終焉を終えた世界
少女は、道端にしゃがみ込むボロボロの姿の男に近付いた。
少女の目に映る青年は、疲弊しているようには見えず、かといって元気そうには見えない。
少女は考えていた。
どうして彼がそこに座っているのか、どうして彼は俯いているのか、どうして自分が声を掛けても反応を示さないのか、どうしてこんなにも汚れているのかをだ。
肩を揺すっても俯いたまま自分の方を見ることすらしようとしないこの男が青年だと、どうしてそう思ったのかはわからなかった。しかし、少女は確かにその汚れた男が青年だと気付いたのだ。
少女は、青年の傍らに腰を下ろし、その隠された顔を覗き込んだ。
目は半分だけ開かれたまま瞬きもせず、力なく垂れ下がった口からは、舌と涎が溢れている。虚ろというのが正しいかもしれないと少女は思った。
きっと彼は病ではなく、ただ虚ろなのだと。
そんな青年の隣に同じ向きで座り直した少女は、どうしてか青年の隣にいることで心が落ち着いていた。
それが寄り添った彼の肌から伝わる温かさによるものなのか、遠く深くに眠る自身の記憶によるものなのか、少女は少しだけ考えた。
一定の呼吸をするばかりで身動ぎすらしない青年は、一体いつからこうしているのか。少女はそれが少しだけ気になったので聞いてみると、青年の顔を覗き込んだ少女の目を彼は見た。そして、眼球の動きを追うようにして頭を向け、顔を上げ、彼女のその少し変わった瞳を見つめたのだ。
黄色みの強い薄い茶色のまるで虎の目のようなその瞳を。
青年はそれに引き込まれるように体を少女の方に向けると、ゆっくりとおぼつかない様子で腕を伸ばし、少女の頬を撫でた。
その時、青年が少女に向かって何か呟いたが、少女にはそれが聞き取れなかった。
何と言ったのか彼にもう一度問うたが、彼は少女の目をじっと見つめたまま涙を流すばかりで何も話そうとはしなかった。
「と……と……うさん?」
少女は若干ためらいながら、思い浮かんだ言葉を口にした。
少女には父がいる。しかしそれは彼では当然ない。
それでも彼女はその汚れた青年の目を見つめて、なぜか彼をそう呼んだのだった。
瞬間、少女は混乱した。
それは、自分がなぜそんなことを口走ったのかではなく、そう言葉を発した瞬間に彼のことが思い出せたからだった。齢十二年の歴史の中で、彼という情報は一切なかった。
それなのに、彼女は彼を思い出したのだ。
父と呼んでいたこと、少し情けないと思っていたこと、それでも頼りにしていたこと、そして大好きだったことを。
どこであったのか、そんなことを考える必要はなかった。
どうして思い出せるのか、それを考える必要はなかった。
ただ、少女はこの時を待っていたように感じていた。
「父さん! 父さん!」
少女がそう呼ぶ度に、青年は何かを取り戻していくようだった。
目には輝きが戻り、表情に生気が満ち始めた。
少女は、青年を呼びつづけた。
すると、一人の男が少女に向かって「大丈夫か」と声を掛けた。
少女は、男を見上げた。
しかし、男は「一人か? 両親はどこにいる?」と言う。男には彼が見えていないようだった。
「一人じゃないよ! ここに人がいるの!」
少女は声を荒げた。
一瞬それを訝しげに眺めた男だったが、少女が両手を伸ばして抱きつくようにしているそこに視線を写した瞬間、男にも青年が見えた。
「ラ……ラス?」
「らす? なあにそれ?」
「……わからない。どうして俺がこんなことを……」
男にも少女と同じく、経験にないのに思い出せることがあったのだ。
青年の名はラス。理性的で慎重で自由な男だということ。男を見上げる青年の顔に見覚えはないが、どうしてか男は彼を知っていた。
青年は、涙を浮かべたまま、少女を見、男を見上げていた。
口を何度も開閉し、何かを話しているようにも見えたが、二人にはその声が聞こえない。
少女は青年の口元に耳を寄せ、彼が何を言っているのか聞き取ろうとした。
青年の冷たい吐息が少女の耳にかかり、それはともすれば錯聴とも思えるような空気の破裂は、少女の耳には確かに「やっと会えた」と言っているように聞こえた。
青年がどうしてそんなことを言うのか疑問はなかった。少女自身も不思議とそう感じていたために、そこに差異がないようにすら感じていた。
父さんと、呼べば呼ぶほどにまるでそれが事実としての過去のように理解し始めていたからだ。
しかしその時、青年は再び表情を失い、動力の切れたからくりのように力なく項垂れ、そして元のように俯いて座り込む姿に戻ったのだった。
少女は呆然とし、愕然としながら、自身の行動に疑問が湧き上がった。
振り向くと、先程声をかけてきた男はもうそこにはいなかった。少し遠くに背の高いその背中が見えていた。
少女は、去りゆく男の背中を確認した後にふとしゃがみ込む青年の方へ視線を移したが、彼はそこにはいなかった。物理的な存在としていなかったわけではない。
少女が、彼を認識できなくなったのだった。
少女の感情は一瞬だけ、失われていた。今見たものの記憶、何故か思い出すことのできた不明の記憶、それらが失われたからだ。
嬉しかったはずなのに。
それを失って彼女はしかし、失ったことすらもう覚えてはいなかったのだ。
ほんの道端、そのフェンスの端に腰を掛けていた少女は立ち上がり、一度だけ小首を傾げて目の前を流れていく人並みに混ざりこんだ。




