第十章 真名の点呼
和平の調印式は、ヴェルデン王国の国境に近い、テルベ峠の中腹の古い修道院で行われることになった。
修道院は両国がかつて共同で建てた、聖アルテリオス派の中立施設だった。和平交渉の場としては地理的にも政治的にも適切な場所だった。
修道院は灰色の石を積み重ねた、簡素な建物だった。屋根は薄い石板で葺かれていた。中庭は円形の石畳で、中央に古い井戸が一つだけ残されていた。
配島たち一行は、調印式の前夜、その修道院に入った。
夕食は修道院の長老が自分たちで作ったパンと、山羊のチーズと、麦のスープだった。配島はその質素な食事の中で自分の身体が、不思議なほど緊張していないことに気づいた。
明日、自分は、神宮寺慶介と、対峙する。
ヴェルデン王国の存続が、自分の点呼に、かかっている。
それなのに、配島の手は、震えていなかった。
ミレナが、夕食の後、配島の隣に座った。
「ハイジマ。怖くないの」
「怖くは、ありません」
「強がりじゃ、なくて」
「強がりじゃ、ないです」
「では、何」
配島はしばらく考えた。
考えたうえで、彼は答えた。
「自分は、これから、自分の点呼を、するだけです。半年と二ヶ月、毎朝、続けてきたことを、明日も、続けるだけです」
「ガル・ジングジ参謀の、部隊三十名に、点呼をするのも、続けるだけ」
「はい」
「彼自身に、点呼をするのも」
「はい」
ミレナはしばらく配島を見つめた。
それから、彼女は低く、笑った。
「ハイジマ。あなた、本当に配達員の、顔をしているわ」
「配達員、ですから」
「うん」
ミレナは立ち上がり、自分の部屋へ、戻った。
配島は修道院の中庭に出て、井戸の縁に、腰を下ろした。
夜空を見上げた。
星空はほぼ地球と同じ星空だった。少し星座の形が違う気がした。
配島はその星空に向かって口の中で呟いた。
「神宮寺さん。明日、お会いします」
返事は、なかった。
しかし、星空の高いところで、流れ星が一つ、東から西へ流れた。
調印の日は、春の終わり。
午前九時。
修道院の中庭。
円形の石畳の中央に、長卓が一つ。
卓の片側に、ヴェルデン王国の代表団。エリザ王女、外務大臣、配達ギルド代表として配島とミレナ。
卓の反対側に、ノクスタリア帝国の代表団。ガル・ジングジ参謀を団長として、副官二名、そして護衛として精鋭部隊三十名。
修道院の鐘が午前九時を告げ、しばし石畳の上に余韻を残した。配島はその余韻が消えるまで、自分の呼吸の数だけ目を伏せていた。
顔を上げた時、彼の手のひらに、わずかな汗が、浮いていた。
しかし、その汗は十二年前の朝、神宮寺の前で点呼を受ける時に浮いていた汗とは違う種類のものだった。
あの汗は、恐怖の汗だった。
今の汗は、覚悟の汗だった。
配島はガル・ジングジの目を、まっすぐに見つめた。
ガル・ジングジは薄く笑った。
その笑い方は、相変わらず、神宮寺慶介の、あの、左の口角だけを上げる笑い方だった。
調印の口上が、ヴェルデン王国の外務大臣によって読み上げられた。
ノクスタリア帝国側の口上が、ガル・ジングジの副官によって続けて読み上げられた。
全ての形式が、整った。
あとは、両代表が、卓の中央の調印書に、署名するだけだった。
ガル・ジングジが、羽根ペンを、手に取った。
その時、エリザ王女が、立ち上がった。
「お待ちなさい」
ガル・ジングジはペンを止めた。
「殿下。何か」
「調印の前にヴェルデン王国側から、一つ、儀礼を行いたいのです」
「儀礼」
「我が国の、配達ギルドの長、ハイジマ・トオル殿が、貴国の参謀殿および、その部隊への『点呼』を、執り行います」
修道院の中庭が、しん、と、静まり返った。
ガル・ジングジはわずかに眉を上げた。
「点呼、というのは、私が、以前にお伺いした、ハイジマ殿の故郷の伝統ですか」
「伝統です」
エリザは、はっきりと答えた。
「我が国においては、外交の正式な儀礼の前に相手の代表団全員の、無事と、健康を、確認する儀礼として、認められております」
それは、エリザがその場で、半ば作り上げた建前だった。
しかしエリザは、その建前を、王女としての絶対的な威厳とともに、口にした。
ガル・ジングジはしばらく無表情だった。
彼の左目の銀の単眼鏡が、一度、光を反射した。
「殿下。私の部隊は、軍人です。軍人に対しては、軍の上官以外の点呼は、原則として、認められません」
「貴国の規定ですか」
「はい」
「では、今この場で、特例を、認めていただけませんか。これは、両国の和平の、最初の儀礼です」
ガル・ジングジは副官と、目を交わした。
配島はそのやりとりを、見ていた。
ガル・ジングジは明らかに、点呼を、避けたがっていた。
しかし、断れば、ヴェルデン王国側の儀礼を拒んだことになる。和平の場で相手国の儀礼を拒むのは、外交的な大失策だった。
ガル・ジングジは長い息を吐いた。
「分かりました。ご厚意に、お応えしましょう」
配島は立ち上がった。
彼は卓の自分の側を、ゆっくりと離れた。
円形の中庭の中央に立った。
ノクスタリア帝国の精鋭部隊三十名が、彼の前に横一列に、整列していた。
配島は深呼吸を、一つだけ、した。
そして、最も近い、右端の兵士の前に立った。
兵士の目を覗き込んだ。
「お名前を、伺います」
兵士は、迷うように、ガル・ジングジの方を見た。
ガル・ジングジはわずかに頷いた。
兵士は答えた。
「ロベル・ヴァランです」
「ロベル・ヴァランさん。本日のご体調は、いかがですか」
「異常、ありません」
配島はその目を、二秒、見つめた。
兵士の目は、生きていた。
配島は頷いた。
「本日も、よろしくお願いします」
彼は次の兵士へ、進んだ。
二人目の兵士。
三人目。
四人目。
五人目。
配島は一人一人、目を覗き込み、名前を呼び、応答を聞いた。
応答の声、目の動き、頬の血色、肩の張り、呼吸のリズム。
彼の身体の中に半年間、蓄積されてきた点呼の経験が、自動的にそれぞれの兵士の状態を評価していた。
ロベル・ヴァランは、生きていた、本物だった。
二人目、三人目、四人目、本物。
五人目で、配島の指が、わずかに止まった。
目の前に立っているのは、二十代後半の、長身の兵士だった。名乗った名前は、シリル・コーレス。応答の声は低く落ち着いていた。
しかし、目の焦点が、配島の顔の少し横を、見ていた。
配島はもう一度問うた。
「シリル・コーレスさん。昨日の夕食は、何でしたか」
その問いは、点呼の標準項目には、ない問いだった。
兵士は、わずかに瞬きをした。
「兵糧の、塩漬け肉と、麦のスープ、です」
配島は頷いた。
しかし、彼の身体の中で警告が、鳴った。
ノクスタリア帝国の遠征軍は二日前から、現地の修道院の食料を緊急で買い上げていた。それはヴェルデン王国の諜報官が配島に伝えた情報だった。昨日の夕食は塩漬け肉ではなく、修道院の自家製の発酵チーズと白パンだった。
この兵士は、本物の、シリル・コーレスではなかった。
配島はしかし、表情を、変えなかった。
彼は頷いて、次の兵士へ、進んだ。
六人目から、十一人目。
全員、本物。
十二人目で、また、配島の指が止まった。
目の前の兵士は、若く、二十歳ほどに見えた。彼の応答は、ぎこちなかった。
配島は彼の名前を、確認した。「テオ・マルニア、です」
配島は彼に、もう一つ問いを、足した。
「テオ・マルニアさん。あなたの、ご出身は」
兵士は、一瞬、答えに、詰まった。
「北部の、フェレント村、です」
ノクスタリア帝国の北部に、フェレントという名の村は、なかった。
配島は頷き、次の兵士へ、進んだ。
配島は三十名の点呼を、最後まで、行った。
そして、再び最初の兵士の前に戻り、卓の方を振り返った。
ガル・ジングジは立ち上がっていた。
彼の額には、わずかに汗が、浮いていた。
配島は卓の前まで、歩いた。
「ジングジ参謀」
「……はい」
「あなたの部隊三十名のうち、二名は、別人です」
修道院の中庭が、再びしん、と、静まった。
「証拠は」
ガル・ジングジは声の抑揚を抑えていた。
「五人目の兵士、シリル・コーレスを名乗った人物は、昨日の夕食の内容を、誤って答えました。十二人目の兵士、テオ・マルニアを名乗った人物は、ご出身の村の名を、実在しない名で、答えました」
ガル・ジングジは唇を、引き結んだ。
配島はそのまま、続けた。
「そして、ジングジ参謀。あなたにも、点呼を、行わせていただきます」
ガル・ジングジはわずかに後ずさった。
しかし、彼はすぐに姿勢を、戻した。
「結構です。私は、ノクスタリア帝国の参謀本部の人間として、ヴェルデン王国の儀礼を、お受けします」
配島は卓を回り、ガル・ジングジの前に立った。
二人の距離は、ほぼ、向き合いの腕一本分だった。
配島は深く息を吸った。
そして、ガル・ジングジの目を、まっすぐ、見つめた。
神宮寺慶介の目だった。
配島の頭の中で一つの記憶が、過った。
半年前、ヤン・ハフナーの身体を乗っ取った工作員が、自分の前で倒れた夜のこと。
あの時、配島は本物のヤンが、もうどこにも、いないことを、悟った。
ヤンは、死んだ。だが、配島の記憶の中には、ヤンの「絶好調っす」という朝の声が、まだ残っていた。
点呼は、生きている人を、生きている、と確認するためだけの儀式ではない。
いなくなった人を、いた、と確認するための、儀式でも、あった。
だから、止められない。
止めれば、いなくなった人が、最初から、いなかったことになる。
配島は修道院の中庭で、その確信を、噛み締めながら、目の前の――ガル・ジングジ参謀――の顔を見つめた。
配島は自分の声で、問うた。
「お名前を、伺います」
ガル・ジングジは答えた。
「ガル・ジングジ。ノクスタリア帝国参謀本部、第一参謀補佐官」
「ガル・ジングジ参謀。本日のご体調は、いかがですか」
「異常、ありません」
配島はもう一つ、問いを、足した。
その問いは、配島が半年間、毎朝の点呼で一度も口にしなかった問いだった。
配島はゆっくりと口を開いた。
「ガル・ジングジ参謀。あなたは、運行管理者試験に、何年に、合格しましたか」
ガル・ジングジの、目が、わずかに見開かれた。
ほんの、半秒、だった。
しかし、配島はその半秒を、見逃さなかった。
ミレナの羽根ペンが、その半秒を、すかさず、記録していた。
ガル・ジングジは姿勢を、わずかにぐらつかせた。
しかし、彼はすぐに表情を、立て直した。
「失礼。ただいまの、ご質問の意味が、私には、理解できかねます」
配島は頷いた。
「失礼しました。日本語の、業界用語が、混じってしまいました」
日本語、という言葉を、配島ははっきりと、口にした。
ガル・ジングジの周囲のノクスタリア帝国の副官たちが、首を傾げた。
しかし、ガル・ジングジ本人だけは、その語を、聞き取れていた。
彼の喉が、かすかに、動いた。
配島は続けた。
「ガル・ジングジ参謀。最後に、もう一つ、伺います」
「……はい」
「あなたは、私の、誰でもできる仕事を、覚えていらっしゃいますか」
配島のその問いに、ガル・ジングジの右手が、剣の柄に伸びた。
配島は動かなかった。
ガル・ジングジの周囲では、ヴェルデン王国の護衛が、すでに剣を抜いていた。
配島はガル・ジングジの目を見つめたまま、最後の言葉を、口にした。
「神宮寺慶介さん。お久しぶりです」
ガル・ジングジの口元が、わずかに震えた。
その震えを、修道院の中庭にいた全員が、見ていた。
彼は剣の柄から、手を、離した。
そして、ゆっくりと左の口角だけを上げた。
あの、神宮寺の笑い方だった。
「……お前か。ハイジマ」
声は、ガル・ジングジの声ではなかった。
神宮寺慶介の、あの、低く、人を見下ろす声だった。
修道院の中庭が、揺れた。
大地が震えた。
空の彼方から、低い、軍鼓の音が、響いてきた。
ノクスタリア帝国の大軍が、テルベ峠の北側の斜面に、すでに布陣していた。
和平は、破綻した。




