第一章 第二十二話
■これまでのあらすじ
・片割れを断とうとする札。小萩の袂
・横を向いた二人目。八千代の声が綾月の力を真下へ戻す
・二つの産声。庭を霜が覆い、砥鹿の主が見に来る
# 第二十二話 夜明けの帝
「……よう、連れてかなんだ」
お種が、長い長い息を吐いた。
「見に、来ただけだに。今夜は」
今夜は、とお種は言った。八千代はその言葉を、聞かなかったことにしようとして、できなかった。
「神さんが見に来た子は、神さんに目ぇ付けられた子だに。よう育てりん。七つまでは、特に」
八千代は顔を上げた。
庭の白い砂利の上に、霜の足跡が残っていた。四つずつ。森の縁から、産屋の前まで。産屋の前から、森の縁まで。一つ一つが、八千代の両手を広げたよりも大きかった。
足跡だけを、八千代は見た。
門の外で、白い狩衣の送り手が、立ち上がっていた。送り手は、庵の方へ、深く一度だけ頭を下げた。それから、何も言わずに、時雨の上がった夜道を、帰っていった。防人たちが、その後に続いた。
送る者は、要らなかった。
八千代はそれを見送って、それから、産屋の方を見た。
綾月は、二人を抱えたまま、眠っていた。口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。あやめが泣きながら、綾月の額の汗を拭いていた。義賢が、水瓶の水を、綾月の唇に一滴ずつ垂らしていた。お種が、赤子を一人ずつ確かめていた。
庭では、義覚が膝の泥も払わずに、霜の足跡に向かって、もう一度、頭を下げていた。半助が、湯の入った盥を運んできた。産屋の隅では、小萩が泣き腫らした目のまま、晒しを畳んでいた。手つきは確かだった。おさよが晒しを抱えて、泣きながら笑いながら、走ってきた。
八千代は廊下に座ったまま、声が出なかった。
何も言わなくていいと思った。
◇
八千代は、いつの間にか廊下で眠っていた。
割れた床板の脇に、障子の桟の消えた産屋の前に、座ったまま、壁にもたれて。誰かが綿入れを掛けてくれていた。膝の上に瑞雲が丸くなっていた。一晩じゅう襟の奥に潜っていて、霜の匂いが消えてから、やっと出てきたのだった。
『……こわかった』
夢うつつに、瑞雲がそう言うのを聞いた。
次に目を開けた時、空が白みかけていた。庭の砂利の霜が、夜明けの光で薄桃色に染まっていた。その年の初霜だった。
産屋の中から、低い声が聞こえていた。
綾月の声と、もう一つ、知らない男の声だった。何を話しているのかは聞き取れなかった。聞き取ろうとして、八千代はまた少しだけ眠った。
次に気付いた時、隣に誰かが座っていた。
◇
足音はしなかった。衣擦れの音もしなかった。屋根の上の義賢も、気付いていないようだった。気付いた時にはもう八千代の隣の廊下に、男が一人、片膝を立てて座っていた。
二十代の半ばか、後半か。黒い上等だが飾り気のない狩衣の上に、羽織を一枚、無造作に引っ掛けていた。髪をゆるく結っていた。顔立ちは美しかった。美しくて、どこか疲れていた。疲れて、崩れかけて、甘く退廃した匂いのする美しさだった。目の下に、深い隈があった。
その目の奥に、何かが沈んでいた。大勢の声。遠くの呻き。山の底の唸り。八千代には、そう見えた。
「……よい朝だな」
男は霜の庭を見たまま言った。
「静かだ。……今夜は、山が騒いだ。騒いで、それから、静かになった。こんなに静かな朝は、久しぶりだ」
八千代は口を開いた。声が出なかった。掠れた息だけが漏れた。
「声が出ぬか」
男は少しだけ笑った。
「一晩中、喋っておったからな。……聞こえておった。ここまで来る、道すがら」
男は八千代の方を見た。
「よい声だ」
それから、また庭の方を見た。
「神々の声ばかり聞いておるとな。人の声が、恋しくなる」
八千代は男の横顔を見ていた。誰なのか、分からなかった。分からないのに、膝を正さなければいけない気がした。正そうとして、足が痺れていて、動けなかった。
「噂の、噺をする娘だな。後宮中が、そなたの声の話をしておる。鼠の噺。瘤取りの噺。……石の猿の噺も、あるそうだな」
男は立ち上がった。
「今度、聞かせろ」
それから、少しだけ首を傾げた。
「いや。いっそ、そなたを召し抱えるか。日輪の、噺の記録者として」
八千代は瞬きをした。
男は八千代を見下ろして、しばらく黙っていた。
「……冗談だ」
男は門の方へ歩いていった。
門の内側で、義覚が深く礼をした。屋根の上で、義賢が瓢箪を置いて、片膝をついた。男は振り返らずに、門を出ていった。
霜の庭に、男の足跡は一つも残っていなかった。
「……八千代様」
いつの間にか、あやめが廊下に膝をついていた。顔が少し青かった。
「今のお方が、どなたか、お分かりでございますか」
八千代は首を横に振った。
「主上で、ございます」
八千代は門の方を見た。もう誰もいなかった。
産屋の中を見た。綾月が二人を抱えたまま眠っていた。その枕元に、白い紙が一枚、畳んで置いてあった。さっきまで、なかった紙だった。
◇
綾月が目を覚ましたのは、その日の夕暮れだった。
八千代は呼ばれて、産屋に入った。綾月は藁の上の布団に、二人を両脇に寝かせて、横になっていた。顔色は白かったが目はいつもの大理石の目だった。
第一声は、こうだった。
「……猿は」
八千代は、掠れた声で答えた。
「……札を、剥がしたところまで、でございました」
「覚えている。その先だ」
八千代は綾月の枕元に座って、続きを語った。声はまだ半分しか出なかった。半分の声で、ゆっくりと。
「札が剥がれると、山が鳴りました。地が割れて、五つの峰が崩れて、その中から、猿が飛び出しました。五百年ぶりに、空の下へ。猿は、空に向かって、大きな声で叫びました。それから」
八千代は少しだけ間を置いた。
「僧の前に戻ってきて、頭を下げました」
綾月の目が、少しだけ動いた。
「……頭を、下げたのか」
「はい。天の帝にも、天の将軍にも、下げなかった頭を。自分を山から出してくれた、ひとりの旅の僧に」
綾月はしばらく黙っていた。
「……それは、いい」
綾月は言った。
「頭は、下げたい相手にだけ、下げればいい」
「僧と猿は、旅に出ました。西へ」
綾月の目が、また動いた。今度は、少し長く。
「……西へ、か」
「はい。西の果ての国まで」
「難儀な、方角だ」
「……難儀、でございますか」
「私には、な」
八千代は綾月の顔を見た。綾月はそれ以上、何も言わなかった。何が難儀なのか、八千代には分からなかった。分からないまま、胸の内の帳面に書き留めた。
「続きは」
「長うございます。何年もかかる旅でございますから」
「なら、こいつらが聞けるようになるまで、取っておけ」
綾月は両脇の二人を見た。
「私も聞く」
それから、八千代を見た。
「生きて、聞く」
八千代の目から、涙が一粒だけ、膝に落ちた。
綾月は何も言わずに、片腕で女の子を抱き上げて、八千代の方へ差し出した。
「抱け」
◇
重かった。
思っていたより、ずっと重かった。温かくて、柔らかくて、乳の匂いがした。
遠つ世で、初めて我が子を抱いた時の重さを、八千代は思い出した。こんなに小さいのに、こんなに重い。命というのは、重いものなのだと、あの時も思った。
女の子が、目を開けていた。
赤い目だった。紅玉のような、澄んだ、深い赤だった。生まれてまだ一日も経っていないのに、その目は、まっすぐに八千代を見ていた。
怖がっていなかった。
女の子の小さな手が、八千代の小指を握った。驚くほど強い力だった。
八千代は蛇の目を開かなかった。開いても、人の縁は見えない。見えないことは、分かっていた。
ただ小指が、温かかった。
握られている指の、その奥の方まで、ずっと温かかった。
綾月の隣で、男の子が眠っていた。眉間に皺を寄せて、何か難しいことを考えているような顔で。
昨夜胸の奥で何かが切れた時のことを、八千代は思い出していた。札が燃え尽きたからか。この子が、ひときわ鋭く泣いたからか。
いつかこの子が口をきけるようになったら、訊いてみよう、と八千代は思った。答えてくれるかどうかは、分からないけれど。
■次回のあらすじ
・小萩のこと
・三艘の紙の舟
・お七夜の名




