第一章 二十四話
◾︎前回からのあらすじ
・小萩を預かると決め、三艘の紙の舟を流す
・季節外れの野苺
・お七夜、帝の宸筆で蒼真と朱璃。三の君の犬張子
#第一章 二十四話 霜の足跡、与一
霜月の朝は、白かった。
八千代が障子を開けると、庭の白砂が一面の霜で、白の上にもう一枚白を重ねたように光っていた。息を吐くと、吐いた息まで白かった。
『でら、さむい』
襟の奥で瑞雲が言った。半助の口癖が移っていた。
庭では義覚が、いつものように箒を使っていた。いつものように、一枚の落ち葉も残さずに。ただ庭の真ん中の四つの窪みのまわりだけは、箒の先を大きく迂回させていた。
霜の足跡だった。森の縁から産屋の前まで、産屋の前から森の縁まで。神無月の末の夜に残された四つずつの窪みは、半月が過ぎても消えなかった。それどころか毎朝窪みの中にだけ、ほかより厚い霜が降りていた。
八千代は帳面を開きかけて、やめた。足跡のことは、もう何度も書いてあった。
同じ朝が来ることが、少しだけ嬉しかった。
◇
産から八日、庵は忙しかった。
日輪では、産のあと二十一日は床に就いたまま過ごすしきたりだった。竈にも井戸にも触れない。二十一日目の産屋明けに床を上げる。
「産のあとの体は、半分、神さんの方にあるだもんで」
お種が言った。
「半分あっちにある体で竈に触ったら、竈の神さんが、あっちのもんと間違えるだに」
綾月は床の上で粥を七杯食べて、まだ足りないと言った。三河の後宮から差し向けられた乳母三人を、綾月は門の前で帰していた。
「私の子だ。私が育てる」
それきりだった。舞は眉間に皺を寄せて、乳母たちの御殿への言い訳の文を三通書いた。義賢は屋根の上で、姐さんらしいや、と笑った。
朱璃は、八千代の顔を見ると、ふにゃ、と顔を崩した。
「赤子の笑いは、神さんの笑いの移り笑いだに」
お種はそう言ったが、八千代の小指は、朱璃が笑うたびに、ほんのりと温かくなった。蛇の目には何も見えない。見えないが、温かかった。
「抱け」
綾月が言った。
「こいつは、腹が膨れた。お前の顔の方がいいらしい」
八千代は朱璃を抱き上げて、肩に頭を乗せ、背中をとん、とん、と叩いた。小さな体の奥からけぷと息が上がってきた。
いつ覚えたのか、手の方が知っていた。夜更けにこうして小さな背中を叩いた覚えが、頭ではなく手のひらの方にだけ、うっすらと残っていた。
「……慣れているな」
綾月が言った。
「……出雲の親戚の子を、よく預かっておりましたので」
嘘だった。綾月はそれ以上訊かなかった。訊かずに、大理石の目で少しだけ八千代を見て、それから隣で眉間に皺を寄せている蒼真の方を見た。
蒼真が、ぶりっ、と音を立てた。
「……舞」
「ただいま!」
◇
小萩は、産から三日目に、半助の台所に入った。
八千代が頼んだのだった。半助は小萩を見下ろして、長いこと黙っていた。産の夜の札のことを、半助は知っていた。義賢が話したのだろう。
「……目の届くとこに、置いとけ、ってことだら」
「一番、目の利く方の、おそばに」
半助は鼻を鳴らした。それから顎で、流しの脇の笊をしゃくった。
「……洗え。大根。葉も食うで、葉も洗え」
小萩が笊の方へ動きかけると、半助はもう一つ言った。
「汲む前に、二度、叩け。一杯目は、神さんに」
「……はい」
「目は離さん。わしの台所だもんで」
半助は竈の方を向いた。
「ほんでも、手は借りる。……手が、足らんもんで」
竈の火が、ぱちりと爆ぜた。熾火が、少しだけ明るくなった。
◇
その三日後の晩、小萩が八千代の書斎の戸を叩いた。
顔が白かった。産の夜と同じくらい。
「……弟が」
小萩は戸口で膝をついた。
「与一が、まだ、尾張の窯におるんです。瓦焼きの窯に、奉公に出とって。……あのお方が言いよったんです。札を袂に入れとかんかったら、窯の火から、火が出る、って。窯の火が、弟を呑む、って」
「札は、もう燃えました」
「燃えたから、どうなるか、分からんのです」
小萩の声が震えた。
「入れとけ、言われたのに、入れとったのに、燃えてしもうた。あのお方は、それを、知っとるかもしれん。……知っとったら」
八千代は立ち上がった。
廊下を走って、居間の前で膝をついた。綾月はまだ床の中だったが、起きていた。双子を両脇に寝かせて、灯石の光で八千代の顔を見た。
「綾月様。お願いがございます」
八千代は小萩の弟のことを話した。尾張の、瓦焼きの窯。与一という十の子供。香の匂いのするお方の脅し。
綾月は聞き終わると、一言だけ言った。
「義覚」
障子の向こうの庭で、箒の音が止まった。
「尾張。瓦焼きの窯。与一という、十の子供。朝までに」
「承知」
義覚の声がした。それから、窯の名を小萩に一度だけ訊く声がして、それきり、庭から気配が消えた。
屋根の上で、義賢が瓢箪を置いて身を起こした。片割れが留守の夜は、義賢は一滴も飲まないのだと、あとで舞が教えてくれた。
あやめが、灯石の位置を直しながら、静かに言った。
「義覚殿の前に、道は要りませぬ」
◇
翌朝庭に煤だらけの子供が立っていた。
十くらいの、痩せた、目のよく動く男の子だった。顔も手も着物も、窯の煤で真っ黒だった。男の子は庭を見回し、それから自分の後ろに立っている義覚を見上げて、口を開けた。
「姉やん。なんで。ここ、どこだがや。このでっかい鬼さ、なんだがや」
小萩が台所から飛び出してきた。
飛び出してきて、何も言わずに、弟を抱きしめた。声を上げて泣いた。小萩が声を上げて泣くのを、八千代は初めて見た。
「……姉やん、苦しいがや」
「ええがや。苦しゅうて、ええがや」
義覚が、八千代の方へ来た。右の掌を、黙って開いて見せた。掌の真ん中が、黒く焦げていた。
「窯の奥の、焚き口の上に、札が一枚、貼ってありましたでな。窯の火で焼いてまいりました。……焼く時に、少々」
「その札は」
「蔓のような字でしたな。日輪の字では、ありませなんだ」
片割れ殺しの札と、同じ字だった。
八千代は与一の方を見た。蛇の目を開きかけて、やめた。人の中は覗かない。代わりに、与一の着物の裾を見た。物の側を。
着物の裾の、右の足首のあたりに、黒い蔓のような染みが、這い上がるように付いていた。窯の煤ではなかった。煤なら、こんなふうに、何かを探すようには伸びない。
「義賢殿」
屋根から義賢が降りてきて、与一の足首を一目見て、舌打ちをした。
「札の本体が燃えた後の、残り滓さ。……坊主、ちょいとじっとしてな」
義賢は水瓶の水を、与一の足首に掛けた。黒い蔓が、じゅう、と音を立てて薄れ、消えた。
「……冷やっこいがや」
与一は足首をさすって、それから義賢を見上げて、ぺこりと頭を下げた。
「……鬼さ。ありがとう、ござります」
義賢は目を丸くして、それから大声で笑った。
「カカッ! 鬼に礼を言う坊主かい!」
◇
与一は、そのまま庵の下働きになった。
火の扱いが、うまかった。瓦窯で、火の機嫌を見る仕事をしていたのだという。竈の前にしゃがみ込んで、薪を一本入れるか入れないか、じっと火を見て決めた。
「……火の機嫌が、分かる子だに」
半助が、珍しく自分から言った。
竈の熾火は、与一がしゃがみ込むたびに、ぱちり、ぱちりと嬉しそうに爆ぜた。
◇
その晩、八千代は書斎に小萩を呼んだ。
与一は台所で、半助の作った雑炊を三杯食べて、もう寝ていた。小萩は書斎の文机の前に、背筋を伸ばして座った。前のように、膝に顔を埋めてはいなかった。
「小萩殿。香の匂いのするお方のことを、覚えているだけ、話していただけますか」
小萩は頷いた。
「春に、香合わせの会がありました。三の君さまのお屋敷で。京から、香のお師匠さまを、お招きになって。わたし、お種さまのお使いで、届け物に行っとって、廊下の隅で、待たされとったんです」
「お顔は」
「見とりません。被衣を、深う被っとられて。……ただ、指が」
小萩は自分の指を見た。
「白うて、細うて。指の先に、蔓みたいな形の墨が、入っとりました。書いたんじゃない。肌の中に、入っとるような」
「それから」
「会が終わって、帰ろうとしたら、廊下で、呼び止められたんです。あんさん、尾張の子やろ、って。……弟はんは、達者にしてはりますか、って」
小萩の膝の上の手が、きゅっと握られた。
「わたし、弟のこと、誰にも言うとらんかったのに。窯の名まで、知っとられた」
「札を渡されたのは」
「神無月です。お産の、半月くらい前。後宮の廊下で、すれ違いざまに、袂に入れられて。……それで、耳元で」
小萩は、少し息を吸った。
それから、声を変えた。
「――双子のお産は、難しおすえ。片っぽ、神さんに、お返しせな、あきまへんのやろ。……あんさんの、弟はんと、同じように」
八千代の背中が、冷たくなった。
小萩の声ではなかった。小萩の口から、別の誰かの声が出ていた。柔らかくて、甘くて、湿っていて、耳の奥に絡みつく京の言葉。一度聞いただけの声を、小萩は、写本のように写し取っていた。
「……もう一度、お願いできますか」
小萩は、もう一度言った。
八千代は目を閉じて、声だけを聞いた。
上手だった。驚くほど上手な京の言葉だった。だが根っこが京ではなかった。息を継ぐところが、京の人より半拍ずれる。難しおすえのえを京の人なら落とさないところで、ほんの少しだけ落とす。母語の上に、京の言葉を一枚、薄く貼ってある声だった。
その下にあるのは、尾張でも伊勢でも三河でもなかった。日輪のどこの言葉でもなかった。出雲の言葉でもない。
もっと、どこか遠く。
「小萩殿」
八千代は目を開けた。
「あなたは、わたくしがこれまで会った誰よりも、よい耳をお持ちです。一度聞いた声を、写本のように写し取る耳を」
小萩は、ぽかんとした顔をした。
「……そんなこと、言われたの、初めてだがや」
八千代は帳面に、小萩の話を全部書いた。被衣。白い指。蔓の墨。窯の名を知っていた。神無月、廊下にて札。京の言葉上手。根は京にあらず。息継ぎ、半拍ずれる。母語遠し。
分からないことは、分からないまま、書いておいた。
◾︎次回予告
・執行部の検分
・宮の奥で文を読む男
・伊勢から届いた御文




