第一章 第二十一話
■これまでのあらすじ
・鹿の声が毎晩近付く
・時雨の夕暮れ、産が始まる。門の外に送り手
・噺を止めない八千代。夜半、何かがおかしい
# 第二十一話 二つの産声
八千代の体が、跳ねた。
胸の奥を、何かに掴まれた。掴まれて、引っ張られた。引き千切られそうだった。
痛かった。体の痛みではなかった。もっと奥の、自分というものの、根元の痛みだった。
八千代は胸を押さえて、廊下に手をついた。
何が引っ張られているのか、八千代には見えなかった。蛇の目は、人の縁を見ない。自分の胸の内側も、見ない。ただ引っ張られている方角だけが分かった。
産屋の中。
まだ生まれていない、二人目の方へ。
二人目と、八千代とが、同じ一本の何かで括られて、同じ方へ、引かれている。
匂いがした。
甘くて、重くて、湿った匂い。
三の君の最初の文の香だった。小萩が庵に来た日に、すれ違いざまに嗅いだ匂いだった。
障子が開いた。
小萩が、空の盥を抱えて出てきた。湯を汲みに行くところだった。顔が紙のように白かった。
甘い匂いは、小萩の袂からしていた。
八千代は蛇の目を、小萩の袂に向けた。人は見ない。袂の中の、物を見た。
紙が一枚、入っていた。
細長い、黒ずんだ和紙だった。字が書いてあった。日輪の字でも、出雲の字でもない。蔓がねじれて絡み合ったような、見たこともない字だった。
紙の来歴が読めた。
薄暗い部屋で、香の煙の中で、白い指がその字を書いていた。顔は見えなかった。紙は書いた者の顔を見ていなかった。ただ紙は自分が何のために書かれたのかを、知っていた。
片割れを断つ。
双子の一人が生まれた時に、残った方の縁を断つ。
この紙は今それをしていた。生まれたばかりの男の子の片割れを、まだ腹の中にいる二人目を、断とうとしていた。
それから、この体に二つの糸を持つ八千代のことも、片割れの一つとして、一緒に。
◇
八千代は立ち上がった。
小萩の前に出た。小萩が盥を抱えたまま、目を見開いた。
八千代は小萩の手首を取った。掴んだのではなかった。小萩の手首が動こうとする流れに、そっと自分の手を添えた。七つの時から出雲で仕込まれた合気だった。流れに添えて、流れの先を、ほんの少しだけ下へ。
小萩の膝が、すとんと折れた。
盥がからんと廊下に落ちた。
小萩は廊下に膝をついたまま、八千代を見上げていた。その目に、恐れがあった。絶望があった。それから、ほんの少しだけ、安堵があった。
八千代は声を上げなかった。
綾月に知れたら、何が起きるか分からなかった。今この瞬間に、綾月の力が、真下ではなく、横へ向いたら。
代わりに、八千代は噺の声を張った。
「旅の僧は、山の麓で、頭と手だけを出した猿に、出会いました」
障子の向こうで、綾月の荒い息が、少しだけ緩んだ。土塀の上で、転げ落ちかけていた鼠たちが、止まった。
八千代は猿の声を、頭の一番上に置いた。
「お坊さま、お坊さま。どうか、わしを、ここから出してくだされ」
語りながら、八千代は目だけで、障子の隙間を見た。
隙間の向こうに、義賢の金色の目があった。
八千代は目で、小萩の袂を示した。それから、自分の胸を。
義賢の目が、すうっと冴えた。
「わしは、五百年、ここにおった。五百年、反省した。もう悪さはせん。お坊さまを、西の果てまで、お守りいたします」
障子が音もなく開いて、義賢が出てきた。
足音一つ立てずに小萩の脇に屈み込んで、袂に手を入れて、紙を抜いた。
義賢は紙を、腰の煙管の火にかざした。
紙が燃えた。青い冷たい火だった。紙は燃えながら、生き物のように身をよじった。蔓のような字が、火の中でのたうった。甘い匂いが、廊下いっぱいに溢れた。
八千代は胸の痛みに歯を食いしばりながら、語った。
「僧は、山を見上げました。山の頂に、一枚の、古い、古い、札が、貼られておりました」
胸の奥の引っ張られる力が、最後に一度強く強く引いた。
産屋の中で、生まれたばかりの男の子が、ぎゃあっ、とひときわ鋭く泣いた。
ぷつり、と。
胸の奥で、何かが切れた。
引っ張る力が、消えた。
義賢の手の中で紙が灰になって崩れた。
札が燃え尽きたから切れたのか。男の子が泣いたから切れたのか。八千代には、分からなかった。
◇
「……言われて」
小萩が、廊下に膝をついたまま、震える声で言った。
「言われたでよ……これを、袂に入れとけって……入れとかんと、弟が……」
「後だ」
義賢が言った。
「話は後で、たっぷり聞く。今は泣くな」
義賢は灰を足で廊下の隅に寄せて、小萩の顔を覗き込んだ。
「湯を汲んでこい。熱いのを。お種婆さんが待ってる。……もう一人、出てくるんだよ。あんたの手が、要る」
小萩は義賢を見上げた。
「あんたは、産婆の弟子だろ」
義賢は落ちた盥を拾って、小萩の手に押し付けた。
「泣くのは後。全部、終わってから。あたしが付き合ってやる。酒でも飲みながら」
小萩は袖で顔を拭った。
それから盥を抱えて、立ち上がって、台所の方へ走っていった。走る足取りは、来た時より、ずっと確かだった。
義賢は八千代を見た。量るような目だった。
「……姐さんには、全部終わってから、あたしが話す」
それだけ言って、義賢は産屋に戻っていった。
八千代は胸を押さえたまま、障子の前に座り直した。胸の奥に、切れた跡が残っていた。痛くはなかった。ただひやりと、そこだけ冷たかった。
八千代は息を整えて、声を胸と頭の真ん中に戻した。
◇
「……まだ、横を向いとる」
障子の向こうで、お種の声が低くなった。
「頑固な子だ。兄さまが出て、広うなったのに、まだふんぞり返っとる」
お種が何かを決めたように、息を吸う音が聞こえた。
「回すだに。外から、手で回す。鬼姫さま、痛いだに。でら痛い。けど、力は漏らしたら、かん。わしの手が潰れたら、この子は出てこれん」
「……やれ」
綾月の声だった。掠れて、低くて、少しも揺れていなかった。
「潰さん。やれ」
八千代は語った。旅の僧が、猿の前に立つところを。
「僧は言いました。わしは、西の果ての国まで、尊い教えの書をいただきに行く者じゃ。道は遠く、険しく、何年かかるか分からぬ。魔物も出る。命を落とすかもしれぬ。それでも、お供をすると申すか」
猿の声を、頭の一番上に。
「いたします」
障子の向こうで、お種が押した。
庵がぎしり、と鳴った。
今夜一番大きな音だった。柱が悲鳴を上げた。梁が軋んだ。八千代の座っている廊下の板が、ばきりと一枚、割れた。
蛇の目に、床の下の土が見えていた。
さっきまで真下へ押し込まれていた力が、真下ではなく、横へ向きかけていた。お種の手の方へ。腹の中の子の方へ。綾月が、痛みに、真下へ向けきれなくなっていた。
八千代は叫んだ。
噺の声ではなかった。胸と頭の真ん中に置いた声ではなかった。十歳の娘の声と、もっとずっと低いところで鳴っていた古い声とが、ぐちゃぐちゃに混ざった、ただの八千代の声だった。
「綾月様!」
障子に手をついた。
「猿は、出られます! 札は、もうすぐ剥がれます! 猿は、山から出られます! 五百年、待ったのです! あと、ほんの少しで、出られるのです!」
床の下の力が、止まった。
止まって、それから、ゆっくりと、また真下へ向きを変えていった。
八千代は障子に手をついたまま、息を吸った。声を真ん中に戻した。
「……いたします、と、猿は申しました。どこまでも。西の果てまで。わしは五百年、ここで空ばかり見ておった。もう空は見飽きた。わしは歩きたい。歩いて、歩いて、自分の足で、どこかへ行きたいのでございます」
障子の向こうで、綾月が長く長く息を吐いた。
「僧は、山を登りました」
八千代は語った。
「草を分け、木の根を跨ぎ、苔を踏んで。五百年、誰も登らなかった山を」
「……回った」
お種の声だった。
「回ったぞ、鬼姫さま。頭が下に来た。……来るだに」
「僧は、山の頂に着きました。そこに、一枚の、古い、古い、札が」
梁から垂らした白い綱が、ぎちり、と鳴った。
「僧は、その札に、手を、かけました」
「いきみりん! ほれ、今だ! 鬼姫さま、今だに!」
「そして」
八千代は言った。
「剥がしました」
◇
二つ目の産声が上がった。
高かった。細くて、澄んでいて、笑っているようにも、誰かを呼んでいるようにも聞こえた。
その瞬間庵が内側から白く光った。
産屋の障子が、紙も桟も、音もなく、外へ弾け飛んだ。温かい風が、庵の中を吹き抜けた。時雨の冷たさを押しのけて、春の昼の日だまりのような風が、廊下を、居間を、書斎を、台所を、庭を、吹き抜けていった。
光には、色があった。
八千代はそれを、後になっても、うまく言葉にできなかった。白い光の中に、二つの色が混じっていた。一つは、冬の夜明けの空のような、深く冷たい蒼。もう一つは、梢に残した木守りの柿のような、温かい朱。二つの色は、二つの泣き声と同じように、互いに張り合うように、互いに呼び合うように、光の中で縒り合わさっていた。
土塀の結界が、弾けた。
鼠たちに虫食いの穴だらけにされていた薄い膜が、内側から押し広げられて、光の粒になって散った。土塀の上に張り付いていた何百匹もの鼠たちは、光の粒に触れたそばから、ほどけていった。ふたつわると囁きかけた口のまま、言い終わらないうちに、煙になって、消えた。
八千代は顔を上げた。
障子の消えた産屋の向こうに、夜空が見えた。時雨の雲が、裂けていた。
裂けた雲の向こうの星空が、揺れていた。
水面に石を投げ込んだように、庵の真上から、輪が広がっていった。一つ。二つ。三つ。星空そのものが、さざ波を立てて揺れていた。輪は三河の空を越え、尾張の空を越え、八千代の見える限りの空の果てまで、渡っていった。
日輪大結界だった。
八千代は、それを初めて見た。いや見たのではなかった。揺れたから、そこにあると分かったのだった。いつも頭の上にあって、決して見えないもの。それが今、一瞬だけ、揺れて、その形を見せていた。
それから。
日輪じゅうの山が、こちらを向いた。
見えたのではない。音がしたのでもない。ただ分かった。三河の山が、尾張の山が、伊勢の山が、鈴鹿の峠が、淡海の湖が、八千代の知らない遠い山々が、一斉に、この庵の方へ、顔を向けた。
何百何千という、途方もなく大きなものたちの気配が、この一点に、注がれていた。
八千代は息ができなかった。
やがて、雲がほどけて、細い下弦の月が出た。気配が一つまた一つと、どこかへ戻っていった。
気付くと、鼠は一匹もいなかった。齧り痕のあった結界の膜も、もうなかった。土塀は、ただの土塀として、月の光の中に立っていた。
産屋の中で、赤子が二人、泣いていた。
高い声と、鋭い声と。互いに張り合うように。互いに呼び合うように。
「……女の子だに」
お種の声が、震えていた。
「男の子と、女の子だ。二人とも、でら元気だ。……鬼姫さま。見りん。二人とも、生きとる」
お種が、晒しにくるんだ男の子を、綾月の片方の腕に置いた。それから、湯の盥を置いて戻ってきていた小萩が、震える手で、女の子を、綾月のもう片方の腕に置いた。
綾月は、腕に力が入らないように細く細く息をしていた。二人とも、潰れなかった。
「……生きて、いる」
掠れた声だった。
「……ああ。生きて、いるな」
◇
その時、庭の砂利が、白くなった。
霜だった。
時雨の後の、まだ神無月の夜に、庭の白砂の上に、一面の霜が降りていた。降りたのではない。森の縁の方から霜が地面を這うように、庵の方へ広がってきていた。
空気が冷たくなった。冷たくて、湿っていて、苔と落ち葉と、冷たい山の水と、霜の匂いがした。
森の奥で、鹿が鳴かなかった。
鳴かずに、来ていた。
「……頭、下げりん」
お種の声だった。さっきまで震えていた声が低く固くなっていた。
「目ぇ、見たら、かん。見たら、連れてかれる。頭、下げりん。皆、下げりん」
八千代は廊下に額をつけた。
割れた床板の、冷たい木の匂いがした。目を固く閉じた。瞼の奥で、蛇の目が疼いた。疼いて、疼いて、開きたがった。八千代は奥歯を噛んで、閉じたままにした。
庭の門のところで、義覚が膝をつく音がした。額を土に擦り付ける音が。鬼は他所の神の領分には入れない。今夜、この庭は、もう、綾月の庭ではなかった。
門の外で、白い狩衣の送り手も、膝をついているのが分かった。防人たちが、槍を伏せる音がした。
産屋の中で、義賢も、膝をついていた。
足音は、しなかった。
ただ霜の降りた砂利が、一歩ごとに、きしり、と鳴った。重くゆっくりと、庭を横切って、産屋の前まで。
途中で一度止まった。
野分の後に、綾月と八千代が植え直した、野苺の茂みのあたりだった。何かがそこに、鼻先を寄せたような、ふう、という息の音がした。
それから、産屋の前で、止まった。
軒の瓦が、かたり、と鳴った。何か途方もなく大きなものが、首を下げて、その角か何かが、軒先に触れたのだと分かった。
冷たい息が、産屋の中に流れ込んでいった。苔と落ち葉と、冷たい水と霜の匂いの息が。
赤子の泣き声が、ぴたりと止んだ。
長い長い沈黙だった。
何かが、産屋の中を、見ていた。男の子を見て、それから、女の子を見ていた。女の子を見ている時間が、長かった。長すぎた。
八千代は額を床につけたまま、息をしていなかった。
その時、綾月の声がした。
「……やらんぞ」
掠れた、低い声だった。少しも、揺れていなかった。
「私の子だ。やらん」
綾月は、頭を下げていなかった。八千代には見えなかったが、分かった。綾月は二人を抱え込んだまま、産屋の前のものを、まっすぐに見返していた。もう漏らす力も残っていない体で。
また長い沈黙があった。
それから、軒の瓦が、もう一度、かたりと鳴った。
何かが、首をもう少しだけ低くして、産屋の中を覗き込んでいるのが分かった。冷たい息が、もう一度、産屋の中に流れ込んだ。今度は、赤子の上の、少しだけ高いところを撫でていった。
女の子を見ているのだった。
怒っているのではなかった。奪いに来たのでもなかった。八千代には、そう思えた。新しい何かを見つけて、それがどういうものなのかを、ただ確かめているような静けさだった。生まれたばかりの、まだ誰の糸にも結ばれていない、新しい光を。
人は皆、額を床に擦り付けて、息を殺していた。神は、それを気にも留めていなかった。
綾月は、何も言わなかった。言わずに、二人を抱く腕に、少しだけ力を込めたのが、気配で分かった。
ふう、と息の音がした。
笑ったのか、呆れたのか、八千代には分からなかった。
砂利が、きしり、と鳴った。産屋の前から、離れていく。
廊下の灯石の白い光が、八千代の背中を照らしていた。八千代の影が、廊下の床に、黒く濃く落ちていた。
砂利の音が、八千代の影のすぐ脇で、止まった。
冷たい息が、八千代の背中に、ひと呼吸だけ、かかった。
何か妙なものを嗅いだ、とでもいうように。
だめ、と八千代は胸の内で言った。声に出さずに。影の中の、あの子に。
だめ。この方は、殴れない。殴ってはいけない。
影はただの影のまま、そこに落ちていた。呼ばなければ、あの子は出てこない。分かっていても、祈らずにはいられなかった。
息が離れた。
何を嗅いだのかも忘れたように。
砂利の音が、森の方へ遠ざかっていった。庵の上の空で、一度だけ、ぴいいいい、と声がした。それきり、何の音もしなくなった。
霜の匂いが、少しずつ薄れていった。
■次回のあらすじ
・夜明けの廊下
・「よい朝だな」
・重かった




