第一章 第二十話
■これまでのあらすじ
・産婆のお種と弟子の小萩が来る。うぶめの話
・神無月半ば、綾月の生まれた日に焼き菓子と野菊十四本
・噺帳の一冊目。腹の中から、ぽこりと返事
# 第二十話 時雨の夜
綾月の生まれた日を境に、鹿の声が、毎晩近くなった。
最初は山の奥だった。次の晩は山の中腹から。その次は麓。それから、庵の裏の森から。ぴいいいい、と細く高く長く。
「……今年は、主さんの声が、よう聞こえるのん」
お種が、縁側で森の方を見ながら言った。
「砥鹿の主さんだに。三河で一番高い山の、主さん。産の近い家の近くで、よう鳴くだに。赤子の気配が、好きなんだら。生まれたての、柔らかい、命の匂いが」
「お種殿は、ご覧になったことが」
「一遍だけ、ある」
お種は森を見たまま、言った。
「若い頃にな。遠くから。……何を見たのかは、よう言えん。言葉にしようとすると、何も残っとらんだに」
それから、少し黙った。
「見たのは、ほんの一瞬だに。見たで、わしは、子が産めん体になった。誰ぞに、そう決められたわけじゃない。けど、そうなった」
八千代は返事ができなかった。
「だで、わしは、人の子を取り上げとる。五十年。……見たら、かんよ、嬢さま。何があっても」
その晩鹿は庵のすぐ裏で鳴いた。
障子がびり、と震えた。
八千代は布団の中で、目を固く閉じていた。瞼の奥で蛇の目が疼いた。開けば、森の向こうの何かと、目が合ってしまう気がした。
開かなかった。
◇
神無月の末、時雨が来た。
冬のはじまりの雨だった。降ったかと思うと止み、止んだかと思うとまた降る。山の紅葉が雨に濡れて色を深くし、庭の柿の梢に残した木守りの三つが、灰色の空の下で、灯のように朱く灯っていた。
夕暮れ、八千代は書斎で、噺帳の二冊目に猿の続きを書いていた。
庵が鳴った。
柱が、梁が、床が、一斉に、みしり、と。文机の上の灯石が、ころりと転がって、文机の縁で止まった。転がった方角は、綾月の寝所の方だった。
これまでの漏れとは違った。強くて、重くて、止まらなかった。
廊下に飛び出すと、舞と出くわした。舞の眼鏡がずれていた。八千代は、舞の眼鏡がずれているのを、初めて見た。
「八千代様」
舞は眼鏡を直さずに言った。
「始まりました」
◇
綾月の寝所が、そのまま産屋になった。
床には新しい藁が厚く敷かれ、その上に白い布が掛けられた。梁から白い綱が一本垂らされた。いきむ時に握るための綱だった。枕元には鞘に納めたままの刀が一振り、魔除けに置かれた。部屋の四隅に、盛り塩。障子の外の廊下に、灯石が並べられた。
台所では、三つの竈に一度に火が入った。半助が三つの竈の前に、一つずつ素焼きの小皿を置いた。飯と塩と酒。
「……頼むだに」
半助が手を合わせると、三つの竈の火が、一斉に倍の高さに立ち上った。熾火が爆ぜて、火の粉が三つに分かれて、竈の奥へ散った。
半助は少しだけ笑った。
「……でら、張り切っとる」
それから深く、頭を下げた。
◇
門の外に、人が来ていた。
白い狩衣の男だった。若くはなく、年寄りでもない。手には何も持っていない。時雨に濡れるのも構わずに、門の脇の、灯石の明かりがぎりぎり届かないところに、黙って立っていた。
六条河原で、娘の額に掌を当てた男と、同じ装束だった。同じ男ではなかったが、同じ立ち方をしていた。
男の後ろに、藍の胴着の奉行所の防人が十人、庵の塀を囲むように散っていた。槍を立てて、森の方を向いて。誰も庵の方を見なかった。
送り手は、庵の方だけを見ていた。
義覚が、手斧を両手に一本ずつ提げて、門の内側に立った。送り手と義覚は、門を挟んで、互いに一度だけ礼をした。それきり、どちらも動かなかった。
八千代は廊下の端から、それを見ていた。
膝が震えた。震えを止めて、産屋の方へ向き直った。
◇
産屋の中には、お種と、小萩と、あやめと、義賢が入った。舞は産屋と台所の間を行き来した。おさよは湯を運ぶ役で、勝手口と廊下の間を走った。
八千代は、産屋の障子の前の廊下に、座らされた。
「嬢さまは、ここだに」
お種が障子を細く開けて、言った。
「ここに座っとりん。ほんで、声をかけりん。噺だに」
「噺を」
「鬼姫さまは、あんたの声を聞いとる時が、一番、力が落ち着いとる。わしは、ひと月、見とった」
お種は木の根のような手で、八千代の肩を掴んだ。
「産の痛みで、鬼姫さまの力が暴れたら、わしらは中で、ぺしゃんこだに。赤子も、ぺしゃんこだ。……噺を、止めたら、かん。一晩中でも、二晩中でも。あんたの声が、鬼姫さまの綱だに」
障子が閉まった。
八千代は、障子の前に正座した。灯石の白い光が、障子に八千代の影を映していた。
息を吸った。声を胸と頭のちょうど真ん中に置いた。
「……綾月様。八千代でございます」
障子の向こうで、荒い息が一度止まった。
「噺の、続きをいたします」
「……遅い」
掠れた声が返ってきた。
「猿は、どうなった」
「猿は、山の下で、五百年」
八千代は語り始めた。
「頭と手だけを外に出して、鉄の玉を食べ、銅の汁を飲んで。……さて。五百年も経つうちに、猿の頭の上には、苔が生え、草が生え、それから、小さな、小さな花が、咲くようになりました」
◇
夜が更けていった。
時雨が来ては去り、止むたびに、森の奥で鹿が鳴いた。
八千代は、猿の頭の上の噺を続けた。遠つ世の本には、どこにも書いていない噺だった。その場で、作った。
猿の頭の上の花に、小鳥が巣を作った噺。猿は小鳥を追い払えずに一年首を動かさずに過ごした。小鳥の雛が巣立つ日に、猿は五百年で初めて、少しだけ泣いた。
山の麓を通りかかった旅の子供が、猿の前に、桃を一つ置いていった噺。猿は手を伸ばしたが、届かなかった。桃は腐って、種になって、芽を出して、何年もかかって、猿の手の届くところまで枝を伸ばした。
山の狐が毎晩猿をからかいに来た噺。狐は猿の頭の上の花を齧って、猿はそれを止められなかった。だが狐は花の根だけは、一度も齧らなかった。
障子の向こうで、綾月は、一度も声を上げなかった。
呻きもしなかった。痛みが来るたびに、歯の隙間から長く細く息を吐いた。
そのたびに、庵が鳴った。
床が沈んだ。八千代の座っている廊下の板が、ほんのわずかに、産屋の方へ傾いた。庭の砂利が、庵の方へ寄ってきた。障子が内側から押されて、弓なりにたわんだ。たわんで、破れなかった。
八千代は、噺の句と句の間に、御目、借り奉る、と一息で挟んで、噺を続けながら、蛇の目を開いた。
人は見ない。綾月は見ない。床を見た。床は物だった。床の下の土も、物だった。
見えた。
床の下の土が、沈んでいた。一寸、二寸、三寸。痛みが来るたびに、まっすぐ真下へ、押し込まれていた。
綾月は、溢れ出そうとする力を全部真下へ叩き込んでいた。
産屋の中のお種にも、小萩にも、あやめにも、義賢にも、廊下の八千代にも、腹の中の二人にも当たらないように。誰もいない、地の底へ。何度も。何度も。
どれほどの力なのか、八千代には量れなかった。量れないほど大きなものを、量れないほど細かく全部下へ向けていた。
「……狐は、花の根だけは、齧りませんでした」
八千代は語り続けた。
「齧れば、来年、花が咲かなくなるからでございます。狐は、猿をからかうのが好きでした。来年も、からかいに来たかったのでございます」
障子の向こうで、綾月が、ふっと、息だけで笑った気がした。
◇
「喉、嗄れてきてるよ」
障子が細く開いて、義賢が顔を出した。
手に小さな水瓶を持っていた。中の水が、ほのかに光っていた。酒の匂いがした。
「あたしの水だ。噺の合間に、ひと口ずつ飲みな。ひと口ずつだよ。一遍に飲んだら、あんたが酔う」
八千代は、狐が花を齧る台詞のついでに、水瓶を受け取った。狐の声のまま、ひと口飲んで、狐の声のまま、言った。
「……ありがとう、存じます」
義賢は、カカッと小さく笑って、それから真顔になった。
「外。見てごらん」
八千代は蛇の目で、庵の外を見た。
土塀の上に、鼠がいた。
何百匹も。土塀の根元から、土塀の上まで、黒い煙の鼠が、びっしりと張り付いていた。いつもの晩の十倍二十倍の数だった。
鼠たちは、齧っていなかった。
一匹残らず、こちらを向いていた。八千代の方を。耳を立てて。
「今夜は、でかいのが湧いてる」
義賢は低い声で言った。
「後宮中が、今夜、産が始まったって知ってるのさ。ひそひそ、ひそひそ。ふたつ、ふたつ、わる、わる、ってね。……あんたの噺が止まったら」
義賢は最後まで言わなかった。
八千代は水瓶を義賢に返して、前を向いた。
「猿が山の下に籠められて、五百年目の、最後の年のことでございました」
鼠たちが、耳を立てたまま、じっとしていた。
◇
夜半を過ぎた頃だった。
「……出てくるだに!」
お種の声が、障子越しに響いた。
「鬼姫さま、いきみりん! 綱、握りりん! ほれ、今だ!」
庵がめきり、と鳴った。
床が一寸沈んだ。廊下の八千代の体が、産屋の方へ、ずるりと滑った。庭の砂利が波打った。土塀の上の鼠たちが、ぱらぱらと何匹か、土塀から転げ落ちた。
八千代は声を張った。
「その年の、春のことでございました。山の麓の道を、一人の、旅の僧が、通りかかりました」
その時、産声が上がった。
高くはなかった。低く鋭く何かを断ち切るような、短い声だった。
八千代の声が、止まった。止めるつもりはなかった。止まってしまった。
「男の子だに!」
お種の声だった。
「元気な男の子だ! ほれ、見りん、鬼姫さま。でら、ええ声で泣いとる!」
障子の向こうで、あやめが声を殺して泣いているのが分かった。義賢が、笑いながら鼻を啜っているのも。
お二人とも、お元気ですよ。
遠つ世の、白い廊下の声が、耳の奥で聞こえた。
膝から力が抜けかけた、その時だった。
■次回のあらすじ
・胸の奥を引く糸
・「猿は、出られます!」
・霜の足跡




