第一章 十八話
■前回のあらすじ
・猿は山の下に置いたまま
・二度目の茶会で「瘤取り爺」。三の君の香が変わる
・暇を出された侍女と、誰かが春に配った香
# 十八話 神無月の文
神無月に入った。
山の紅葉は、漆が一番に赤くなり、櫨が追いかけ、楓はまだ半分青かった。庵の庭の柿が色付いて、半助が竿で実を落とした。梢の一番上に三つだけ、実を残した。
「木守りだに」
半助は竿を下ろして言った。
「全部取ったら、来年なってくれん。ほんで、鳥さんの分」
田の神の弁当。竈の神のひと口。井戸の神のひと汲み。鳥の分の柿。日輪の人は、何でも少しずつ残す。全部を自分のものにしない。残した分が、来年の自分を生かすのだと知っている。
舞が産所の支度を始めた。
「産湯の盥、三つ。晒し、二十反。産着、十二枚。御子様がお二人ゆえ、全て倍に。湯を沸かす竈、増やして三つ。火桜石の手焙り。夜を徹する折の、夜食の段取り」
舞は帳面を読み上げながら、筆の尻で一つずつ印を付けていった。お二人、と舞は言った。誰ももう、隠していなかった。
「産婆は明日参ります。後宮付きの、三河一番の腕と聞いております。弟子を一人連れて、ひと月、詰めます」
◇
産み月が近付くと、庵に届け物が増えた。
安産の守り札。腹帯の晒し。干した鯉。滋養の煮豆。どれも後宮のほかの御殿からで、どれにも丁寧な添え文が付いていた。御子様方の健やかなるご誕生を、心よりお祈り申し上げます。
舞は届いた物を、一つ残らず台所の土間に並べさせた。
それから、眼鏡を押し上げて、半助を呼んだ。
半助は黙って、届け物を一つずつ検めた。煮豆の壺の蓋を開けて、匂いを嗅いで、指先で一粒潰して、舌の先にほんの少しだけ載せて、すぐに吐き出した。干した鯉の腹を小刀で割いて、中を見た。腹帯の晒しを広げて、灯石の光に透かした。
八千代は土間の隅で、それを見ていた。
半助は煮豆の壺の一つを、黙って脇へ寄せた。それから、守り札の一枚を摘まんで、竈の火に放り込んだ。札は燃えなかった。燃えずに、火の中で黒く縮れて、きいと小さく鳴いた。
竈の熾火が、ぱちりと爆ぜた。
「……七の君さまんとこの煮豆と、どこぞの札だに」
半助がぼそりと言った。
「七の君さまが入れたんじゃないら。七の君さまんとこの台所の、誰かだ。誰かに、頼まれて」
舞は帳面に何か書き付けて、眼鏡を押し上げた。
「承知いたしました。七の君様には、御礼の文をお出しいたします。たいへん美味しゅうございました、と」
八千代は舞を見た。
「……美味しゅう、と」
「後宮では、出された物を、そのまま口にする御方はおりませぬ」
舞は帳面を閉じた。
「そして、出された物に何が入っていたかを、口にする御方もおりませぬ。口にすれば、それが今度は噂になり、鼠になります。礼状だけを、丁寧に、お出しいたします。……七の君様のお台所の誰かは、礼状を読んで、震えることでございましょう」
舞の声には、怒りも怯えもなかった。茶碗の数を数える時と同じ声だった。
「舞殿は、このようなことを、何度」
「綾月様が後宮にお入りになってから、月に二度ほど」
八千代は言葉を失った。
壺を片付けていたおさよが、八千代の脇に来て、小さな声で言った。
「一の君さまの庭の、あの石な」
「……はい」
「十四のうち、ほんとに神さんに連れてかれたのが幾つか、誰も知らんだに」
おさよはそれだけ言って、壺を抱えて裏へ出ていった。
八千代は土間に立ったまま、竈の火を見ていた。
月の名だけが書かれた十四の石。七つまでは神のうち。神が連れていったことにしておけば、誰も泣かずに済む。誰も、誰かを恨まずに済む。
誰も、誰かを裁かずに済む。
八千代はその夜、帳面に書いた。後宮の届け物、半助殿と舞殿が検める。月に二度。礼状は、美味しゅうございました。
それから、書くかどうか長いこと迷って、書いた。
七つまでは神のうち。この言葉は、ここでは、もう一つの使われ方をしている。
◇
同じ日に、出雲から文が二通届いた。
一通は須賀湊からだった。摂津口から文使いが運んできた、紙の文だった。端正な、少し右肩上がりの字だった。手で書いた字は、霧を越えてもほどけない。
出雲は神在月の支度で賑わっております。大社の周りでは、夜の灯を消すための黒い布が配られ始めました。稲佐の浜には、今年も竜蛇様がお上がりになったそうです。八千代殿がおられぬ出雲に、竜蛇様だけがお越しになったことを、少しだけ、寂しく思いました。お帰りを、お待ちしております。
同じ月が、出雲では神在月と呼ばれ、日輪では神無月と呼ばれる。出雲には四方の神々が集まり、日輪からは神々が去る。そう言われている。
だが八千代は、日輪の神々が去っていないことを知っていた。
夕方縁側に出ると、庵を囲む森が、妙に静かだった。風はあった。木々の葉は揺れていた。だが揺れ方が、どこか揃っていた。どの木も、どの葉も、ほんの少しずつ、西の方へ傾いて揺れていた。烏が群れになって、西の空へ飛んでいった。戻ってこなかった。
何かが、森の奥で、動かずに、西を見ている。
八千代は蛇の目を開かなかった。開かなくても分かった。
もう一通は、父からだった。父の字ではなかった。
出雲から網で摂津口まで届いた報せを、関所の役人が一字ずつ紙に写し取ったものだった。日輪の中には網が通らない。網の端で、人の手が字に直して、文使いに託す。きちんと揃った、癖のない、几帳面な写しの字だった。だが言い回しは、間違いなく父のものだった。短かった。
後の月も過ぎ、日輪にての暮らし、恙なく候や。
宮仕えの御家中、皆々様御健勝の由、何より目出度く候。
香の具、蔵より一品、近々送り申すべく候。
毒消しの丸薬も添え候えば、水あたりの折に用うべし。
有り難き綾月様の御産のこと、承知致し候。
留まりの儀、御産の後まで、差し支えなく候。
援けとなるべく、綾月様に、よしなに。
八千代は文を二度読んだ。
あっさりしすぎていた。娘を日輪に、いつまでとも知れず置くことになるのに、一言の心配も、一言の小言もない。父は狸のような人だった。のんびりした言い回しの奥で、何を考えているのか、娘の八千代にもいつも分からなかった。
三度目に読もうとして、八千代は手を止めた。
行が、切れていた。
候文は、ふつう行を気にせずに書き流す。紙の端まで来たら次の行へ移る。それだけのものだ。だがこの写しは、一文ごとに行を改めてあった。紙の下の方がまだ空いているのに、わざわざ次の行へ移っている。写し方の須磨は、元の文の行の切れ目まで、一つも違えずに写し取っていたのだ。
それから、最初の行の頭の字の右肩に、胡麻粒ほどの小さな点が一つ打ってあった。墨の跳ねではなかった。須磨の几帳面な筆は、そんな跳ねを残さない。元の文にあった点を、そのまま写したのだ。
冠点。
八千代は息を止めた。
幼い頃、父が蔵の目録を見せながら、遊びのように教えてくれた読み方だった。頭に点を打った文は、行の頭の字だけを拾って読む。出雲の帝の筋の家に、古くから伝わる読み方だと父は言った。朝霧は帝の筋の分かれだから、お前も覚えておきなさい。いつか、表に書けないことを伝える時のために。
八千代は行の頭の字を、指でなぞった。
後。宮。香。毒。有。留。援。
後宮、香毒有り。留まりて、援けよ。
灯石の光の下で、八千代は長いこと動けなかった。
香の具を一品送る。毒消しの丸薬を添える。水あたりの折に用いよ。表の文の一つ一つが、父親が娘を案じるだけの、何でもない言葉の顔をしていた。何でもない顔のまま、裏で同じことを言っていた。
父は、香のことを知っている。
三の君の甘い香のことも、胸の奥がじくじくする香のことも、香の匂いのするお方のことも、八千代はまだ一行も出雲に書き送っていない。それなのに、出雲の父は、もう知っている。誰から聞いたのか。早織か。早織の、そのまた向こうの誰かか。
そして父は、娘に、帰ってこいとは書かなかった。
留まれ、と書いた。援けよ、と書いた。
八千代は、父が若い頃、何度か西京まで足を運んだことがあるのを思い出した。朝霧の家業で、日輪の古い社の宝物を見せてもらいに行ったのだと、子供の頃に聞いた。西京の寺の鐘の音や、鴨川の夕暮れの話を、父は楽しそうにしていた。三河より東のことは、一度も話さなかった。
父は、日輪を知っている。少なくとも、西京までは。知っていて、娘をここに置くと決めたのだ。
売られた、という言葉が頭をよぎった。八千代はそれを、行灯の石の光の外へ押しやった。
違う。父は狸だが、娘を売る狸ではない。娘にしかできないことがあると見て、娘に任せたのだ。……そう思うことにした。今は。
帰るはずだったひと月は、とうに過ぎていた。綾月様の御産を見届けるまで、と八千代は朝霧の家に文で願い出ていた。その返事がこれだった。
帰る日は、父の短い文の中に、あっさりと消えた。
文の終わりに、写した者の名が小さく添えてあった。右、出雲より網にて着きし文、摂津口写し方、須磨、謹みて写し奉る。
その脇に、もう一行、別の手で書き添えてあった。墨の濃い、少し右に流れる、年季の入った手だった。
先の花の娘、尾張の祝人の村へ貰われ候。母御、藩のお裁きにて所払いの上、同じ村の外れに住まうこと許され候。御安心あるべく候。摂津口関守、梅小路道直。
八千代は、その一行を三度読んだ。
摂津口の、窓のない小部屋の、京言葉の役人だった。名を聞いていなかった。関守、と書いてあった。あの関所の一番上に座っている人だったのだ。
あの人は、八千代の顔を覚えていた。襖の向こうを見てしまった時の八千代の顔を。顔に出したらあきまへん、と言った、その当の顔を。
覚えていて、わざわざ一行を書き添えた。
優しさなのか、何かを量っているのか、八千代には分からなかった。分からなかったが、花の咲く子の母が、娘の近くに住めることになったのは、本当なのだろうと思った。掟は曲がっていない。母は所払いになった。ただ、払われた先が、娘のいる村の外れだった。
掟の外に、そっと置いてある。
八千代は文を畳んで、懐にしまった。
◇
その夜、八千代は書斎で、父と母に返事を書いた。
父への文は短くした。一文ごとに行を改めて、最初の行の頭の字の右肩に、胡麻粒ほどの点を一つ打った。
承り候、香の具のこと。
知らせの品、心待ちに候。
仕える所存、御産を見届けたく候。
承知仕る。
写し方の須磨が、この点まで写してくれることを、八千代は祈った。それから、行の切れ目のない、ただの娘の文に見えるように、末尾に一行だけ足した。関守殿にも、よしなに。
母への文は、長くなった。
書くつもりのなかったことまで、筆が書いた。
母上様。日輪に参りまして、ひと月と少しが経ちました。こちらでは、神様のことを、出雲とはまるで違うふうに考えております。
出雲では、神様は、大社の大国主様と約定を結んでおいでです。約定があるから、神様は滅多にお姿を見せず、お動きにならず、社の奥で静かに祀られておいでです。その代わり、わたくしたちは、毎朝の御饌も、神在月のしきたりも、季節ごとのお礼も、決して忘れません。忘れないことが、約定の、人の側の務めだからでございます。
出雲の人は、大きな大家様と約定を交わした長屋の住人のようなものだと、わたくしは思いました。家賃を納めて、決まりを守っていれば、壁一枚向こうに神様がお住まいでも、安心して眠ることができます。お隣同士でございます。
日輪には、その約定がございません。
日輪の山も、森も、川も、沢も、井戸も、竈も、厠も、みな神様のものでございます。人は、その隙間に、軒先を借りて住んでおります。大家様と隣人ではなく、大きな家の床下を借りている鼠のようでございます。家主様は、店子と鼠の区別をおつけになりません。祟りを嫌って家主様がお動きになる時、鼠は、祟りと一緒に潰されます。
ですから日輪の人は、毎日、小さなしきたりを欠かしません。井戸を二度叩き、竈にひと口を供え、厠の前で咳払いをいたします。家主様を起こさぬように。床下に、悪いものを湧かせぬように。
出雲の神様は、約定の内側におられます。日輪の神様は、何の内側にもおられません。
同じ神様という言葉を使っても、出雲の人が思い浮かべるものと、日輪の人が思い浮かべるものは、まるで違うのだと思います。出雲の人にとって、神様は敬う隣人でございます。日輪の人にとって、神様は、敬いながら、決して目を合わせてはならない家主様でございます。
どちらが正しいということはないのだと思います。ただ、わたくしは、出雲に生まれたので、神様が隣人であることを、当たり前のように思っておりました。当たり前だと思っていたことが、どれほど大きな約定の上に乗っていたのか、日輪に来て初めて知りました。
出雲に帰りましたら、大社にお参りして、竜蛇様に、いつもより丁寧にお礼を申し上げようと思います。
母上様も、どうぞ、お健やかに。
八千代は筆を置いて、書いたものを読み返した。
長すぎた。母は笑うだろう。父は、きっと黙って二度読む。
それでも書き直さなかった。
帳面にも、同じことを短く書いた。
出雲の神は、約定の内の隣人。日輪の神は、約定の外の家主。出雲の人は長屋の住人。日輪の人は床下の鼠。
書いてから、少し考えて、一行足した。
ただし、鼠は、鼠なりに、床下の暮らし方を知っている。千年かけて。
■次回予告
・三河一番の産婆
・日輪では生まれた日を祝わない
・噺帳 一




