第一章 十五話
■前回のあらすじ
・八千代は噺「鼠の嫁入り」で座敷を沸かせ、噂の煙を薄める
・三の君「次は、もっと長い噺を。八千代はん」
・綾月「……助かった」。じんざい餅を六つ。その夜、土塀の方から、かり、かり
# 第十五話 彼岸花と鼠
長月に入って間もない朝、田の畦という畦が赤く燃えていた。
彼岸花だった。庵の裏の土手から見下ろすと、稲の黄金色の海を細い赤い帯が幾筋も縫い取っていて、その帯は田と田の境を、田と道の境を、それから田と森の境を、定規で引いたようにきっちりとなぞっていた。
「摘んだら、かんよ」
隣でおさよが言った。八千代の手が、知らないうちに一輪の茎に伸びかけていた。
「死人花だもんで。家に持って入ると火事になるだに。ほんで、摘んだ手で飯を食うと、山に呼ばれる。婆ちゃがよう言っとった」
八千代は手を引っ込めた。五遍目は嫌だった。
「なぜ、畦にばかり咲くのでございますか」
「植えたんだに。昔の人が。……お彼岸の頃から、山の懐が近うなるだもんで。花で、線を引いとくだよ」
おさよは赤い帯の一本を指さした。田と森の境の帯だった。
「ここまでは、生きとる人の。こっから先は、山の」
おさよは懐から笹の葉で包んだ握り飯を二つ出して、彼岸花の帯の手前の、苔むした石の上に置いた。手を合わせた。長いこと合わせていた。
「爺ちゃの分と、兄ちゃの分」
「お兄様は」
「三年前に、山で、主さんに連れてかれた」
おさよはあっさりと言った。
「薪を取りに入って、帰ってこんかった。草履の片っぽだけ、この石のとこに揃えて置いてあった。……神さんに連れてかれた人は、死人じゃないもんで。神さんの許におる、ってだけ」
「では、この握り飯は」
「兄ちゃを連れてった主さんに」
八千代はおさよの横顔を見た。そばかすの浮いた頬に、朝の光が当たっていた。泣いてはいなかった。
「兄ちゃが腹ぁ空かせとらんように、って。主さんが腹いっぱいなら、兄ちゃにも分けてくれるかもしれんだら」
八千代は帳面を出さなかった。出すのは無作法な気がした。代わりに石と赤い帯と、帯の向こうの森と、森の上の山の全部に向けて、手を合わせた。
連れていった神に、握り飯を供える。恨まない。恨めない。恨む代わりに、腹を満たしてやる。そうすれば、神のところにいる兄も、腹を空かせずに済むかもしれない。
日輪の人は、悲しみのやり場まで、神の方へ向けて作っているのだった。
◇
稲刈りが始まった。
八千代は半助の買い出しの供をして、田の間の道を歩いた。どの田でも、家じゅう総出で鎌を振るっていた。刈った稲は束にされて、田の中に立てた稲架に掛けられ、黄金色の壁が田ごとに立ち並んでいく。半助と田の者たちは、言葉を交わさずに顎をしゃくり合うだけで、何もかも通じ合っているようだった。
どの田も、北の隅だけが四角く刈り残されていた。
「田の神さんの分だに」
半助が言った。
「秋に山へ帰りなさる時の、弁当だ。手ぶらで帰らせたら、かん。来年、下りてきてくれん」
「田の神は、山へ帰られるのでございますか」
「春に山から下りてきて、田におって、秋に山へ帰って山の神さんになりなさる。……そう言われとる」
その時、田の者たちの鎌の音が止んだ。
一枚の田だけではなかった。見渡す限りの田で、一斉に止んだ。皆が鎌を下ろして、腰を伸ばして、それから黙って、どこか一点を見るでもなく、立っていた。
八千代は半助を見た。半助も、立っていた。
風が吹いた。
北から南へ吹くはずの秋の風が、その時だけ、南から北へ、田の上を山の方へ吹いた。湿った、ひやりとした、泥と水草の匂いのする風だった。どこかで鳴いていた蛙が、一匹残らず黙った。
北の隅の、刈り残した一叢の稲が、揺れた。
風で揺れたのではなかった。穂の先から根元へ向かって、一本ずつ、何かに引き寄せられるように、順にしなっていった。一束が、ふっと、なくなった。刈られたのではない。そこにあった穂が、そこになくなっていた。
瞼の奥で蛇の目が疼いた。
「見んでええ」
半助が前を向いたまま、低く言った。
「見んでも、帰りなさるのは、分かる」
八千代は蛇の目を押さえた。
刈り残しの稲の向こうの畦の、彼岸花の赤い帯が、一か所だけ、倒れた。何か重くて柔らかいものが、そこを跨いで越えていったように。それから畦の向こうの森の縁の、薄の穂が、一筋の道を開けるように左右に分かれていって、その道は山の方へ、ゆっくりと、遠ざかっていった。
薄が元に戻った。
蛙が一匹、鳴いた。
田の者たちが、山の方へ頭を下げた。半助も下げた。八千代も下げた。
誰も何も見ていなかった。見ていないのに、田の神が帰っていったのを、皆、知っていた。
「……来年も、下りてきてくださるでしょうか」
八千代が訊くと、半助は少し考えた。
「分からん。下りてこん年も、ある。下りてきても、田を呑む年も、ある」
半助は鎌を持ち直した田の者たちを見ていた。
「そういうもんだに」
◇
その晩、八千代は書斎でまたあの音を聞いた。
かり。
かり、かり。
茶会の晩に聞いて、気のせいだと思うことにした音だった。あれから三日、毎晩ではなかったが、時々聞こえていた。今夜は、はっきりと聞こえた。
八千代は灯石に布を掛けて、書斎の窓を細く開けた。半分に欠けた月が、庵の土塀を白く照らしていた。
御目、借り奉る。
蛇の目を開いた。人は見ない。神も見ない。土塀を見た。
土塀は物だった。読めた。三河の土と藁と、職人の掌で練られた土塀で、その上に、もう一枚、目に見えない膜が張られていた。結界だった。野分の朝に、義賢が編んだものだと知った結界だった。薄くて、透き通っていて、月の光をわずかに弾いていた。
その膜の根元に、黒いものがいた。
鼠の形をしていた。黒い煙を練り固めたような鼠が、十匹ほど、土塀の根元に取り付いて、結界の膜を齧っていた。膜には、虫食いの葉のような小さな穴が、点々と開いていた。
色に覚えがあった。匂いにも。三の君の座敷の天井の下に、渦を巻いていた煙と同じだった。
囁き声が聞こえた。耳ではなく、目の奥に。
ふたつ。ふたつ。わる。わる。いえを、わる。ふたつは、わる。
八千代は窓枠を握りしめた。
鼠の嫁入り。土塀を齧るのは鼠。八千代が茶会で語った、祖母の教え。
たとえ話のつもりだった。
日輪では、たとえ話がたとえ話で終わらない。
「カカッ。気付いたかい」
頭の上から声がした。
庵の屋根の上に、義賢が胡坐をかいていた。瓢箪を抱えて、月を背にして。
「義賢様」
「様はいらないって言ってんだろ、嬢ちゃん」
義賢は屋根の縁から身を乗り出して、土塀の方を顎でしゃくった。
「最初の茶会の後から、湧き始めた。初めは二匹だった。今は、庵のまわりじゅうで、三十と少し」
「わたくしが、茶会で、あの噂を」
「阿呆言いな」
義賢は瓢箪から酒を一口飲んだ。
「あんたが薄めなきゃ、今頃、鼠じゃ済んでないよ。猫くらいのが……いや、犬かね。噂の祟りってのはね、一匹一匹はたいしたことない。丁種の、そのまた下の、ちっこいのだ。けど、消しても湧く。後宮のどっかで誰かがひそひそやるたびに、一匹湧く」
義賢は瓢箪を振った。酒の霧が月の光の中にふわりと広がって、土塀の根元に降りた。鼠たちが、きいきいと鳴いて散った。
散っただけだった。
「姐さんも、気付いてるよ。ここんとこ、夜中の寝返りが増えた」
「綾月様なら、あのような小さな祟り、すぐに」
「潰せないのさ」
義賢はあっさり言った。
「姐さんの力はね、でかすぎるんだよ。蚊を叩こうとして、山を割る。そういうお人なのさ。で、今の姐さんは、腹に二つ抱えてる」
「……二つ」
「とっとっと、と、とっとっと、と。二つ、鳴ってる」
義賢は自分の胸を、煙管の雁首で二度叩いた。
「あたしは癒しの鬼だからね。腹ん中の音は、聞き分けられる。元気な音だよ。二つとも」
八千代は黙っていた。茶会で知らなかった数を、鬼の口から聞いた。
「姐さんが力を使えば、腹の子に障る。かといって、使わずに我慢して、腹ん中で煮えてるのも、また障る。……厄介な祟りだよ、噂ってのは。殴れもしない。斬れもしない。元は、後宮中の、女の口だ」
義賢はもう一口、酒を飲んだ。
「ま、あたしとあいつで、毎晩散らしとくさ。あんたは寝な」
八千代は窓を閉めなかった。閉める前に、どうしても訊きたいことがあった。
「義賢殿」
「なんだい」
「義賢殿と義覚殿は、神でいらっしゃるのですか。それとも、祟りでいらっしゃるのですか」
義賢は瓢箪を口に当てたまま、片方の眉を上げた。それから、カカッと笑った。
「出雲の娘は、訊きにくいことを真っ直ぐ訊くねえ。……どっちだと思う」
「分かりませぬ。分からないので、伺っております」
「正直でよろしい」
義賢は瓢箪を膝に置いて、月を見上げた。
「元は、人さ」
八千代は窓枠を握ったまま、黙っていた。
「ずっと昔の話だよ。京の羅城門のあたりでね、あたしとあいつは賊に殺された。あいつは、あたしを庇って先に。あたしは、その後で。……恨んだねえ。恨んで、恨んで、門の下で祟りになった。祟りになって、門を通る賊を片っ端から食った。賊の匂いがする奴だけをね」
義賢の声は、少しも暗くなかった。昨日の天気の話でもするような声だった。
「そしたら、山城の古い村の連中が、賊を食う鬼さまだって拝み始めた。握り飯を置いて、酒を置いて、うちの村にも賊が来ませんようにってね。拝まれて、拝まれて、拝まれてるうちに、祟りが神になっちまった。……若い神さ。千年にもならない」
「祟りが、神に」
「なることもある。めったにないけどね。逆もある。神が祟りに堕ちることもね」
義賢は煙管に火を入れた。
「あたしらは元が人だから、言葉が分かる。人の情も分かる。分かりすぎて困るくらいさ。人の恨みから湧いた祟りや、そこから転じた若い神は、たいがい言葉が分かるんだよ。土塀の鼠どもだって、ふたつわるって喋るだろう。あれは人の口から湧いたからさ」
「では、峠の主様や、淡海の主様は」
「ありゃあ、別物だ」
義賢は煙を吐いた。
「山や湖そのものみたいな古い神さんは、人の言葉なんぞ持ってない。持つ要もない。雨が人の言い分を聞かないのと同じさ。日輪にはそういう神さんの方が多い。……ただね、ずっとずっと格の高い神さんの中には、人の言葉も情も、ちゃあんと分かるのがいる」
「それは、話が通じるということでございますか」
「分かる、ってことさ」
義賢は煙管の雁首で、とん、と屋根の瓦を叩いた。
「分かったうえで、人の都合は聞かない。そういうのが、一番おっかない」
八千代は窓を閉めた。
寝られなかった。
かりかりという音は、夜明けまで、遠くなったり近くなったりしながら、止まなかった。
◇
次の晩、夕餉の後、居間には綾月と八千代の二人きりだった。
あやめも舞も、何か用を言いつけられて席を外していた。綾月は脇息にもたれて、大きな腹の上で両手を組んでいた。時々腹の皮が内側から、ぼこりと動いた。
「……うるさいだけだ」
八千代が見ているのに気付いて、綾月は言った。
「二人して、中で喧嘩をしている。どちらも譲らん。誰に似たんだか」
二人して、と綾月は言った。八千代は何も言わなかった。綾月も、それ以上何も言わなかった。言わなくても、もう二人とも、知っているのだと分かっていた。
「お産は、いつ頃になりましょう」
「神無月の末か、霜月のはじめか。産婆は、双子は早く出てくることが多いと言っていた。神無月の末だろう」
綾月は天井を見た。
「私の生まれ月だ。同じ月に生まれて、同じ月に産む。悪くない」
「……怖くは、ございませんか」
「怖くはない」
即答だった。
即答した瞬間に、障子がかたりと鳴った。八千代の体が、綾月の方へ、ずるりと引っ張られた。綾月は舌打ちをした。引っ張る力が消えた。
「怖くはない」
綾月はもう一度言った。今度は、障子は鳴らなかった。
「産で死ぬのは、女の戦だ。祓士が祟りと戦って死ぬのと同じだ。女が産で死ぬのは、戦死だ。誉れだ。斎宮の家では、そう教わった。日輪では、皆そう言う」
綾月は指を折って数えた。
「母の姉が、産で死んだ。祖母の妹も。舞の母も、舞の弟を産んで死んだ。後宮でも、この五年で二人」
それから、もう一つ、言った。
「局が、産の夜に人を寄越す。白い狩衣を着た、送り手を」
八千代の背筋が冷たくなった。六条河原の、白い筵の上の娘の顔が浮かんだ。
「……なぜ、でございますか」
「私が死んだら、私の力が、ほどける。誰も押さえる者がいなくなる。死んだ私が、祟りになるかもしれん。……そうなる前に、送るためだ」
綾月の声には、何の色もなかった。
「当然だ。私が局の者でも、そうする」
八千代は、膝の上で手を握った。
「だから、怖くはない。死ぬなら、死ぬ。死んだ後のことも、局が片付ける。それだけだ」
八千代は、遠つ世の、白い廊下を思い出していた。
病院の廊下だった。長椅子に座って一晩待った。何もできなかった。ただ待つしかなかった。扉の向こうから、ときどき声が聞こえた。そのたびに立ち上がって、また座った。夜が明ける頃、看護師が出てきて、言った。お二人とも、お元気ですよ。
あの時の、膝から力が抜けていく感じを、八千代はまだ覚えていた。
「……いりませぬ」
声が出ていた。
「誉れなど、いりませぬ」
綾月がこちらを見た。
「わたくしは、記録をする者でございます。綾月様が誉れの死を遂げられたら、わたくしは、それを書かねばなりませぬ。綾月様の名の横に、産にて、と」
声が震えた。八千代は止めなかった。
「書きとう、ございませぬ」
「八千代」
「生きてくださいませ」
綾月は長いこと黙っていた。
「……約束は、せん」
低い声だった。
「できるかどうか分からん約束は、せん。祓士は、そういう約束をしない」
「では、約束は、いただきませぬ」
綾月がまだ何か言おうとするのを、八千代は遮った。綾月の言葉を遮るのは、生まれて初めてのことだった。
「代わりに、今宵から毎晩、噺をいたします」
「……噺」
「毎晩、一番よいところで、続きは明日、と申し上げます。続きが気になって、気になって、死ぬに死ねぬように」
八千代は顔を上げた。
「わたくしの噺の結びを聞かずに、誉れの死など、遂げさせませぬ」
綾月は、しばらく八千代を見ていた。
「……ずるい奴だ」
「はい。ずるうございます」
「出雲の者は、皆そうか」
「いいえ。わたくしだけでございます」
綾月は腹の上で組んでいた手をほどいて、脇息に肘をついた。
「何の噺だ」
「石から生まれた、猿の噺でございます」
綾月の目が、少しだけ動いた。
「……出雲の離れで、お前が途中で寝た噺か」
八千代は息を止めた。
七つの冬の夜のことだった。朝霧の家の、蔵の脇の離れに泊まった綾月が、眠らずに息を細くしているのに気付いて、綿入れを引きずって離れへ行った。眠らなくてよろしゅうございます、噺を聞いておいでになれば夜は早く明けますので、と言って、噺を始めた。
途中で、自分の方が先に寝てしまった。
朝目が覚めたら、綾月の膝の上だった。
「……覚えて、おいででしたか」
「猿が石から出てきたところで、お前は舟を漕ぎ始めた。王になったところで、寝た」
綾月は言った。
「続きを、ずっと聞いていない」
八千代は胸の奥で何かがほどけていくのを感じながら、声を胸と頭のちょうど真ん中に置いた。
「では、あの夜の続きから。……海の彼方の、ずっと東の、ある島に、ひとつの石がございました」
「そこからか」
「そこからでございます。猿が、王になるまでを、もう一度」
綾月は何も言わずに、目を閉じた。
その夜、土塀の方からかりかりという音はしなかった。
■次回予告
・毎晩の猿の噺
・十三夜の月
・山から近付く声




