第一章 二十五話
◾︎前回からのあらすじ
・毎朝の霜の足跡と、産後の庵
・小萩の打ち明け話。義覚が尾張の窯から弟の与一を連れ帰る
・香の師の手がかり。白く細い指の、蔓の墨
#第一章 二十五話 封じの箱と、帝の夜
翌日の昼、庵の裏門へ神祇局の使いが来た。
執行部の検分役で、石上頼胤と名乗った。四十がらみの痩せた男で、鼠色の狩衣の胸に八咫の鏡の紋を付けていた。後ろに若い祓士が三人いて、一番後ろの一人が白木の箱を抱えていた。箱の蓋には、木目が見えないほど札が貼り重ねてあった。
門の内側に義覚が立っていた。
箒は持っていなかった。手斧も持っていなかった。身の丈が門の梁に届くほどの大男が、何も持たずに門を塞いで、ただ立っていた。
石上は義覚を見上げた。驚きもしなければ、怯みもしなかった。門の幅と、義覚の立ち位置と、その頭の上の梁の高さとを、順に目で測っていくような見方だった。
「……まことに、鬼を門にお立てでございますか」
「飼われてはおりませぬな」
義覚は穏やかに言った。
「仕えております」
舞が門まで出てきて、眼鏡を押し上げて石上の口上を聞いた。
産の夜、伊勢の奥宮で主器の映りが揺れた。結界部の記しでは揺れの出どころは三河、後宮のこの庵のあたり。ついては御子二方の神気を量り、要あらば封じの札を施すべし。
「局長様の御印は」
舞が言った。
「執行部の判断にて」
「では、お通しできませぬ」
舞は少しも声を上げなかった。
「産屋は二十一日、外の方をお入れいたしませぬ。日輪のしきたりでございます。神祇局のお方なら、よくご存じのはず」
「しきたりと結界と、どちらが重いとお思いか」
「どちらも重うございます。ですから、局長様の御印をお持ちくださいませ」
石上の目が、庵の奥へ動いた。
「斎宮のお家も、聞いておいでのはず」
奥から声がした。
床の中からの低い声だった。大きな声ではなかったのに、門までまっすぐ届いた。
「だろうな」
綾月の声だった。
「黙って引き渡すと思ったか?……そんな戦力で、足りるか」
庭の霜が、きしり、と鳴った。
若い祓士たちが一歩下がった。石上は下がらなかった。霜の鳴る音を、目を細めて聞いていた。それから振り返らずに、後ろの若い祓士に小さく顎をしゃくった。若い祓士の一人が、懐から薄い帳面を出して、何か書き付けた。
さっきから、その祓士はずっと書いていた。門の脇の土塀の高さを見ては書き、屋根の上の義賢を見ては書き、庭の白砂の上の何もないところを、ときどき目を細めて見ては書いていた。
八千代は縁側の陰から、若い祓士の抱えている白木の箱を見ていた。
見るつもりはなかった。だが箱は物だった。物は見ようとしなくても、時々向こうから見えてしまう。
箱は古かった。三十年か、もう少し。使われたのは一度ではないだろう。怨念めいた祟りの気配すら漂う嫌な気配だ。八千代は目を閉じた。
「綾月様のお言葉、確かに承りました。局へ、そのまま申し上げます」
石上は深く頭を下げた。形だけではない、きちんとした礼だった。それから門を出る前にもう一度義覚を見上げて、静かに言った。
「鬼を門に立てた庵のことは、後宮でもいろいろと申されておりますゆえ。……お気を付けなされませ」
脅しなのか忠告なのか、八千代には分からなかった。たぶん、両方だった。
使いが去ったあと、半助が門の前に塩を撒いた。いつもより多く、二度。
「……お通りになるおつもりなど、初めからなかったのでございましょう」
門を閉めながら、舞が言った。
「局の検分を、綾月様が拒まれた。綾月様が、局の使いに力をお向けになった。……それを局の記しに残しに来られたのでございます。帳面の方は、門の守りと、結界の継ぎ目」
舞は眼鏡を押し上げた。
「次に来られる時は、局長様の御印と、今日の記しと、両方をお持ちになります。手堅いお方でございます」
八千代は門の方を見た。あの若い祓士が、庭の何もないところを目を細めて見ていたのを思い出した。そこには義賢の結界の、目に見えない縫い目が走っているのだった。
「……執行部は、やかましい」
屋根の上で、義賢が煙管を咥えたまま言った。
「……あの箱、見たかい、嬢ちゃん」
「……はい」
「忘れな。……あれを持って歩く奴らはね、あれが何を入れる箱か、ちゃんと分かってるのさ。分かってて、持って歩ける。日輪を守るためならね。そこが一番、おっかないんだよ」
八千代は帳面を開かなかった。開いても、書けない気がした。
◇
その夜、尾張の都、日輪京の宮の一番奥で、一人の男が文を読んでいた。
夜だった。灯石ではなく、古い油の灯が一つ。男は黒い狩衣の上に羽織を引っ掛けて、脇息にもたれ、目の下の隈を指で揉みながら、膝の上の紙を見下ろしていた。
紙は写しの写しだった。
摂津口の写し方が網の端で写し取った出雲の文を、さらに誰かが写し取って、夜のうちに尾張まで運んできたものだった。帝の耳、と宮の者たちは呼んでいる。どこにでもいて、誰でもない者たち。関所の文使いの中にも、後宮の下働きの中にも、三河の庵の門に立つ防人の中にも。
「朝霧の当主より、三河の娘への文にございます」
御簾の外で、低い声が言った。
「表は、娘の身を案じる父の文。香の具と毒消しの丸薬を送る、と。滞在は御産の後まで差し支えなし、と。娘の返事は、承り候、知らせの品心待ちに候、御産を見届けたく候。……以上にございます」
「そうか」
男は紙から目を上げなかった。
表には、何も書いていなかった。書いていないことを、男は読んでいた。一文ごとに改められた行。最初の行の頭の、胡麻粒ほどの点。
出雲の帝の筋に伝わる、古い読み方だった。日輪の帝の筋にも、遠い昔に分かれた枝から、同じ読み方が伝わっている。知っている者は、日輪には、もう男一人しか残っていない。
後宮香毒有り。留まりて、援けよ。
承知仕る。
男は声を立てずに笑った。
「出雲の狸め。娘を、後宮の毒見に置くか」
灯がゆらりと揺れた。
男の耳の奥では、今夜も、大勢の声が鳴っていた。籠められた山の神々の唸り。遠い湖の底の呻き。日輪じゅうの、言葉を持たないものたちの、言葉にならない声。その声の隙間で、三河の小さな庵の中の、赤子二人の寝息だけが、男には、ひどく静かに聞こえた。
「伊勢より、斎王様の御文が届いておりまする。……繋ぐ子、次に座るべし、と。朝議は明日、開かれまする」
「知っておる」
男は目を閉じたまま言った。
「止められましょうか」
「止まらん。国が要ると言うたものは、帝にも止まらん」
男は灯の火を見た。
「……十年は取る。そう書いて、置いてきた」
「それと、今日の昼。執行部の石上が、三河の庵へ」
「聞いた」
男は目を閉じたまま言った。
「封じの箱を抱えてか」
「は。斎宮様に、追い返されましてございます」
「追い返されに行ったのだ。石上の後ろには執行部の半分がおる。残りの半分は、黙って見ておる」
男は首の後ろを揉んだ。
「局長に宸筆を一枚。三つの御鏡参りまで、勝手に御子に手を触れること罷りならん、と」
「それで、執行部は黙りましょうか」
「黙らん。黙らんが手は止まる。少しの間はな」
灯がまた揺れた。
帝の筆は、日輪の大抵のものを止める。だが止めたものは、止まっているだけで消えはしない。男はそれを、誰よりもよく知っていた。
「香の師は、まだ見つからぬか」
「神無月の末より、どこにも。後宮の中にも、外にも」
「後宮の中に、残り香はあるか」
「……御殿の数が多く、表から嗅ぎ回れば、気取られまする」
「そうであろうな」
男は紙を畳んで、灯の火にかざした。紙は燃えて、灰になった。
「ならば、嗅ぎ回らせずに、嗅がせればよい」
男は脇息から身を起こした。
「菓子を用意せよ。京の干菓子。尾張の落雁。伊勢の餅菓子。三河の柿の菓子。美濃の栗の菓子。九十箱」
「……九十」
「双子の祝いだ。二人分ゆえ、多めに。三河の庵へ届けよ。文を添える」
男は筆を取った。甘い退廃の匂いのする字で、二行だけ書いた。
二人分ゆえ、多めに。
後宮の隅々まで、よしなに。
「それから、神祇局に命じよ。執行部の封魔監から一人。記録部から一人。三河の庵へ、警護に付けよ」
「執行部から、でございますか」
「執行部が嗅ぎたいのなら、中に一人置いてやれ。外から嗅ぎ回られるよりはましだ。……封魔監は、飛龍がよい」
「飛龍は、腕は封魔監でも指折りと聞きまする。されど、隠し事のできぬ男とも」
「だからよい。綾月は、腹に何か隠した者を傍に置かん。あれには護衛とだけ言え。それで嘘にはならん」
「では、見張りの方は」
「局が、もう一人の方に持たせるだろう。わしが言わずともな」
「記録部からは」
「あの、式3つを連れた者がよいな」
「……あれは記録部の札を下げてはおりますが、局長の懐刀でございますぞ」
「だから、だ」
男は短く言った。
「記録部は、御子様方を覗きに参りましょう」
「好きに覗かせておけ。覗きに来た者は、自らも覗かれる」
男は筆を置いて、また脇息にもたれた。目を閉じた。
綾月は気付くだろう、と男は思った。九十箱の意味に。気付いて、胡散臭いと言うだろう。
それでよい。
◾︎次回予告
・帝の祝い
・独り占めすると、神さんが妬む
・十二の御殿




