第一章 十六話
■前回のあらすじ
・畦の彼岸花と、刈り残しの田の神の弁当
・土塀の結界を齧る噂の鼠。「ふたつ。わる。いえを、わる」
・綾月「産で死ぬのは、女の戦だ」。産の夜に来る送り手のこと
# 十六話 猿の噺と十三夜
それから、夕餉の後の噺が庵の夜の決まりになった。
綾月は脇息にもたれて、あやめと舞は繕い物をしながら、半助は勝手口の敷居に腰を下ろして、おさよはその隣に膝を抱えて。義覚は庭で箒を持ったまま、聞いていないふりをして耳だけを居間の方へ向けていた。義賢は屋根の上で瓢箪を抱えていた。
猿は王になった。滝の裏の洞穴に猿たちの国を作って毎日桃を食べて、遊んで暮らした。ある日、年寄りの猿が死んだ。猿の王は泣いた。
「なぜ泣く」
綾月が言った。
「王になったのだろう。何でも手に入るのだろう」
「何でも手に入っても、死ぬことだけは、避けられませぬ。いずれ自分も、閻魔の帳面に名を書かれて、連れていかれる。猿はそれが、怖くなったのでございます」
「阿呆だな。死ぬのが当たり前だ」
「その当たり前が嫌な猿は、どうしたと思し召しますか」
綾月は少し考えた。
「……殴りに行ったか」
「当たらずとも、遠からず。……続きは、明日」
綾月が舌打ちをして、障子がかたりと鳴った。あやめが繕い物から顔も上げずに言った。
「漏れておりますよ」
◇
次の晩、猿は不老不死を求めて海を渡り、山を越え、十年かけて仙人を探し当てた。雲に乗る術と、七十二の化け術を覚えた。海の竜王の宮へ乗り込んで、海の底に沈んでいた鉄の柱をせしめた。
「一万三千五百斤の、鉄の柱でございます」
「どれくらいだ」
勝手口から半助が言った。噺の最中に半助が口を挟むのは初めてだった。
「米俵一つが、十六貫だに。わしでも、担いで歩くのがやっとだら」
「その、およそ百三十俵分」
半助が黙った。おさよが噴き出した。
「猿は、その柱を、縫い針ほどに縮めて、耳の穴に仕舞いました」
おさよが笑い転げた。綾月は笑わなかったが、口の端がぴくぴくと動いていた。
その次の晩、猿は地獄へ乗り込んで、閻魔の帳面から、自分の名と仲間の猿たちの名を、墨で塗り潰した。
綾月が脇息から身を乗り出した。
「……帳面から、名を消したのか」
「はい。もう、誰も、猿を連れていけませぬ」
八千代は語りながら、継祚禄のことを考えていた。摂津口の関所の孫写しに、自分の名が光の字で浮かんだことを。誰がどの神からどれだけ力を借りているか、全部書かれている鏡の帳面。綾月の名は、そこにひどく濃く書かれているのだと、出雲で聞いたことがあった。
綾月はしばらく黙っていた。
「……痛快な猿だ」
その次の晩、猿は天に召し上げられて、馬の番人にされた。役目の低さに怒って天の門を蹴破り、追ってきた十万の天の兵を、毛を吹いて作った分身と鉄の柱で叩きのめした。
綾月はその晩、膳を五つではなく六つ平らげた。
「この猿は、いい。天に頭を下げん。上から下がれと言われて、下がらん。それがいい」
あやめが何か言いたそうな顔をして、言わなかった。舞が眼鏡を押し上げた。
「綾月様。御子様方が、この猿のようにお育ちになったら、この舞、身が持ちませぬ」
「持たせろ」
綾月は言った。
「私の子だ。猿くらいには、なる」
◇
噺の晩は、土塀の鼠が齧らなかった。
義賢に言われて、八千代は噺の途中で一度だけ、蛇の目で土塀の方を見た。鼠たちは土塀の根元に並んで、居間の方を向いていた。耳を立てて、じっとしていた。数は四十を超えていた。
「聞き惚れてんのさ」
後で義賢が言った。勝手口で、半助の漬けた茄子をつまみ食いしながら。
「祟りってのはね、一つのことしか考えられない。ふたつ、わる、ふたつ、わる、ってね。それしか考えられないはずの奴らが、あんたの噺の間だけ、それを忘れてる」
台所の竈の熾火も、噺の晩は、少しだけ明るかった。
「……焦げんようになった」
半助がぼそりと言った。
「前は、時々、焦げた。竈の神さんが、あんたの噺、聞いとるだに。でら熱心に」
八千代は竈の方を見なかった。見なかったが、噺の途中で、台所の方から、ぱちり、と熾火の爆ぜる音がすることがあった。猿が天の兵を叩きのめすところで。猿が鉄の柱を耳に仕舞うところで。笑うところで、爆ぜるのだった。
義賢が、八千代の喉を、煙管の雁首でとんと指した。
「その声、大事にしな」
「……声、でございますか」
「千年に何人か、そういう声を持ってるのがいる。そういう声はね、人も、神も、祟りも、引き寄せる。いいもんも、悪いもんも、区別なく」
義賢の金色の目が、少しだけ真面目になった。
「使い方を間違えなきゃ、盾になる。間違えたら」
義賢は最後まで言わなかった。言わずに、カカッと笑った。
「ま、あんたなら大丈夫さ。姐さんが見込んだ娘だもの」
◇
長月の十三夜、庵の縁側に月見の支度が整えられた。
「片見月は、かん」
おさよが三方を運びながら言った。
「十五夜だけ見て、十三夜を見んのは、片見月っていうだに。片っぽだけ見ると、片っぽだけ運が逃げるだもんで」
三方には白い団子が十三、茹でた栗と枝豆、薄が五本。半助がどこからか葛の花と撫子を摘んできて、太い指で、驚くほど細やかに薄の間に活けた。八千代はその手つきを、帳面に絵で描いた。
月は満月にほんのわずか足りなかった。左の縁が、爪の先ほど欠けていた。
義賢は松の上で、義覚は珍しく箒を持たずに縁側の端で、月を見上げていた。鬼も月を見るのだ、と八千代は思った。綾月は脇息にもたれて、大きな腹の上に栗を一つ載せていた。
「……月の光を浴びた石だったな」
綾月が言った。
「猿は」
「はい。月の光と、日の光と、千年浴び続けた石でございます」
「私の力も」
綾月はそこまで言って、やめた。やめて、腹の上の栗を八千代の手に載せた。
「続きを、しろ」
その晩の噺は、お釈迦様の掌だった。
天の兵を叩きのめして、天の帝の座をよこせと迫る猿の前に、西の果てから、お釈迦様がおいでになる。八千代はお釈迦様の声を、胸の一番底に置いた。
「猿よ。お前は、そんなに強いのか」
猿の声は、頭の一番上に。
「わしは、天で一番強い。天の帝の座を、わしに譲れ」
「では、わしの掌から、飛び出してみよ。飛び出せたら、譲ろう」
猿は笑って、雲に乗って飛んだ。十万八千里を、ひと飛びで。世界の果てに、五本の柱が立っていた。猿は一番真ん中の柱に、わしはここまで来た、と墨で書いて、ついでに柱の根元に小便をかけて、また雲に乗って戻ってきた。
「行ってきたぞ。世界の果てまで」
お釈迦様は、黙って、右手の中指を見せた。
「では、これは、何かな」
中指に、墨の字があった。わしはここまで来た。指の付け根から、小便の匂いがした。
おさよが転げ回って笑った。半助が勝手口で肩を震わせた。義賢は松の上で笑いすぎて、枝から落ちそうになった。
綾月は、笑わなかった。
「お釈迦様の掌は、そのまま、五つの峰の山になりました。猿はその下敷きになって、山の頂に、一枚の札が貼られました。猿は、そこで、五百年」
八千代は声を落とした。
「頭と手だけを山の外に出して、鉄の玉を食べ、銅の汁を飲んで、五百年、生き続けたのでございます」
縁側が、しんとした。
「……五百年」
綾月が言った。
「……籠められたのか」
籠める、と綾月は言った。出雲では使わない言い方だった。日輪では、大結界のことを、神々を祀り籠める結界、と言う。
「殺せなかったから、か。殺すのが惜しかったから、か。どっちにしろ、殺されずに、籠められて。山の下で、五百年」
綾月は月を見上げていた。
「……天に逆らった者の、末路だな」
庵の土塀が、みしり、と鳴った。
力が漏れていた。綾月は、今度は舌打ちをしなかった。あやめが黙って立ち上がって、綾月の背に手を当てた。土塀の軋みが、ゆっくりと止まった。
八千代は手の中の栗を握りしめていた。
籠める、という字が、初めて重く感じられた。日輪の大結界は、神々を殺さず、殺せず、籠めることを選んだのだと地誌にあった。日輪は、五百年どころではなく千年二千年、山の下に何かを籠め続けているのだ。
綾月が今、何を考えているのか、八千代には分からなかった。分からないが、猿の噺ではないことを考えているのは分かった。
「……それで」
綾月が言った。
「猿は、どうなる」
八千代は、うまく笑えなかった。
「続きは」
喉が詰まった。
「……明日」
「……ずるい奴だ」
綾月は八千代の手から栗を取り戻して、また自分の腹の上に載せた。
「聞いたか」
腹に向かって、言った。
「猿は、出られるそうだ。明日か、明後日か、そのうちな」
八千代は月を見るふりをした。月が滲んだ。
◇
その夜遅く、書斎で帳面を開いていると、山の方から声がした。
ぴいいいい、と細く高く長く尾を引く声だった。
鹿の声だった。奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の、という古い歌を八千代は思い出した。遠つ世の、教科書の隅に載っていた歌だった。
しばらくして、もう一度鳴いた。
さっきより、少しだけ近かった。
■次回予告
・奥方たちから七通の文
・三の君の白檀
・鼠を飼っていたのは誰か




