第一章 二十三話
■これまでのあらすじ
・お種「見に、来ただけだに」
・廊下で眠る八千代の隣に、気配なく帝が座る
・綾月の第一声「……猿は」。初めて赤子を抱く
# 第二十三話 蒼と朱
翌朝義賢が、事のあらましを綾月に話した。
片割れ殺しの札のこと。甘い香の匂いのこと。小萩が、弟を盾に脅されていたこと。八千代が気付いたこと。義賢が燃やしたこと。
綾月は、黙って聞いていた。
聞き終わって、黙っていた。
産屋から、音が消えた。
庭の雀の声が、遠くなった。台所の竈の爆ぜる音が、遠くなった。赤子の寝息まで、遠くなった。重くはなかった。冷たくもなかった。ただ静かだった。何もかもが、綾月から一歩、退いたような静かさだった。
「……その娘は」
綾月が言った。静かな声だった。
「どこだ」
あやめが、八千代の方を見た。何か言おうとして、言えずにいる顔だった。
あやめが言えないことを、八千代は知っていた。後宮の御子を害そうとした者が、どうなるか。六条河原の白い筵を、八千代は見た。二の君の簪一本で、十四の下女が井戸端で送られたと、茶会で聞いた。帝の御子を二人まとめて断とうとした札を、袂に入れていた娘が、どうなるか。
娘だけでは済まない。脅しの盾にされた弟も。家ごと。
局に知れれば。
「綾月様」
八千代は、綾月の枕元に手をついた。
「小萩殿を、わたくしに、お預けくださいませ」
綾月が、八千代を見た。
「小萩殿は、入れておけと言われて、入れておいただけでございます。弟御の命と引き換えに。札を書いたのは、小萩殿ではございませぬ」
八千代は顔を上げた。
「それに、小萩殿は、札が燃えた後、湯を運びました。姫御子様を、綾月様の腕にお置きしたのは、小萩殿の手でございます。札を入れた手と、湯を運んだ手は、同じ手でございます。どちらか一方だけを、切り落とすことは、できませぬ」
「……八千代」
「それから」
八千代は声を落とした。
「札を書いた、香の匂いのする誰かが、まだおります。小萩殿は、その誰かに繋がる、ただ一本の糸でございます。小萩殿を失えば、その糸も切れます」
綾月は長いこと、八千代を見ていた。
その時、綾月の脇で、女の子が、むずかった。小さな手が、綾月の襟を掴んだ。
音が戻ってきた。
雀の声が。竈の音が。赤子の寝息が。
「……任せる」
綾月は言った。
「お前に、任せる」
それから、女の子の手を、自分の襟からそっと外しながら、言った。
「局には、言わん」
あやめが息を呑んだ。
「綾月様。それは」
「知れたら、あの娘は河原だ。弟もだ」
綾月はあやめを見なかった。
「知れなければ、いい。……ここにいる者が、黙っていれば、いい」
あやめは、少しのあいだ黙っていた。それから、深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
掟を曲げたのだった。
日輪の掟は、優しいようには出来ていない。生き残るように出来ている。その掟を、綾月は今、一つ曲げた。曲げたことが知れれば、今度は綾月が、掟に問われる。
八千代はそれを分かっていて、頼んだのだった。
「だが」
綾月は言った。
「札を渡した奴は、見つけたら、言え」
静かな声だった。さっきの、何もかもが一歩退いた静かさが、ほんの少しだけ、声の底に残っていた。
「それは、私が片付ける」
義賢が、黙って八千代の頭を、ぐしゃりと撫でた。
◇
その日の午後、八千代は庵の裏の小川へ行った。
義賢と、おさよと、小萩が一緒だった。札の灰と、土塀の根元に残っていた、ほどけきれなかった鼠の煤を、懐紙に包んで持っていった。
「……燃やして、終わり、じゃないのかい」
義賢が言った。
「燃やしても、灰は、残ります」
八千代は懐から、美濃の紙を一枚取り出した。
「三河に来る道中で、お菊殿に教わりました。祓う、とは、消すことではない、と。鎮めて、流して、遠ざけて、境を戻すこと、と。消すものと、消さないものを見分けて、消さないものは返してやる、と」
八千代は紙を折った。尾張の村で、お菊が折っていたのと同じ形に。小さな舟の形に。
おさよも、舟を折った。不器用な手つきで。小萩も折った。細い白い指で。お種の弟子らしく、きっちりと角を揃えて。
舟が三艘できた。八千代は灰の包みを一艘に、煤の包みを一艘に載せた。三艘目には、何も載せなかった。小萩が折った舟だった。
八千代は小川の縁にしゃがみ込んで、舟を水面に置いた。
それから、歌った。
お菊が尾張の村で歌っていた、三河の古い祓いの歌を。帳面に書き留めておいた節で。声はまだ掠れていた。だが掠れた声の方が、この歌には合っている気がした。前歯の欠けた口から少しだけ息の漏れる、お菊の歌声に。
実ったよ、実ったよ。もう、ええよ、ええよ。
舟が流れ出した。一艘。二艘。三艘目の、何も載っていない舟が、少し遅れて、流れについていった。
小萩は小川の縁に膝をついたまま、声にならない声で、何かを繰り返していた。ごめんなさい、と言っているのが、唇の形で分かった。
義賢が、腰の瓢箪から、小川に酒を一筋垂らした。
「……舟の、見送りだ」
舟が見えなくなった。
「……なんで」
小萩が言った。
「なんで、わたしを、庇ってくれたんですか。わたし、あの子を……あの、女の子を……」
「小萩殿は、猿の噺を、一度で覚えておいででしたね」
八千代は言った。
小萩が、目を見開いた。
「……見とったんですか。井戸のとこ」
「見ておりました」
八千代は小川の流れを見ていた。
「あれほどよく聞いて、よく覚える方が、本当に赤子を殺したかったはずが、ございませぬ」
小萩は何も言わなかった。
「それに、小萩殿には、まだ、猿の噺の続きを聞いていただかねばなりませぬ。西の果てまで。何年もかかりますゆえ」
小萩の目から、涙が溢れた。
義賢が、カカッと笑った。
「言ったろ。泣くのは後だって。……まあ、今が、後か」
義賢は瓢箪を小萩の方へ差し出した。
「飲むかい」
「……の、飲みません」
「そうかい」
義賢はそう言って、自分で一口飲んだ。
どこかで、百舌が鋭く鳴いた。冬が近かった。
◇
庵に戻ると、庭の野苺の茂みが、実っていた。
神無月の末だった。野苺の実る季節ではなかった。それなのに、野分の後に綾月と八千代が植え直した茂みが、夏の盛りのように、赤い実をびっしりと付けていた。
昨夜何かが鼻先を寄せた、あの茂みだった。
お種が、茂みの前に立って、長いこと見ていた。
「……神さんの、気まぐれだに」
お種は言った。
「祝いか。手付けか。わしには、分からん」
手付け、という言葉に、八千代の背筋が冷えた。
綾月が縁側から、茂みを見ていた。それから、布団から起き上がれるようになったばかりの体で、ゆっくりと庭へ降りてきて、ひと粒摘んで、口に入れた。
「……甘い」
もうひと粒摘んで、八千代の手に載せた。
「食え」
八千代は野苺を口に入れた。
夏の味がした。それから、ほんの少しだけ、冷たい森の、霜の味がした。
◇
七日目の晩は、お七夜だった。
「七日までは、この世に留まるか、神さんの方へ帰るか、決まっとらんもんで」
お種が言った。
「七日、この世に留まったら、この世の子だ、ゆうて、名を付ける。……ほんでも、七つまでは、神のうち。名が付いても、油断は、せられん」
夕刻帝の使いが来た。白い狩衣の、若い神祇の官人だった。門の前で、官人と義覚が、互いに深く礼をした。
官人は白木の三方を捧げ持っていた。三方の上に、奉書に包んだ檀紙が一枚。官人はそれを綾月の前に置いて、包みを開いた。
流れるような、少し崩れた字だった。甘く退廃した匂いのする筆跡だった。夜明けの廊下で、八千代の隣に座っていた人の顔が浮かんだ。
蒼真。
朱璃。
「……主上、御宸筆にございます」
官人は言った。
「男御子は、蒼真。女御子は、朱璃。姓は、天耀と賜ります」
綾月は檀紙を見ていた。驚いた顔はしていなかった。
お産の夜明けに、枕元に置かれていた白い紙のことを、八千代は思い出した。綾月はあの紙を、目が覚めてすぐに開いて、読んで、黙って懐に仕舞っていた。
七日目まで、名を口にしないで。この世に留まるかどうか、決まるまで。
「……蒼真」
綾月が呼んだ。男の子が、眉間の皺を深くした。
「朱璃」
女の子が、ふにゃ、と声を上げた。
「……胡散臭い男だが」
綾月は言った。
「名付けは、悪くない」
「綾月様」
あやめが小声で窘めた。官人は聞こえないふりをした。
八千代は檀紙の二つの字を見ていた。
蒼と朱。
あの夜、二つ目の産声と一緒に庵を満たした白い光の中に、縒り合わさっていた、二つの色だった。冬の夜明けの蒼と、木守りの柿の朱。
二人の泣き声の、色だった。
◇
同じ晩、三の君から、届け物があった。
犬張子だった。白い和紙を手で幾重にも貼り重ねて作った、小さな犬。黒い丸い目と、赤い前掛けと、背中に小さなでんでん太鼓。安産と、子の健やかな育ちを守る、古い守りだった。手で作ったものなので、日輪でもほどけない。
添え文は、一行だけだった。
御子様方の、健やかなるご成長を、お祈り申し上げます。三の君。
香は白檀だった。
八千代は犬張子を手に取って、蛇の目で見た。
京の職人が、一枚ずつ和紙を貼り重ねた手。それを受け取った白い指が、長いこと、犬の背を撫でていた。撫でながら、何かを祈っていた。祈りの色の底に、ほんの少しだけ、別の色が混じっていた。
悔いの色だった。
黒い色は、なかった。
八千代は犬張子を、二人の枕元に置いた。
◇
その夜、八千代は書斎で、帳面を開いた。
鹿の声は、もう聞こえなかった。
神無月の末、夜半過ぎ。男御子、ご誕生。続いて、女御子、ご誕生。お七夜にて、主上より御名を賜る。蒼真様。朱璃様。
噂、鼠の形を取り、結界を齧る。噺の夜は齧らず。声は良きも悪しきも引き寄せる。
片割れ殺しの札、小萩殿の袂に。札の香は、三の君様の最初の文と同じ。春に香の匂いのするお方より。
札の糸、わたくしの胸にも、触れる。片割れとして。
糸の切れしは、札の燃え尽きしゆえか。蒼真様のお泣きになりしゆえか。未だ分からず。
父上の文、冠に読む。後宮、香毒有り。留まりて援けよ。
局より送り手、門に立つ。送らずに帰る。
小萩殿のこと、局に言わず。綾月様、掟を一つ曲げらる。わたくしが、頼んだ。
筆がそこで止まった。
八千代は、自分の影を見た。灯石の白い光の中に、八千代と同じ形で、静かに落ちている影を。
昨夜何かがその影の脇で、ひと呼吸だけ止まった。
あの時、呼べば、あの子は盾を構えて出てきてくれたかもしれなかった。呼べなかった。呼んではいけなかった。
八千代は影に向かって、声に出さずに言った。
ごめんなさい。
少し迷って、もう一つ言った。
いつも、そこにいてくれて、ありがとう。
影は何も答えなかった。
八千代は、帳面の続きを書いた。
砥鹿の主、朱璃様を長くご覧になる。わたくしの影にも、ひととき。すぐにお忘れになった様子。姿は見ず。霜の足跡、四つずつ。野苺、季節外れに実る。祝いか、手付けか。
大結界、揺れる。夜空水面の如し。日輪じゅうの山、こちらを向く。
お種殿、神無月の神々は西を見る、と。綾月様、西は難儀、と。
主上、夜明けに来られる。霜に足跡なし。召し抱えるか、と。冗談だ、と。
朱璃様、わたくしの小指を握る。温かし。
分からないことが、たくさんあった。分からないことを、分からないまま書いておくのが、記録をする者の務めだと、八千代は思った。いつか誰かが、この帳面を読んで、分かる日が来るかもしれない。分からないまま、この帳面と一緒に、どこかの山へ還るのかもしれない。
最後に、一行書いた。
綾月様、生きて聞く、と。
筆を置いた。
『……八千代』
文机の端で、瑞雲がとぐろをほどいた。
『声、戻った?』
「……少しだけ」
『よかった』
瑞雲は八千代の手首に、するすると巻き付いた。
『ねえ。帰るの、いつ?』
八千代は答えなかった。
窓の外を見た。夜の森。紅葉の散る音。遠くで、赤子が泣いた。高い声と、鋭い声と。互いに張り合うように。互いに呼び合うように。あやめのあやす声が聞こえた。綾月の低いぶっきらぼうな声が聞こえた。泣き声が、止んだ。
八千代は自分の小指を見た。何も見えなかった。だが温かかった。
「……猿が、西の果てに着くまで」
八千代は言った。
『何年?』
「何年でしょうね」
八千代は灯石に布を掛けた。暗闇の中で、小指だけが、ほんのりと温かかった。
■次回
・番外『やちよの継祚禄大学 第一講』(ゲスト:義覚)
■本編の次回のあらすじ
・霜月の朝
・鬼に礼を言う坊主
・香の師




