↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日輪継祚禄  作者: 逢妻 恵
第一章
PR
24/27

第一章 二十三話

■これまでのあらすじ

・お種「見に、来ただけだに」

・廊下で眠る八千代の隣に、気配なく帝が座る

・綾月の第一声「……猿は」。初めて赤子を抱く


# 第二十三話 蒼と朱


 翌朝義賢(ぎけん)が、事のあらましを綾月(あやつき)に話した。


 片割れ殺しの札のこと。甘い香の匂いのこと。小萩(こはぎ)が、弟を盾に脅されていたこと。八千代(やちよ)が気付いたこと。義賢が燃やしたこと。


 綾月は、黙って聞いていた。


 聞き終わって、黙っていた。


 産屋から、音が消えた。


 庭の雀(すずめ)の声が、遠くなった。台所の竈(かまど)の爆ぜる音が、遠くなった。赤子の寝息まで、遠くなった。重くはなかった。冷たくもなかった。ただ静かだった。何もかもが、綾月から一歩、退いたような静かさだった。


「……その娘は」


 綾月が言った。静かな声だった。


「どこだ」


 あやめが、八千代の方を見た。何か言おうとして、言えずにいる顔だった。


 あやめが言えないことを、八千代は知っていた。後宮(こうきゅう)の御子を害そうとした者が、どうなるか。六条河原の白い筵(むしろ)を、八千代は見た。二の君の簪(かんざし)一本で、十四の下女が井戸端で送られたと、茶会で聞いた。帝の御子を二人まとめて断とうとした札を、袂(たもと)に入れていた娘が、どうなるか。


 娘だけでは済まない。脅しの盾にされた弟も。家ごと。


 局に知れれば。


「綾月様」


 八千代は、綾月の枕元に手をついた。


「小萩殿を、わたくしに、お預けくださいませ」


 綾月が、八千代を見た。


「小萩殿は、入れておけと言われて、入れておいただけでございます。弟御の命と引き換えに。札を書いたのは、小萩殿ではございませぬ」


 八千代は顔を上げた。


「それに、小萩殿は、札が燃えた後、湯を運びました。姫御子様を、綾月様の腕にお置きしたのは、小萩殿の手でございます。札を入れた手と、湯を運んだ手は、同じ手でございます。どちらか一方だけを、切り落とすことは、できませぬ」


「……八千代」


「それから」


 八千代は声を落とした。


「札を書いた、香の匂いのする誰かが、まだおります。小萩殿は、その誰かに繋(つな)がる、ただ一本の糸でございます。小萩殿を失えば、その糸も切れます」


 綾月は長いこと、八千代を見ていた。


 その時、綾月の脇で、女の子が、むずかった。小さな手が、綾月の襟を掴(つか)んだ。


 音が戻ってきた。


 雀の声が。竈の音が。赤子の寝息が。


「……任せる」


 綾月は言った。


「お前に、任せる」


 それから、女の子の手を、自分の襟からそっと外しながら、言った。


「局には、言わん」


 あやめが息を呑(の)んだ。


「綾月様。それは」


「知れたら、あの娘は河原だ。弟もだ」


 綾月はあやめを見なかった。


「知れなければ、いい。……ここにいる者が、黙っていれば、いい」


 あやめは、少しのあいだ黙っていた。それから、深く頭を下げた。


「……かしこまりました」


 掟(おきて)を曲げたのだった。


 日輪(にちりん)の掟は、優しいようには出来ていない。生き残るように出来ている。その掟を、綾月は今、一つ曲げた。曲げたことが知れれば、今度は綾月が、掟に問われる。


 八千代はそれを分かっていて、頼んだのだった。


「だが」


 綾月は言った。


「札を渡した奴は、見つけたら、言え」


 静かな声だった。さっきの、何もかもが一歩退いた静かさが、ほんの少しだけ、声の底に残っていた。


「それは、私が片付ける」


 義賢が、黙って八千代の頭を、ぐしゃりと撫(な)でた。


◇


 その日の午後、八千代は庵(いおり)の裏の小川へ行った。


 義賢と、おさよと、小萩が一緒だった。札の灰と、土塀の根元に残っていた、ほどけきれなかった鼠(ねずみ)の煤(すす)を、懐紙に包んで持っていった。


「……燃やして、終わり、じゃないのかい」


 義賢が言った。


「燃やしても、灰は、残ります」


 八千代は懐から、美濃の紙を一枚取り出した。


「三河(みかわ)に来る道中で、お菊殿に教わりました。祓(はら)う、とは、消すことではない、と。鎮めて、流して、遠ざけて、境を戻すこと、と。消すものと、消さないものを見分けて、消さないものは返してやる、と」


 八千代は紙を折った。尾張(おわり)の村で、お菊が折っていたのと同じ形に。小さな舟の形に。


 おさよも、舟を折った。不器用な手つきで。小萩も折った。細い白い指で。お種の弟子らしく、きっちりと角を揃(そろ)えて。


 舟が三艘(そう)できた。八千代は灰の包みを一艘に、煤の包みを一艘に載せた。三艘目には、何も載せなかった。小萩が折った舟だった。


 八千代は小川の縁にしゃがみ込んで、舟を水面に置いた。


 それから、歌った。


 お菊が尾張の村で歌っていた、三河の古い祓(はら)いの歌を。帳面に書き留めておいた節で。声はまだ掠(かす)れていた。だが掠れた声の方が、この歌には合っている気がした。前歯の欠けた口から少しだけ息の漏れる、お菊の歌声に。


 実ったよ、実ったよ。もう、ええよ、ええよ。


 舟が流れ出した。一艘。二艘。三艘目の、何も載っていない舟が、少し遅れて、流れについていった。


 小萩は小川の縁に膝をついたまま、声にならない声で、何かを繰り返していた。ごめんなさい、と言っているのが、唇の形で分かった。


 義賢が、腰の瓢箪(ひょうたん)から、小川に酒を一筋垂らした。


「……舟の、見送りだ」


 舟が見えなくなった。


「……なんで」


 小萩が言った。


「なんで、わたしを、庇(かば)ってくれたんですか。わたし、あの子を……あの、女の子を……」


「小萩殿は、猿の噺(はなし)を、一度で覚えておいででしたね」


 八千代は言った。


 小萩が、目を見開いた。


「……見とったんですか。井戸のとこ」


「見ておりました」


 八千代は小川の流れを見ていた。


「あれほどよく聞いて、よく覚える方が、本当に赤子を殺したかったはずが、ございませぬ」


 小萩は何も言わなかった。


「それに、小萩殿には、まだ、猿の噺の続きを聞いていただかねばなりませぬ。西の果てまで。何年もかかりますゆえ」


 小萩の目から、涙が溢(あふ)れた。


 義賢が、カカッと笑った。


「言ったろ。泣くのは後だって。……まあ、今が、後か」


 義賢は瓢箪を小萩の方へ差し出した。


「飲むかい」


「……の、飲みません」


「そうかい」


 義賢はそう言って、自分で一口飲んだ。


 どこかで、百舌が鋭く鳴いた。冬が近かった。


◇


 庵に戻ると、庭の野苺(のいちご)の茂みが、実っていた。


 神無月の末だった。野苺の実る季節ではなかった。それなのに、野分の後に綾月と八千代が植え直した茂みが、夏の盛りのように、赤い実をびっしりと付けていた。


 昨夜何かが鼻先を寄せた、あの茂みだった。


 お種が、茂みの前に立って、長いこと見ていた。


「……神さんの、気まぐれだに」


 お種は言った。


「祝いか。手付けか。わしには、分からん」


 手付け、という言葉に、八千代の背筋が冷えた。


 綾月が縁側から、茂みを見ていた。それから、布団から起き上がれるようになったばかりの体で、ゆっくりと庭へ降りてきて、ひと粒摘んで、口に入れた。


「……甘い」


 もうひと粒摘んで、八千代の手に載せた。


「食え」


 八千代は野苺を口に入れた。


 夏の味がした。それから、ほんの少しだけ、冷たい森の、霜の味がした。


◇


 七日目の晩は、お七夜だった。


「七日までは、この世に留まるか、神さんの方へ帰るか、決まっとらんもんで」


 お種が言った。


「七日、この世に留まったら、この世の子だ、ゆうて、名を付ける。……ほんでも、七つまでは、神のうち。名が付いても、油断は、せられん」


 夕刻帝の使いが来た。白い狩衣の、若い神祇(じんぎ)の官人だった。門の前で、官人と義覚(ぎかく)が、互いに深く礼をした。


 官人は白木の三方を捧げ持(ささげも)っていた。三方の上に、奉書に包んだ檀紙(だんし)が一枚。官人はそれを綾月の前に置いて、包みを開いた。


 流れるような、少し崩れた字だった。甘く退廃した匂いのする筆跡だった。夜明けの廊下で、八千代の隣に座っていた人の顔が浮かんだ。


 蒼真(そうま)。


 朱璃(あかり)。


「……主上、御宸筆(しんぴつ)にございます」


 官人は言った。


「男御子は、蒼真(そうま)。女御子は、朱璃(あかり)。姓は、天耀(てんよう)と賜ります」


 綾月は檀紙を見ていた。驚いた顔はしていなかった。


 お産の夜明けに、枕元に置かれていた白い紙のことを、八千代は思い出した。綾月はあの紙を、目が覚めてすぐに開いて、読んで、黙って懐に仕舞っていた。


 七日目まで、名を口にしないで。この世に留まるかどうか、決まるまで。


「……蒼真」


 綾月が呼んだ。男の子が、眉間の皺(しわ)を深くした。


「朱璃」


 女の子が、ふにゃ、と声を上げた。


「……胡散(うさん)臭い男だが」


 綾月は言った。


「名付けは、悪くない」


「綾月様」


 あやめが小声で窘(たしな)めた。官人は聞こえないふりをした。


 八千代は檀紙の二つの字を見ていた。


 蒼と朱。


 あの夜、二つ目の産声と一緒に庵を満たした白い光の中に、縒(よ)り合わさっていた、二つの色だった。冬の夜明けの蒼と、木守りの柿の朱。


 二人の泣き声の、色だった。


◇


 同じ晩、三の君(さんのきみ)から、届け物があった。


 犬張子だった。白い和紙を手で幾重にも貼り重ねて作った、小さな犬。黒い丸い目と、赤い前掛けと、背中に小さなでんでん太鼓。安産と、子の健やかな育ちを守る、古い守りだった。手で作ったものなので、日輪でもほどけない。


 添え文は、一行だけだった。


 御子様方の、健やかなるご成長を、お祈り申し上げます。三の君。


 香は白檀(びゃくだん)だった。


 八千代は犬張子を手に取って、蛇の目(じゃのめ)で見た。


 京の職人が、一枚ずつ和紙を貼り重ねた手。それを受け取った白い指が、長いこと、犬の背を撫でていた。撫でながら、何かを祈っていた。祈りの色の底に、ほんの少しだけ、別の色が混じっていた。


 悔いの色だった。


 黒い色は、なかった。


 八千代は犬張子を、二人の枕元に置いた。


◇


 その夜、八千代は書斎で、帳面を開いた。


 鹿の声は、もう聞こえなかった。


 神無月の末、夜半過ぎ。男御子、ご誕生。続いて、女御子、ご誕生。お七夜にて、主上より御名を賜る。蒼真様。朱璃様。


 噂(うわさ)、鼠の形を取り、結界を齧(かじ)る。噺の夜は齧(かじ)らず。声は良きも悪しきも引き寄せる。


 片割れ殺しの札、小萩殿の袂に。札の香は、三の君様の最初の文と同じ。春に香の匂いのするお方より。


 札の糸、わたくしの胸にも、触れる。片割れとして。


 糸の切れしは、札の燃え尽きしゆえか。蒼真様のお泣きになりしゆえか。未だ分からず。


 父上の文、冠に読む。後宮、香毒有り。留まりて援けよ。


 局より送り手、門に立つ。送らずに帰る。


 小萩殿のこと、局に言わず。綾月様、掟を一つ曲げらる。わたくしが、頼んだ。


 筆がそこで止まった。


 八千代は、自分の影を見た。灯石の白い光の中に、八千代と同じ形で、静かに落ちている影を。


 昨夜何かがその影の脇で、ひと呼吸だけ止まった。


 あの時、呼べば、あの子は盾を構えて出てきてくれたかもしれなかった。呼べなかった。呼んではいけなかった。


 八千代は影に向かって、声に出さずに言った。


 ごめんなさい。


 少し迷って、もう一つ言った。


 いつも、そこにいてくれて、ありがとう。


 影は何も答えなかった。


 八千代は、帳面の続きを書いた。


 砥(と)鹿の主、朱璃様を長くご覧になる。わたくしの影にも、ひととき。すぐにお忘れになった様子。姿は見ず。霜の足跡、四つずつ。野苺、季節外れに実る。祝いか、手付けか。


 大結界、揺れる。夜空水面の如し。日輪じゅうの山、こちらを向く。


 お種殿、神無月の神々は西を見る、と。綾月様、西は難儀、と。


 主上、夜明けに来られる。霜に足跡なし。召し抱えるか、と。冗談だ、と。


 朱璃様、わたくしの小指を握る。温かし。


 分からないことが、たくさんあった。分からないことを、分からないまま書いておくのが、記録をする者の務めだと、八千代は思った。いつか誰かが、この帳面を読んで、分かる日が来るかもしれない。分からないまま、この帳面と一緒に、どこかの山へ還るのかもしれない。


 最後に、一行書いた。


 綾月様、生きて聞く、と。


 筆を置いた。


『……八千代』


 文机の端で、瑞雲(ずいうん)がとぐろをほどいた。


『声、戻った?』


「……少しだけ」


『よかった』


 瑞雲は八千代の手首に、するすると巻き付いた。


『ねえ。帰るの、いつ?』


 八千代は答えなかった。


 窓の外を見た。夜の森。紅葉の散る音。遠くで、赤子が泣いた。高い声と、鋭い声と。互いに張り合うように。互いに呼び合うように。あやめのあやす声が聞こえた。綾月の低いぶっきらぼうな声が聞こえた。泣き声が、止んだ。


 八千代は自分の小指を見た。何も見えなかった。だが温かかった。


「……猿が、西の果てに着くまで」


 八千代は言った。


『何年?』


「何年でしょうね」


 八千代は灯石に布を掛けた。暗闇の中で、小指だけが、ほんのりと温かかった。


■次回

・番外『やちよの継祚禄大学 第一講』(ゲスト:義覚)


■本編の次回のあらすじ

・霜月の朝

・鬼に礼を言う坊主

・香の師

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。