第十一章 最後の配達
修道院の中庭で、ヴェルデン王国の護衛とノクスタリア帝国の精鋭部隊との、混戦が、始まった。
配島はミレナの腕を引いて、エリザ王女の周囲に、駆け寄った。
エリザは、護衛長に、短く命じた。
「全員、退却。修道院の地下回廊を、使う」
「殿下、敵は」
「敵は、ハイジマに、任せて」
エリザは、配島の方を振り返った。
「ハイジマ。私はあなたに、もう一つ、頼みごとを、しなければならない」
「はい」
エリザは自分の腰の革袋から、巻物を、取り出した。封蝋の印は、王家の薔薇だった。
「これは、王の、最終勅命書よ。ヴェルデン王国は、ノクスタリア帝国に対して、いかなる和平にも、降伏にも、応じない、と、明記してある」
「殿下」
「これを、王都ヴェルディンの、議会場まで、届けて」
配島は巻物を、両手で受け取った。
「議会場に届けば、議会は、これを公示する。公示されれば、たとえ私や、私の父王が、捕らえられても、ヴェルデン王国は、降伏できない」
「はい」
「届かなければ、議会は、降伏文書に、印を押すことになる。降伏文書は、すでに敵が用意している」
配島は巻物を、自分の旅装の懐に、収めた。
懐の内側で、巻物の重みが、彼の心臓のすぐ脇に、寄り添った。
エリザは、配島の肩に、手を置いた。
「ハイジマ」
「はい」
「無事に、届けて」
配島は深く頭を下げた。
「お任せください。これは自分の仕事です」
配島はミレナとガリクと共に、修道院の南門から外に走り出た。
南の街道を、王都ヴェルディンまで、馬の早駆けで、五日。
しかし、ノクスタリア帝国の精鋭が、すでに街道の各所に、潜んでいる。
配島は走りながら、頭の中で地図を組み立てた。
街道を、まっすぐ、走るのは、自殺行為だった。
彼の頭の中に配達ギルドの、すべての中継拠点と、すべての配達員の住居の地図が、入っていた。
彼はそれを、使うことにした。
配島は南東の、人気のない山道へ、馬を向けた。
ガリクが、馬上で、叫んだ。
「ハイジマ、こっちは王都の方角じゃないぞ」
「分かっています、ガリクさん」
「じゃあ、どこへ」
「焼け残った、配達ギルドの、東十二区の中継拠点へ。そこで、馬を乗り換えます」
ガリクは頷いた。
配島は五日かかる道のりを、四日で、走破することを、計画した。
計画は、配達ギルドのわずかに残った生きた中継拠点を、繋いで使うことだった。
各拠点で馬を交換し、食料を補給し、休憩を取らずに走る。
配達員たちは、配島の到着を、まるで予期していたかのように、迎えた。
最初の中継拠点で配島が馬を降りると、初老の配達員が新しい馬の手綱をすでに握って立っていた。
「ハイジマさん。お待ちしてました」
「どうして、自分が、来ると」
「昨夜、ノルトさんが、夢に、出ました」
配島はその答えに、息を呑んだ。
「ノルトさんが、言いました。ハイジマが来る。馬を準備しろ、と」
配島は頷いた。
頷きながら、目の奥が、熱くなった。
彼は馬に、跨った。
次の中継拠点でも、また次の中継拠点でも、配達員たちは配島を待っていた。
彼らは口々にノルトの夢の話をした。あるいは、誰かの虫の知らせの話をした。あるいはそんな話はせず、ただ馬を準備して立っていた。
配達ギルドの生きた配達員たちは、すべて配島の到着を知っていた。
配島はその事実が、信じられなかった。
しかし、走りながら、彼はようやく理解した。
点呼。
毎朝、彼らは、点呼で、繋がっていた。
点呼は、声を伝えるだけの儀式ではなかった。
点呼は、人と人とを、見えない糸で、結ぶ儀式だった。
その糸が、今彼の最後の配達を、支えていた。
四日目の、夜明け前。
配島は王都ヴェルディンの城壁が、地平線の彼方に見える地点まで、辿り着いた。
しかし、最後の中継拠点の手前で、敵が、待ち伏せていた。
ノクスタリア帝国の精鋭部隊、二十名。
その先頭に、白い軍装の男が、立っていた。
ガル・ジングジ参謀。
神宮寺慶介。
彼は配島の馬を、止める前に、自分の馬を、降りた。
そして、剣を抜いた。
配島も、馬を降りた。
剣を、持っていなかった。
代わりに、彼の懐には、王の勅命書が、入っていた。
ガリクとミレナが、配島の隣に馬から降り、剣を構えた。
「ガリクさん、ミレナさん」
「なんだ」
「自分が、神宮寺さんと、話します。お二人は、勅命書を王都へ、届けてください」
「ハイジマ、お前」
「自分は、ここで、神宮寺さんを、止めます」
ミレナが、配島の腕を握った。
「ハイジマ。あなた、剣を持ってないわ」
「持っていません」
「では、どうやって止めるの」
配島は笑った。
半年間で、初めての、本物の、笑いだった。
「自分は、配達員です。配達員には、最後の手段が、あります」
「最後の手段」
「届けることです」
配島は懐から、勅命書を取り出した。
そして、それをミレナに、渡した。
「ミレナさん。あなたが、これを王都の議会場まで、届けてください」
「ハイジマ」
「自分は、神宮寺さんを、足止めします。神宮寺さんが、自分を、追っている間、お二人は、王都へ、走ってください」
ガリクが、唸った。
「お前、死ぬぞ」
「死にません」
「絶対か」
「絶対、ではありません」
配島はガリクの肩を叩いた。
「でも、自分は最後の配達を、まだ終えていません。終えるまで、死ねません」
ガリクは長い息を吐いた。
それから、彼は配島に、自分の腰の革帯を外して渡した。
「これを、持っていけ。武器になる。剣じゃないが、無いよりはマシだ」
配島は革帯を受け取った。
それから、彼はミレナの目を見つめた。
「ミレナさん」
「何」
「無事に、届けてください」
ミレナは唇を引き結んだ。
彼女は配島に何かを言いそうになり、しかし何も言わなかった。
代わりに、彼女は勅命書を自分の懐に収め、馬に跨った。
「あなたも、無事で」
「はい」
ガリクとミレナは、馬を走らせた。
二人の馬は、王都の方角へ、駆け抜けた。
ノクスタリア帝国の精鋭部隊の半数が、二人を追った。
残った半数と、ガル・ジングジが、配島の前に立った。
配島はガル・ジングジの目を、まっすぐ、見つめた。
「神宮寺さん」
「ハイジマ。お前、何のつもりだ」
「お話を、しに来ました」
「話をしに、ここに残った、と」
「はい」
「馬鹿な男だ」
神宮寺は左の口角を上げた。
「お前、本当に何も変わらないな」
「変わりました」
「は」
「自分は、変わりました」
配島ははっきりと答えた。
「神宮寺さん。あなたは自分のことを、誰でもできる仕事をしている人間だと、ずっと見ていましたね」
「事実だろう」
「事実じゃ、ありません」
配島はガリクの革帯を両手に握った。
「自分の仕事は、誰でもできる仕事じゃ、ない。誰がやっても、別の仕事になる仕事です」
「禅問答か」
「禅問答じゃ、ありません」
配島は深く息を吸った。
「自分が、自分の点呼を、半年続けて、配達員一人一人の、声の張りや、体調の変化を、覚えました。だから、敵に入れ替わった配達員を、一言の口癖の違いで、見抜けました」
「……」
「あなたが、点呼を、形だけやっていたから、自分の点呼の意味が、分からなかった。あなたが、自分の部下の名前を、覚えていなかったから、自分はあなたの部下三十名のうち二名が、別人だということを、見抜けました」
「……」
「あなたは自分のことを軽んじていた。だから、自分の仕事を軽んじていた。だから、あなたは、ここで、負けるんです」
神宮寺は剣を構えた。
「ハイジマ。お前、本当にふざけた説教を、するようになったな」
「説教じゃ、ありません」
配島は革帯を両手に構えた。
「自分のやってきた仕事の、報告です」
神宮寺は跳びかかった。
剣の刃が、空を切り裂いた。
配島は革帯で、その刃を絡め取ろうとした。
絡まなかった。革帯は、刃に弾かれた。
配島の左腕に、深い傷が走った。
血が、地面に滴った。
配島はよろけたが、倒れなかった。
神宮寺の二撃目が、配島の右肩に命中した。
配島は膝を、ついた。
神宮寺は剣の切っ先を、配島の喉元に、当てた。
「ハイジマ。降参か」
「いえ」
「いえ、と言える状況か」
「自分は、最後の配達を、終えてません」
「……」
「終えるまで、降参できません」
神宮寺は剣を引いた。
彼は配島の顔を見下ろした。
その目に初めて神宮寺慶介の、別の感情が、浮かんでいた。
それは、苛立ちでも、軽蔑でもなかった。
配島には、それが何の感情なのか、すぐには分からなかった。
「ハイジマ。お前、こちらの世界に来てから、何人の配達員を雇った」
「七百三十二名です」
「そのうち、何人が、お前の点呼を毎朝受けて、お前を信頼している」
「全員、です」
神宮寺は深く息を吐いた。
「俺は、ノクスタリア帝国に来てから、八千人の兵士を、配下に置いた」
「……」
「そのうち、俺の点呼を、本気で受けている人間は、ゼロだ。みんな、形だけ答えている」
「……」
「俺は、こちらの世界でも、お前の世界の俺と、同じことを、やっていた」
神宮寺は剣を地面に突き刺した。
彼は配島から、目を逸らさなかった。
「ハイジマ・トオル」
「はい」
「お前、ヴェルディンの議会場まで、本当に勅命書を、届ける気か」
「届けます。ミレナさんが、届けます」
「ミレナ嬢の馬は、すでに俺の部下が、追っている」
「届けます。配達ギルドの、生きた配達員全員が、彼女の経路を、繋いでいます」
神宮寺は長い、沈黙の後、ようやく言葉を絞り出した。
「俺の負けだ」
彼は自分の剣を地面に捨てた。
残ったノクスタリア帝国の兵士たちが、それを見て、戸惑った顔をした。
神宮寺は彼らに向かって言った。
「全員、武器を、捨てろ」
「参謀!」
「捨てろと言っている」
兵士たちは、武器を捨てた。
神宮寺は配島の前に片膝を、ついた。
「ハイジマ・トオル。俺の、降伏を、受け取ってくれ」
配島は自分の身体の、傷を、忘れた。
彼は震える手で、神宮寺の顔を見上げた。
神宮寺の目には、配島が初めて見る空っぽの何かがあった。
空っぽ、というよりは、長い長い、疲れだった。
「神宮寺さん」
「……」
「点呼、させてください」
神宮寺は顔を上げた。
「お前、馬鹿か」
「最後に、一回だけ、お願いします」
神宮寺はしばらく答えなかった。
それから、彼はゆっくりと頷いた。
配島は神宮寺の目を覗き込んだ。
「神宮寺慶介さん。本日のご体調は、いかがですか」
神宮寺は答えた。
その答えは、ガル・ジングジの声でもなく、神宮寺慶介の、見下した声でもなかった。
もっと若い、もっと疲れた、ただの一人の人間の声だった。
「……ひどい、もんだ」
配島は深く頷いた。
「血色、十分。声の張り、低めですが、しっかりしています。お疲れさまでした、神宮寺さん」
配島は立ち上がった。
立ち上がると、左腕の傷から、また血が、滴った。
配島は自分の懐から白い布を取り出し、傷に巻きつけた。
神宮寺はその動作を、見ていた。
「ハイジマ」
「はい」
「お前、最後の配達は、何だ」
「ヴェルデン王国の、王の勅命書です」
「もう、ミレナ嬢が、運んでいるんだろう」
「自分は、別の最後の配達を、しなければなりません」
「別の、最後の配達」
配島は頷いた。
「自分が、こちらの世界に来た、最初の朝、自分の身体は、最後の一個を、届けないままで、止まりました」
「……」
「あれを、届けないと、自分は自分の仕事を、終えられません」
「あれって何だ」
「分かりません。でも、自分はそれを、これから、探しに行きます」
神宮寺はようやく笑った。
今度の笑いは、左の口角だけを上げた、あの笑いではなかった。
もっとぎこちない、不器用な、ほとんど泣くことに似た笑いだった。
「ハイジマ。お前、本当に馬鹿な男だ」
「はい」
「だが、お前が、勝った」
「自分は、勝ったわけじゃ、ありません」
「勝った」
神宮寺はゆっくりと立ち上がった。
彼は配島に向かって頭を下げた。
それは神宮寺慶介の人生で、たぶん初めての、誰かへの本気の礼だった。




