第一章 十七話
■前回のあらすじ
・夕餉の後の噺が庵の決まりになる。石から生まれた猿の噺
・十三夜、五百年籠められた猿に、綾月は何かを重ねる
・その夜、山の方から鹿の声
# 十七話 二度目の茶会
十三夜から後、八千代は猿を山の下に置いたままにした。
毎晩噺はした。鼠の嫁入りをもう一度。それから笠地蔵。浦島。舌切り雀。噺の晩は、土塀の鼠が齧らなかった。だが猿の続きだけは、しなかった。おさよや小萩にせがまれて、猿が石から生まれて山の下に籠められるまでを、頭からもう一度語る晩はあった。籠められたところで、八千代はいつも噺を止めた。
「猿は」
綾月は毎晩、訊いた。
「まだ、山の下でございます」
八千代は毎晩、そう答えた。
猿を出すのは、綾月が一番苦しい夜にしようと、八千代は決めていた。五百年の続きは、その夜のために取っておく。続きが気になって、死ぬに死ねぬように。
綾月は、八千代が何を考えているのか分かっているような顔をして毎晩舌打ちをした。
◇
十三夜を過ぎて、最初の茶会から半月ほどの間に、八千代のところに奥方たちから文が七通届いた。
どれも茶会の誘いだった。一度噺を聞かせてほしい、という。
「……人気者でございますね」
あやめが七通の文を扇のように広げて言った。
「むしろ、お断りし続ける方が、角が立ちましょう」
八千代は一通ずつ、蛇の目で読んだ。紙の来歴を。興味の色、退屈しのぎの色、見栄の色。黒い色は、混じっていなかった。
八通目が、三の君からだった。
次はもっと長い噺を、と申し上げましたね。約束は、お守りくださいませ。
八千代は文を鼻に近付けた。
香が変わっていた。甘くて重くて湿った香ではなかった。乾いた、静かな、木の匂いだった。白檀だろうか。
八千代は帳面に一行書いた。三の君様、香変わる。
◇
二度目の茶会の日、三の君の屋敷へ向かう途中の廊下で、あやめがふいに足を止めた。
廊下の先の、七の君の御殿の脇の池に、人だかりができていた。藍の胴着の防人が三人、池の縁にしゃがみ込んで、水の中から何かを引き上げていた。濡れた着物の裾が見えた。下働きの娘が着る、木綿の縞だった。白い足首が見えた。
「八千代様」
あやめが八千代の袖を引いた。いつもより強い力だった。
「こちらから参りましょう。少し遠回りになりますが」
「あやめ殿、あれは」
「わたくしたちは、何も見ておりませぬ」
あやめは前を向いたまま言った。声はいつも通り柔らかかった。
「後宮の池は、時々、人を呑みます。足を滑らせたのでございましょう。……そういうことに、なっております」
八千代は振り返らなかった。振り返らずに、あやめの後について遠回りの廊下を歩いた。
池の縁の防人たちは、誰も声を上げていなかった。誰かを呼びに走る者もいなかった。慣れた手つきで筵を広げ、慣れた手つきで包み、慣れた手つきで運んでいった。
その下働きの娘の名を、八千代はとうとう知らなかった。次の日も、その次の日も、後宮の誰の口からも、その娘の話は出なかった。七の君の御殿の池の水は、翌朝にはもう、何事もなかったように鯉を泳がせていた。
後宮では、噂は罪にならない。舞の言葉を、八千代は思い出していた。
噂にすらならないものも、あるのだった。
◇
二度目の茶会の座敷には、奥方が十人と少し並んでいた。
庭の萩は盛りを過ぎて、楓が色付き始めていた。池の鯉が、前より少しだけ深いところを泳いでいた。
「ようおこしやす」
三の君は扇の陰で笑った。
「今日は、どんな噺を、聞かせてくれはるんどす」
「……鬼の噺を、ひとつ」
座敷が、ぴんと張りつめた。鬼姫。後宮で綾月が陰でそう呼ばれていることを、八千代はもう知っていた。
「……鬼、どすか」
三の君の扇が止まった。
「はい。鬼の方々が、たいそう、踊りのお好きな噺でございます」
八千代は、瘤取り爺の噺をした。
右の頬に瘤のある、人の好いお爺さんと、左の頬に瘤のある、意地の悪いお爺さん。八千代は二人の声を、胸の底の、少しずつ違う場所に置いた。人の好いお爺さんは胸の真ん中の柔らかいところに。意地の悪いお爺さんは、喉に近い、少し尖ったところに。
声のことを、八千代は知っていた。
低い声は胸で鳴る。高い声は頭で鳴る。八千代は長いこと、胸で鳴る声の方に馴染んでいた。今の喉は頭で鳴る。どちらの声がどこで鳴って、息をどこで継いで、喉のどこを震わせれば何に聞こえるのか、なぜだか八千代は内側から知っていた。
鬼の声は、庵の鬼たちから借りた。義覚の太い笑い方で、がっはっは、今宵は月がええ。義賢の伝法な笑い方で、カカッ、踊れ踊れ、だがどいつもこいつも下手くそだねえ。
八千代は膝で拍子を取った。すってん、すってん、すってんてん。人の好いお爺さんが踊ると、鬼たちが手を叩いて喜んで瘤をきゅぽん、と取ってやる。八千代が口でその音を立てると、若い奥方の一人が噴き出した。
意地の悪いお爺さんは、下手くそに踊って、鬼たちを怒らせた。鬼たちは預かっていた瘤を、意地の悪いお爺さんの右の頬に、ぺたりと付けた。
八千代は頬をぷうと膨らませた。両の頬に、瘤が二つ。
座敷が爆笑した。池の鯉が、ぱしゃりと跳ねた。
「鬼は、嘘を見抜きます。上手に踊ろうとした者より、楽しく踊った者を好みます。鬼に好かれるのも嫌われるのも、踊る人の心ひとつ。……出雲では、そう言い伝えております」
めでたし、めでたし、と八千代は結んだ。
◇
噺の後、若い奥方の一人が、自分の侍女に、今の噺を真似してみせた。
筋は合っていた。言葉もほとんど同じだった。すってん、すってん、すってんてんもきゅぽんも。
侍女は、愛想笑いをしただけだった。
「……おかしいわ」
若い奥方は首を傾げた。
「さっきは、あんなに、おかしかったのに」
「……声どすな」
三の君が言った。扇を閉じて、膝の上に置いて。
「噺の筋やない。噺の運びでもない。お嬢はんの、声どす」
座敷が静かになった。
「京にはな、語りの名人がようけおります。琵琶法師、説経語り、辻の講釈師。うちは、小さい頃から、ようけ聞いてきました。名人の声は、稽古の声どす。何十年も、喉を潰して、鍛えて、鍛えて、出る声」
三の君は八千代を見た。古い絵巻の中から見るような目で。
「お嬢はんの声は、耳の奥の、柔らかいとこに、じかに届く。鍛えて出る声やない。持って生まれた声どす」
八千代の背筋が、少しだけ冷たくなった。
「ほんで、お嬢はんは、その声をどう使うたらええか、よう知ってはる。……十の娘が、知ってはるはずのないことまで」
また読まれている。
「祖母が、噺の上手でございましたので。見よう見まねで」
「見よう見まねで、あれが出来るんやったら」
三の君は扇を開いて、口元を隠した。
「後宮中の女が、今頃、皆、語りの名人どすなあ」
座敷に、柔らかい笑いが広がった。八千代は蛇の目で、座敷の天井を見た。黒い煙は、どこにもなかった。
◇
茶会が終わる少し前、三の君がふと、言った。
「そういえば、前の茶会の後で、うちの女房を一人、里へ帰しましたんえ」
何でもないことのような声だった。
「双子のことを、外で、あちこちで喋っとったさかい。うちの座敷で聞いたことを、うちの座敷の外へ運ぶ女房は、置いとけまへん」
「……左様で、ございますか」
「里は伊勢の方でな。鈴鹿の峠を越えて帰る途中で」
三の君は扇の陰で、少しだけ目を伏せた。
「峠の主さんに、食われはったそうどす。……断りも入れんと、急いで越えようとしはったんやろなあ」
座敷の誰も、何も言わなかった。
「ほんま、気の毒なことどした」
三の君はそれだけ言って、次の茶を点てるよう、侍女に目で合図した。
八千代は茶碗を持ったまま、表情を動かさなかった。顔に出したら、あきまへん。
峠の熱い息を思い出した。閉じた瞼の向こうの、何も見えない、途方もなく重いものを。噂を運んだ女房は、あの峠を、伏せずに越えようとしたのだ。急いで。三の君の座敷から逃げるように。
噂を流した者は、市では口を塞がれて晒される。後宮では、暇を出されて、峠で神に食われる。
どちらも誰も晒した者を責めない。食った神を恨まない。
◇
帰り際、門の前で、三の君の侍女が八千代を呼び止めた。
最初の文を届けに来た、白く塗った顔の侍女だった。前は義覚に怯えて門の中へ入らなかった女が、今日は、八千代の袖を、そっと引いた。
「……出雲のお嬢様」
侍女は周りを見回してから、小声で言った。
「最初の文に焚きしめた香は、三の君様の、いつもの香ではございませんでした」
八千代は足を止めた。
「春頃に、どなたかから頂いた香で。使うておいでになるうちに、三の君様、お顔の色が優れのうなって。夜もお眠りになれず、胸の奥が、じくじくする、と仰って。……それで先日、元の白檀にお戻しになったのでございます」
「どなたから」
「存じませぬ。わたくしも、お顔は見ておりませぬ。……ただ、香の匂いのする、お方だった、と」
侍女は八千代の袖を離した。
「どうか、三の君様には、ご内密に。……三の君様は、お優しいお方なのでございます。本当は」
侍女は頭を下げて、門の中へ戻っていった。
どこかで、百舌が鋭く鳴いた。
八千代は胸の内の帳面に、墨を濃くして書いた。
春の香。胸の奥がじくじくする香。香の匂いのするお方。
噂を運んだ女房は、峠で食われた。噂を太らせた香は、誰かが春に配った。
鼠を飼っていたのは、座敷の女たちの口だけではなかったのかもしれない。
■次回予告
・木守りの柿
・出雲からの文
・掟の外に、そっと置いてあるもの




