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日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
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第一章 十九話

■これまでのあらすじ

・神無月。産の支度と、増えていく届け物

・出雲から湊と父の文。関守の書き添えで、花の咲く子のその後を知る

・父への返事。鼠は鼠なりに、床下の暮らし方を知っている


# 十九話 十四本の野菊


 産婆は、八千代(やちよ)より頭ひとつ小さい老婆だった。


 腰がくの字に曲がって、白髪を手拭いで包み、顔は干し柿のように皺(しわ)だらけだった。歯は数えたら三本しかなかった。だが手だけが、木の根のように大きかった。その手で、五十年、三河(みかわ)の貴人の子を取り上げてきたのだという。お種(おたね)と名乗った。


「あんたが、出雲の嬢さまかね」


 お種は八千代を見上げて、歯の三本の口で笑った。


「噺(はなし)の、上手な嬢さまだら。後宮(こうきゅう)中、あんたの声の話でもちきりだに。……ほうほう。ええ声だのん」


「恐れ入ります」


「ええ声は、赤子がよう聞くだに。産の時は、あんたも手伝いりん。湯を運ぶだけが手伝いじゃない。声をかけるのも、手伝いだに」


 お種の後ろに、娘が一人立っていた。


 十五か十六くらいの、色白で面長の娘だった。睫毛(まつげ)が長くて、髪をうなじで一つに結んでいる。色の褪(あ)せた萩(はぎ)色の小袖を着ていた。八千代が一度目の茶会で着たのと、よく似た色だった。


「小萩(こはぎ)、と申します」


 娘は目を伏せたまま、頭を下げた。


「お種さまの下で、産を学んどります。……どうぞ、お頼みしますでよ」


 尾張(おわり)の言葉だった。


 小萩が八千代の脇をすれ違った時ふと匂いがした。


 甘くて、重くて、湿った匂いだった。


 どこかで嗅いだ、と八千代は思った。思い出す前に、小萩はもう庵(いおり)の奥へ入っていってしまった。後宮の廊下のどこかで移った香だろう、と八千代は思うことにした。


 その時は。


◇


 お種は、綾月(あやつき)の腹を、木の根のような手でゆっくりと撫(な)でた。


 長い時間をかけて、右から左へ、上から下へ。目を閉じて、何かを聞くように。


「……一人は、頭が下だに。ええ子だ」


 お種の手が、腹の左の方で止まった。


「……こっちは、横を向いとるのん。頑固な子だ。兄さまだか姉さまだか知らんけど、先に行け、先に行け、って、自分は横でふんぞり返っとる」


 お種は歯の三本の口で笑った。


「背中合わせだに。仲が悪いんじゃない。背中を、預け合っとるだけ。どっちも、自分の後ろは片割れが見とる、って分かっとるだに」


 綾月が、腹の上に手を置いた。お種の手の、すぐ隣に。


「産み月は」


「早けりゃ神無月の末。遅くても霜月の頭。双子は、早いだに」


 それからお種は、綾月の顔を見上げた。


「鬼姫さま」


 綾月を面と向かって鬼姫と呼ぶ者を、八千代は初めて見た。あやめが眉を上げかけて、やめた。


「あんたの力は、産の時、漏れるだら」


「……漏れる」


 綾月は言った。


「分からん。産んだことがない」


「ほうか。正直だのん」


 お種は綾月の腹から手を離して、膝の上で組んだ。


「わしは五十年、取り上げてきた。火ぃ吹く赤子も、産声で障子を破る赤子も、取り上げた。……どっか行ってまった赤子も、おった」


「……どこへ」


 八千代は思わず訊(き)いていた。


「山へ」


 お種はあっさりと言った。


「神さんが、呼んだだに。生まれて、半刻もせんうちに。母親の腕ん中から、障子の隙間から、山の方へ。……すうっと、な。目の前で」


 八千代は息を止めた。


「母親は泣いた。けど、恨まなんだ。七つまでは、神のうち、だに」


 一の君(いちのきみ)の庭の、月の名だけが書かれた十四の石が、八千代の頭に浮かんだ。


「日輪(にちりん)の母親は、子が七つになるまで、泣かん。泣いたら、神さんに未練が見えるもんで。未練が見えると、神さんは、その子が人の方に惜しまれとるのを知って、余計に、連れていく」


 お種は窓の外の、森の方を見た。


「ほんで、神無月の産は、難しいだに」


「なぜ、でございますか」


「日輪の神さんは、どこへも行かれん」


 お種は言った。


「行かんのじゃない。行かれん。大結界ん中に籠められとるもんで。出雲の神さんらは、この月、大社(たいしゃ)に集まって、楽しゅうやっとる。日輪の神さんは、それを、こっから、じいっと見とる。西の方ばっか見とる。行かれん方を、見とる。毎年、毎年」


 八千代は、西へ揺れる森の葉と、西へ飛んで戻らなかった烏(からす)の群れを思い出した。


「この月だけは、神さんらの機嫌が悪い。機嫌の悪い神さんが、じいっと見とる中で、柔らかい、生まれたての命の匂いがしたら」


 お種はそこで言葉を切った。


「……来たら、追い返す」


 綾月が言った。


「神さんは、殴れんだに」


「知っている」


 綾月は言った。


「だから、追い返す」


◇


 お種は、もう一つ、言った。


 それは綾月にではなく、廊下で八千代を呼び止めて、二人きりの時に言った。


「嬢さま。産の晩には、門のとこに、白い狩衣のお人が来なさる。局のお人だに」


「……送り手、でございますね」


「知っとったか」


 お種は少しだけ目を細めた。


「産で死んだ女はな、ほっとくと、うぶめになるだに。子を抱かせてくれ、子を抱かせてくれ、ゆうて、夜道で通る者に、血まみれの赤子を押し付けてくる。押し付けられた者は、腕から赤子が離れんようになって、そのうち、その重さで、死ぬ」


 お種の声は、淡々としていた。


「並の女でも、そうなることがある。鬼姫さまほどの力のお人が、産で死んで、うぶめになったら」


 お種は首を横に振った。


「三河が、のうなる。……だで、局は、送り手を寄越す。鬼姫さまが息を引き取りなさったら、すぐに、送る。赤子が、腹の中に残っとっても」


 八千代は返事ができなかった。


「鬼姫さまは、知っておいでだ。知っとって、追い返さん。そういうお方だに」


 お種は八千代の手を、木の根のような手で握った。


「わしは、送り手のお人に、仕事をさせんつもりだ。五十年、一遍も、させとらん。……嬢さまも、手伝いりん。声で」


◇


 小萩は、物静かによく働く娘だった。


 盥(たらい)を洗い、晒(さら)しを干し、湯を沸かし、お種の言いつけを一度で覚えて、二度と同じことを訊(き)かなかった。だが誰とも目を合わせなかった。義覚(ぎかく)が庭を通ると、体を固くして、壁際に寄った。


 夜の噺の時、小萩は居間の一番隅に座って、膝に顔を埋めていた。その晩は、おさよにせがまれて、八千代が猿の噺を頭から語り直した晩だった。


 猿が七十二の化け術を覚えるところで、小萩の顔が少しだけ上がった。猿が鉄の柱を耳に仕舞うところで、小萩は、くすっと笑って、慌てて袖で口を押さえた。


 それから一瞬だけ、泣きそうな顔をした。


 次の日の昼、八千代は井戸端で、小萩が晒しを洗いながら、何か呟(つぶや)いているのを聞いた。


「……一万三千五百斤の、鉄の柱でございます。猿は、その柱を、縫い針ほどに縮めて、耳の穴に仕舞いました」


 昨夜の噺だった。一度聞いただけの噺を、小萩は一言一句、正確になぞっていた。言葉も、間の取り方も、ほとんど八千代と同じだった。


 だが同じにはならなかった。


「……違う」


 小萩は手を止めて、盥の水を見下ろした。


「同じ、言うとるのに。……違うがや。あの人の声は、なんで、あんなに」


 盥の水面に、小萩の顔が映っていた。小萩は長いこと、その顔を見ていた。


 八千代は井戸の陰から、そっと離れた。


 誇らしいとは思わなかった。申し訳ないような気がした。小萩がどれほど上手になぞっても届かないものを、八千代は稽古もせずに、遠つ世(とおつよ)から持ち越してきただけだった。


 その夜、帳面に書いた。


 小萩殿、猿の噺を一度で覚える。賢い娘。何かを抱えている娘。


 少し迷って、書き足した。


 甘い匂い。


◇


 神無月の半ばの朝、舞が八千代を台所の隅に呼んだ。


「八千代様。日輪では、生まれた日は祝いませぬ」


 舞は眼鏡を押し上げて、声を低くした。


「年は皆、正月に一つずつ取ります。生まれた日は、何でもない日でございます。斎宮(さいぐう)のお家では、むしろ、口にせぬ日でございました」


「……左様で、ございますか」


「ですが、綾月様の生まれた日に何かあったのは、出雲においでの時だけでございます。お戻りになってから、その話を、それはそれは嬉(うれ)しそうになさいました。……一度だけ」


 舞は台所の窓から、庵の奥の方を見た。


「今朝、綾月様は、夜明け前から天井をご覧になっておいででした。何かを、お待ちになっているように」


 八千代は舞の顔を見た。舞は表情を変えなかった。


「半助(はんすけ)」


 舞は振り向かずに言った。


「牛の乳を、手に入れて参りなさい。昼までに」


 半助は何も訊かずに、草鞋(わらじ)を履いて出ていった。


◇


 焼き菓子を作った。


 日輪の卵は小さくて、黄身が濃い橙色(だいだいいろ)だった。粉は米を石臼で挽(ひ)いたもので、出雲の小麦の粉より粗くて香ばしかった。半助が手に入れてきた牛の乳は、濃くて甘かった。砂糖の代わりに、甘葛の蜜を使った。蔦(つた)の汁を煮詰めた、琥珀(こはく)色のとろりとした蜜だった。それから半助が、どこからか小さな壺(つぼ)に一つ、蜂蜜を手に入れてきた。どこから、とは言わなかった。


 窯がなかった。半助が鉄鍋を竈(かまど)にかけ、蓋の上に熾火(おきび)を載せた。


「上と下から焼けばええだら。団子の蒸し焼きと同じだに」


 八千代は竈の前にしゃがみ込んで、柱の棚の札に向かって、小さく手を合わせた。


「今日は、どうか、焦がさぬよう。……今宵、噺を、ひとつ多めにいたしますゆえ」


 半助が鼻を鳴らして笑った。


 焦げなかった。蓋を開けると、きつね色にふっくらと膨らんだ焼き菓子から、甘い湯気が立ち上った。竈の熾火が、ひときわ明るく、ぱちりと爆ぜた。


 日輪の蝋燭(ろうそく)は、神事のためのものだった。誕生の祝いに灯すわけにはいかなかった。八千代は庭の隅から野菊を摘んできて、焼き菓子の縁に、一本ずつ挿していった。


 十四本。


◇


 夕餉(ゆうげ)の後、八千代は焼き菓子を盆に載せて、居間へ運んだ。


 綾月は脇息にもたれて、八千代が入ってくるのを見ていた。盆の上を見て、目が止まった。野菊の数を、数えているのが分かった。


「……十四」


「はい」


「数えたのか」


「数えました」


 八千代は盆を綾月の前に置いた。


「蝋燭の代わりに、野菊を。火は吹き消せませぬが、その代わり、吹いても、消えませぬ」


 綾月は野菊を見ていた。長いこと。


「……出雲の時は、火だった」


「はい」


「十二本。吹いて消せと言われた」


 綾月の口の端が、ほんの少しだけ動いた。


「吹いたら、火が十二本とも、私の方へ寄ってきた。前髪が焦げた。焦げたので、皿ごと伏せた」


「……伏せて、おしまいになりました」


「お前は、笑った。千鶴(ちづる)殿も、笑った」


 千鶴(ちづる)は八千代の母だった。あの日、焼き菓子を焼いたのは母だった。


「それから、お前が、言った」


 綾月は八千代を見た。


「……何と言ったか、覚えているか」


 八千代は覚えていた。出雲では、生まれた日に誰にでも言う言葉だった。誰にでも言う、何でもない言葉だった。


「お生まれになって、ようございました」


 八千代は言った。


 あの時と同じ言葉を。あの時とは違う声で。


 綾月は何も言わなかった。


 あやめが、袖で目元を押さえた。舞が眼鏡を外した。半助が、勝手口で背を向けた。おさよだけが、何が起きているのか分からない顔で、きょろきょろしていた。


 八千代は、出雲の誕生の歌を歌った。同じ節を四度繰り返す、短い歌だった。三度目のところに名を入れる。八千代は、出雲で八千代だけが使っていた呼び方を入れた。


 あやちゃん。


 歌い終わって、八千代は盆を少しだけ綾月の方へ押した。


「どうぞ。吹いてくださいませ」


 綾月は野菊を見て、それからふう、と吹いた。


 野菊が揺れた。十四本とも、揺れて、消えなかった。


 綾月が、声を上げて笑った。


 八千代は、綾月が声を出して笑うのを、出雲の中庭以来、初めて聞いた。


「……消えんぞ」


「消えませぬ」


「お前が、消えんと言ったからな」


 綾月は野菊を一本抜いて、少し眺めて、自分の下ろした髪に挿した。それから焼き菓子をちぎって口に入れた。


「……甘い」


 もう一口。


「うまい。出雲の時より、うまい」


「出雲の時は、わたくしは、ほとんど見ていただけでございましたので」


「見ていただけにしては、うまかった」


 綾月は焼き菓子を半分に割って、半分を八千代の手に載せた。


「食え」


「綾月様のお祝いでございます」


「私の祝いだ。私がどう食おうと、私の勝手だ。……お前と、半分こだ」


 八千代は焼き菓子を口に入れた。米の粉の香ばしさと、卵の濃さと、甘葛の蜜の甘さと、それから、どこか知らない山の花の匂いのする蜂蜜。


「……でら、美味しゅうございます」


 言ってから、八千代は固まった。


 綾月の目が、ゆっくりと八千代の方を向いた。


「でら、と言ったな。今」


「……申して、おりませぬ」


「言った」


「空耳にございます」


「私の耳は、よく聞こえる」


「でら、だって!」


 おさよが叫んだ。


「八千代さま、でら、って! 半助さんの口癖が移っとるじゃん!」


 半助が肩を震わせながら、勝手口から外へ出ていった。綾月がもう一度声を上げて笑って、その笑い声と一緒に、障子がかたかたと鳴った。八千代の体が、綾月の方へ、ずるりと引き寄せられた。


 あやめが笑い涙を拭きながら、言った。


「……漏れておりますよ」


◇


 焼き菓子の後、八千代は懐から帳面を一冊取り出した。


 表紙に、八千代の字で、こう書いてあった。噺帳 一。その下に、少し小さく、綾月様へ。


 中には、鼠(ねずみ)の嫁入りと、瘤(こぶ)取り爺(じい)と、笠(かさ)地蔵と、それから猿の噺が、山の下に籠められるところまで書いてあった。全部手で書いた。最初の頁(ページ)にだけ、もう一行、書き添えてあった。御子様方が、お読みになれる日まで。


「御子への帳面か」


 綾月が言った。


「綾月様へ、でございます。御子様方がご自分でお読みになれるようになるまで、綾月様がお預かりくださいませ」


 八千代は帳面を綾月の膝の上に置いた。


「日輪では、刷った字がほどけると、西京の宿で知りました。ですから、手で書きました。御子様方が字をお読みになれるようになった時に、わたくしがおそばにいるとは、限りませぬので」


 綾月は帳面を開いた。一枚目。むかしむかし、ある山の、大きな木の根元の、小さな穴に、鼠の親子が住んでおりました。


 綾月は長いこと、その一行を見ていた。


「……そばに、いろ」


 低い声だった。


「読めるようになるまで。そばにいて、自分で、読んでやれ」


「綾月様」


「帳面は預かる。だが、お前が読め」


 腹の上に置いた帳面が、内側から、ぽこりと跳ねた。


 綾月は帳面を押さえて、腹を見下ろした。


「……ほらな。聞きたがっている」


■次回のあらすじ

・近付く鹿の声

・産屋と、門の外の白い狩衣

・噺を止めたら、かん

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