第九章 闇夜の手帳
ハブターミナルの焼け跡で、配島は三日三晩、ほとんど眠らなかった。
ガリクが食事を運んできた。配島は半分も食べられなかった。ミレナが何度か様子を見に来た。配島は短く頷くだけで、ほとんど口を開かなかった。
彼の前には、いつも二つの束が、置かれていた。
ガリクの古い手帳。
ノルトの残した、点検簿。
配島はその二つを、繰り返し、めくった。
そして、自分が何かを探していることに気づいた。
何を探しているのか、自分でも、分からなかった。
ただ、めくり続けた。
四日目の朝。
ガリクが、もう一冊の手帳を、配島の前に置いた。
「これは」
「俺の、最初の手帳だ。お前さんが、俺に点呼をしてくれた、最初の朝から、書いてある」
配島はその手帳を開いた。
最初のページは、半年前。あの、ノーレ村の宿の、最初の朝だった。
ガリクの不器用な字で、こう書かれていた。
「本日、街道で拾った男に点呼を受けた。妙な男だが、悪くない」
配島は次のページをめくった。
「ハイジマ・トオル。点検簿を作る。御者全員に説明させる。俺が後ろから睨む」
次のページ。
「ハイジマ、王都へ向かう。城門の手前で、何やら考え込んでいる。俺には分からん」
次のページ。
「ハイジマ、ボル様に提案。中継拠点の話。ボル様、即決」
配島はめくり続けた。
ガリクの字は、毎ページ、配島の動きを、追いかけていた。
配島が見落としていた、自分の半年間の歩みが、ガリクの手帳の中に整然と、記録されていた。
あるページに、こう書かれていた。
「本日、配島殿、健康。声の張りよし。腰、左、わずかに庇うように歩く。先月の長距離移動の疲れか。配達員に伝え、事務作業を多めに回すよう手配」
配島はその記述を、読んだ。
ガリクは配島の体調を、配島自身よりも、よく見ていた。
配島は頁をめくる手を止めた。
目の奥が、熱かった。
ノルトの点検簿を、もう一度めくった。
ノルトの几帳面な字。
最後のページの、最後の一行。
遺体と一緒に発見された、その点検簿の最後に、ノルトはこう書いていた。
「本日、出発。ハブターミナル夜警隊長、ノルト・カエス。点呼者、ハイジマ・トオル。所感、ハイジマの点呼は生きてる感じがする。あれは家に帰る、という感じに似ている」
配島はその一行を、何度も読んだ。
家に帰る、という感じ。
ノルトはそう、書いていた。
配島は自分の口の中でその一文を、繰り返した。
ノルトは家を持たない男だった。
冒険者上がりの粗野な男で、両親を早くに亡くし、王都の貧民街で育った男だった。
彼にとって配達ギルドの朝の点呼が、家に帰る感じ、だった。
配島の目から、また、何かが、こぼれた。
今度の何かは、悲しみではなかった。
もっと、別の温かい、何かだった。
ミレナが、闇の中から、現れた。
彼女は配島の隣に何も言わずに座った。
しばらく、二人は、何も話さなかった。
ミレナが、最初に口を開いた。
「ハイジマ。手紙を、預かっているの」
「手紙」
「マリアの。彼女が、亡くなる前夜に、書いたもの。あなたへの手紙よ」
ミレナは四つ折りの羊皮紙を、配島に、差し出した。
配島はそれを受け取り、開いた。
マリア・コーレンの、不器用だが、丁寧な字で、こう書かれていた。
「ハイジマ・ギルドマスターさま。今日、私のことをお名前で呼んでくださってありがとうございました。私は夫を亡くしてから自分の名前を呼ばれることがほとんどありませんでした。ハイジマさんは毎朝、私の名前を呼んでくださいます。私は毎朝、自分が誰なのかを思い出します。私は、マリア・コーレンです。私は、夫の死後も、まだ生きています。ハイジマさんのおかげで、私は、生きています。ありがとうございます。明日も、お仕事、よろしくお願いします」
配島は手紙を、読み終えた。
涙は、もう出なかった。
代わりに、彼の身体の中の奥のほうで、何かがゆっくりと立ち上がった。
点呼。
毎朝、相手の目を見て、名前を呼び、応答を聞く。
ガリクの記録の中でノルトの記録の中でマリアの手紙の中で配島はようやく自分の点呼の意味を、理解した。
点呼は、安全確認の儀式ではなかった。
点呼は、相手に「あなたは、ここにいる」と、伝える儀式だった。
あなたは、生きている。
あなたは、ここに、いる。
あなたを、私は、見ている。
点呼はその三つを、毎朝相手に伝えていた。
半年間、毎朝、配島はそれを、伝えていた。
彼自身が、伝えていることに、気づかないままで。
配島はゆっくりと立ち上がった。
ミレナが、彼を見上げた。
「ハイジマ。何かが見えた?」
「はい」
「教えて」
配島はハブターミナルの焼け跡の、中央に立った。
空には欠けた月が、出ていた。
欠けた月は、地球の月と、同じ形だった。
彼はまず、マリア・コーレンの墓標が、ハブターミナルの片隅に、置かれている方角に向き直った。
墓標はまだ仮のものだった。粗く削った木の板に、ガリクの不器用な字で「マリア・コーレン 夫の遺族」とだけ書かれていた。
「マリアさん」
配島は墓標に向かって呼びかけた。
「自分は、あなたから、教わりました。点呼が、何のためにあるかを、教わりました」
月の光が、墓標の表面に、わずかに反射した。
「自分は、これから、ガル・ジングジに、会いに行きます。あなたが、最後の手紙で、自分に、教えてくれたことを、あの人にも、伝えに行きます」
配島は深く頭を下げた。
「あなたは、ここに、いる。あなたを、私は、見ている。それを、彼に、伝えに、行ってきます」
返事は、なかった。
風が、墓標を、わずかに揺らした。
配島はその揺れを、返事と、受け取った。
彼はようやく振り返り、ミレナの方を見た。
「ガル・ジングジは毎朝、部下に、点呼をやらせています。でも、彼は形だけしか、やっていません」
「……うん」
「彼にとっての点呼は、上から、下を、確認する儀式です。下が、上の言うことに、従っているかを、確かめる儀式です。彼は、部下の名前を、覚えていません。部下の体調も、見ていません。彼は、部下を、番号で、扱っています」
「……」
「自分の点呼は、違います。自分は、部下の目を、見ます。部下の名前を、覚えます。部下が、いつもと違う日があれば、気づきます」
「……」
「半年前、ヤン・ハフナーが、敵の工作員に、入れ替わった日。自分は、ヤンの『絶好調』という、たった一言の口癖の違いで、気づきました。半年間、毎朝、ヤンの点呼を、自分でやってきたから、気づけました」
ミレナは配島を、見上げていた。
「点呼は、敵を、炙り出せるんです」
ミレナは唇を引き結んだ。
「ハイジマ。あなたが、何を、考えているか、分かったわ」
「はい」
「あなたは、ノクスタリア帝国の軍隊全員に、点呼を、するつもりね」
「全員、ではありません」
「では、誰に」
「ガル・ジングジ参謀の、直属の部隊全員に、です」
配島は月を見上げた。
欠けた月の下で、彼は深く息を吸った。
「あの男は自分の前世の、神宮寺慶介です。それを、自分の点呼で、暴きます。あの男が、ヴェルデン王国の前で自分と同じ世界から来たことを、認めさせます」
「認めさせて、どうするの」
「神宮寺は自分のことを、誰でもできる仕事だと、ずっと言っていた人間です」
配島は一拍、間を置いた。
「自分は、その人間に、自分の仕事を、見せます。誰でもできる仕事じゃ、ないということを、見せます」
ミレナは立ち上がり、配島の隣に立った。
「ハイジマ。あなた、変わったわね」
「自分が、ですか」
「半年前、あなたは自分のことを、ただのドライバー、と呼んでいた。今のあなたは自分のことを、ハイジマ・トオル、と呼んでいる」
配島は自分の手を見下ろした。
手のひらは、汚れていた。焼け跡の煤と、長い徹夜の疲れで、皮膚は荒れていた。
しかし、その手は、震えていなかった。
配島はゆっくりと口の端を上げた。
笑う、というほどの動きではなかった。
ただ、そう、上げた。
夜が明ける前、配島はもう一度ガリクの最初の手帳を開いた。
最初のページの、最初の一行。
「本日、街道で拾った男に点呼を受けた。妙な男だが、悪くない」
配島はその一行を、長く見つめた。
ガリクがこの一行を書いた朝、配島は自分が何者でもなかった。記憶のない、ただの男だった。
しかし、ガリクはその男に、点呼を、受けた。
そして、それを、悪くない、と書いた。
配島の人生で彼の仕事を「悪くない」と書面で評価してくれた人は、たぶんガリクが最初だった。
扉が開いた。
ガリクが、入ってきた。彼の腰には、いつもの革帯が、巻かれていた。
「ハイジマ。出るぞ」
「はい」
「お前さん、決めたか」
「決めました」
ガリクは配島の前に立った。
彼は配島の目を覗き込んだ。
「ハイジマ・トオル。本日のご体調は」
配島は目を、見開いた。
「ガリクさん」
「答えろ」
「……自分は、健康です。声の張り、十分。血色、十分。本日も、よろしくお願いします」
ガリクは頷いた。
「お前さんから、教わった通りに、やってやった」
「……ありがとうございます」
「お前さん、行ってこい。俺が、ここを、守る」
配島は深く頭を下げた。
ガリクは配島の肩を、軽く、叩いた。
翌朝、配島はガリクとミレナを連れて、王宮の謁見の間へ向かった。
エリザ王女は、彼らの来訪を、すでに察していたかのように、執務机の前で待っていた。
「ハイジマ。あなたの顔が、変わった」
「殿下。一つ、お願いが、あります」
「言って」
「和平の調印式の場で、自分に、ガル・ジングジ参謀の部隊全員への『点呼』を、許可してください」
エリザは、眉を上げた。
「点呼。あなたが、毎朝やっている、あの儀式」
「はい」
「目的は」
「ガル・ジングジの部隊の中に潜伏している、変身魔法を使う者と、洗脳されている者を、炙り出します。同時に、ガル・ジングジ自身が、自分と同じ世界から来た転生者であることを、証明します」
エリザは、長く配島を見つめた。
「ハイジマ」
「はい」
「これは、外交の儀礼を、無視する行為になる」
「分かっています」
「失敗すれば、ヴェルデン王国は、戦争を、避けられなくなる」
「分かっています」
「成功する、自信は」
配島は答えた。
「自分は、半年間、毎朝、配達員一人一人に、点呼を、続けてきました。途中で、止めたいと思った日も、ありました。でも、止めませんでした」
「……」
「自分の仕事は、毎朝、それを、続けることでした。誰にも、評価されない仕事でした。でも、その仕事だけは、自分が、自分のために続けた仕事です」
「……」
「自信があるか、と聞かれたら、ありません。でも、自分のやってきた仕事を、信じる気持ちは、あります」
エリザは深く頷いた。
「許可する。和平の調印式の場で、あなたに、ガル・ジングジ参謀の部隊への点呼を、認める」
配島は深く頭を下げた。
謁見の間を出ると、ミレナが、配島の隣に立った。
「ハイジマ」
「はい」
「あなたが、調印式の場で、点呼を始めた瞬間、ノクスタリア帝国は、それを、宣戦布告と、受け取るかもしれない」
「……はい」
「覚悟は、ある?」
配島は頷いた。
「自分の点呼は、宣戦布告じゃ、ありません。確認です。あなたは、誰ですか、と問う、確認です」
「……」
「もし、あちらが、それを、宣戦布告と、受け取るなら、それは、あちらが、最初から、自分の身分を、隠していた、ということです」
ミレナは長く配島を見つめた。
それから、彼女は配島の腕を、軽く、握った。
「私も、あなたの隣に立つわ」
「……はい」
「私が、ガル・ジングジの応答を、記録する。あなたは、点呼に、集中して」
配島は頷いた。
頷きながら、彼は空を見上げた。
欠けた月は、もう空にはなかった。
代わりに、朝の空が、白み始めていた。
配島はその白い空に向かって口の中で呟いた。
「神宮寺さん。お久しぶりです」




