしゃりと跳ねた。


「鼠の娘は、隣の穴の、鼠の若者のところへ、嫁に行きました。一番強いお方は、遠い空の上ではなく、いつも、すぐ隣に、おったのでございます」


 八千代は扇を閉じるように、両手を膝に揃えた。


「めでたし、めでたし」


◇


 笑い声が、しばらく続いた。


 その笑い声の中で、女たちの話題が、すっかり変わっていた。


「せやけど、ほんに、野分の夜も、うちの土塀は崩れしまへんどしたなあ」


「あら、うちの方は、ちょっと崩れましたえ」


「それは鼠のせいどすわ、きっと」


 双子の話は、どこかへ行ってしまっていた。


 八千代は蛇の目を、もう一度だけ、ほんの少し開いた。天井の下の黒い煙は、薄れていた。渦がほどけて、形を失いかけていた。


 消えては、いなかった。


 薄れただけだった。煙は天井の隅の暗がりに溜まって、細く、じっと、そこに留まっていた。


 膝の上で揃えた八千代の手が、まだ少しだけ冷たさを持っていた。


 三の君だけが、笑っていない。


 扇を半分開いたまま、八千代をじっと見ていた。


「ほんに、ようできた噺どすなあ」


「恐れ入ります」


「ほんで、お嬢はんは、この噺で、うちに何を言わはりたかったんどす」


 八千代は顔を上げた。


「何も。ただの、出雲に伝わるお噺でございます」


 それから、少しだけ間を置いた。


「ただ、祖母は、この噺の終わりに、いつもこう申しておりました。強いものの話ばかりしていると、隣の鼠が見えなくなる。隣の鼠の話ばかりしていると、自分が土塀だということを、忘れてしまう、と」


 三の君の扇が、ほんのわずかに止まった。


「後宮の土塀は、まことに立派でございますね、三の君様」


 八千代は深く頭を下げた。


「どうか、隣の穴に、お心をおかけくださいますように」


◇


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 意味が分かったのは、三の君だけだったと思う。噂は鼠のように、後宮という土塀を、根元から齧る。齧られて崩れるのは、鬼姫の庵だけではない。後宮そのものだ。そして、その鼠を飼っているのは、誰の口なのか。


 扇の陰で、三の君の口の端が、ほんの少しだけ上がった気がした。


「また、来ておくれやす」


 三の君は言った。


「次は、もっと長い噺を、聞かせておくれやす。八千代はん」


「ええ、喜んで」


◇


 三の君の屋敷の門を出ると、日が傾いていた。


 庵縁側に、目を瞑った綾月が座っていた。大きな腹を片手で支えて、森の方ではなく、八千代が帰ってくる道の方を見ていた。


「……一刻前から、でございます」


 隣であやめが小声で言った。


 綾月は何も言わなかった。八千代が門を潜って庵の前まで来るのを、黙って待っていた。


 八千代は気付いていた。綾月は双子のことを知っていた。知っていて、八千代を巻き込まないように、黙っていたのだ。


「ただいま戻りました」


「ああ」


「御子のことを、少しだけ、尋ねられました」


 柱がみしり、と鳴った。


「双子は家を割る、と」


 柱がもう一度鳴った。八千代は綾月の目を見た。


「お答えは、いたしませんでした。代わりに、鼠の嫁入りを」


 綾月の眉が、少しだけ動いた。


「……あの、締まらん話か」


「はい」


「お天道様より雲、雲より風、風より土塀、土塀より鼠」


 綾月はそらんじた。


「三度だ。出雲で、私がもう一つと言ったら、お前は同じ話を三度もした」


「……覚えて、おいででしたか」


 綾月は答えずに、八千代の頭に、ぽんと手を置いた。


「三度とも、面白かった」


 それから、少しだけ黙って、小さく言った。


「……助かった」


 綾月の口から、その言葉を聞くのは、久しぶりだった。


 八千代は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。代わりに、腹が鳴った。茶会では、茶と干菓子を一つ口にしただけだった。


「……お腹が、すきました」


 綾月の口の端が、見る間に釣り上がった。


「半助と鬼共に言え。今夜は、じんざい餅を六つ用意しろと」


「六つ」


「五つは私の分、一つはお前の分だ」


◇


 その夜、八千代は書斎で帳面を開いた。


 灯石の白い光の中で、秋虫が鳴いていた。あんなに煩かった夏虫の鳴き声は、もうしなかった。


 後宮にて御子二つあり、との噂。出所不明。

 双子は家を割る。片方を山へ返す家もある、と。

 二の君様の下女、十四、簪一本にて送らる。

 噂の煙、天井に渦を巻く。笑いにて薄まる。消えず。

 噺は刀ではない。だが盾にはなる。刀を持てないわたくしにも、持てる盾。


 書いてから、市の外れの杭を思い出した。木の板を噛まされた女の、何もない目を。


 八千代は一行書き足した。


 市では、噂を流した女が口を塞がれて晒される。後宮では、噂を流した奥方は、茶を飲んで笑っている。


 筆を置いた。


『三の君様だけ、笑ってなかったけど』


 瑞雲が言った。


「笑っておいででしたよ。扇の陰で、ほんの少しだけ」


『見えたの?』


「ええ、きっとそうです」


 そう見えたのだから、そう思っておこう。少なくとも最後は名前で呼んでくれたのだから。


 八千代は灯石に布を掛けようとして、手を止めた。


 どこかで、小さな音がした。


 かり。


 かり、かり。


 庵の外の、土塀の方からだった。ごく小さな、乾いた音。何かが、何かを、齧っている音。


 八千代は耳を澄ませた。音はそれきりしなかった。秋虫が鳴いているだけだった。


 気のせいだ、と思うことにした。その時は。


 八千代は灯石に布を掛けた。


 帰るのは、ひと月後の予定だった。その予定はもう半分どこかへ行ってしまった気がした。



■次回予告

・長月の彼岸花

・かり、かり、と齧る音

・綾月と二人きりの夜


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