第十二章 届け終えて
ミレナとガリクは、王都ヴェルディンの議会場に、勅命書を届けた。
その日のうちに、議会は、緊急の招集を行い、勅命書を王都の全市民に、公示した。
ヴェルデン王国の降伏は、阻止された。
ノクスタリア帝国はテルベ峠の戦線で、参謀本部の最高責任者であるガル・ジングジ参謀の唐突な「捕虜化」(実際は降伏)によって指揮系統を失った。
帝国の遠征軍は、混乱の中、撤退を、開始した。
戦争は、終わった。
ヴェルデン王国は、勝利した、というより、生き残った。
最後の戦線で、ガル・ジングジに足止めされていた配島は、王都の医師団に運ばれた。
左腕の傷は深かった。骨までは達していなかったが、神経の一部が切れていた。
医師は、配島の傷の様子を、長く観察した後、こう言った。
「ハイジマ殿。傷の回復には、半年。神経の一部は、戻らないかもしれません。左腕の感覚が、生涯、半分残るか、四分の一になるか、分かりません」
「分かりました」
配島はそれだけ、答えた。
医師は、不思議そうに、配島の顔を見た。
「あなた、左腕が、不自由になるかもしれない、と言ったのですよ」
「はい」
「もう少し、嘆かれても、よろしいかと」
配島は首を振った。
「自分は、両腕が、ありました。半年、両腕が、ありました。それで、十分です」
医師は、それ以上、何も、言わなかった。
ガル・ジングジは戦後、ヴェルデン王国の捕虜として、王都の地下牢に、収容された。
配島は彼に、二度面会に行った。
一度目は、戦争の終わりから、十日後。
ガル・ジングジは地下牢の隅に、座っていた。白い軍装は、もうなかった。代わりに、灰色の囚人服を、着ていた。
配島が、入ってきた時、彼は顔を上げなかった。
「ハイジマ」
「神宮寺さん」
「もう、その名前で、呼ぶな」
「分かりました。ジングジ参謀」
配島は地下牢の鉄格子の前に座った。
「お時間を、いただき、ありがとうございます」
「俺は、囚人だ。時間しか、ない」
「では、お聞きします。あなたは、どうして、こちらの世界に、来ましたか」
ガル・ジングジはしばらく答えなかった。
それから、彼はようやく口を開いた。
「分からん。お前と同じだろう。気づいたら、こちらにいた」
「最初に、どういう仕事を、しましたか」
「ノクスタリア帝国の、北方の小さな村で、雪掻きの作業員から、始めた。家族は、いなかった。自分の前世の名前を、覚えていた。それで、自分の前世の知識を、出せばいいと思った」
「点呼を、最初に部下に、やらせたのは、いつですか」
「軍に入って二年目。最初の小隊長になった時」
「点呼で、何人か、見抜けましたか。別人に化けている部下を」
ガル・ジングジは初めて配島の目を見た。
その目には、配島が宴の場で見たあの空っぽの何かがあった。
「一人も、見抜けなかった」
「……」
「俺の点呼は、形だけだった。お前のと、違って」
配島は深く頷いた。
二人の間に、長い沈黙が、あった。
配島は立ち上がり、地下牢の前で深く頭を下げた。
「ジングジ参謀。お時間を、ありがとうございました」
「ハイジマ」
「はい」
「お前の点呼は、俺の点呼の、十年分の価値がある」
配島は答えなかった。
答える、必要が、なかった。
全土の物流網は半分以上が焼失していた。配達員は四十七名が亡くなり、百二十名以上が負傷していた。
しかし、生き残った配達員たちは、戦争の翌日から再び街道を歩き始めた。
彼らの腰には、配島の作った、点検簿の冊子が、結ばれていた。
彼らの口の中には、毎朝の、点呼の言葉が、残っていた。
戦争の終わりから、二月後。
配島は王都ヴェルディンの郊外の、ハブターミナルの、半焼の壁の前に立っていた。
左腕にはまだ包帯が巻かれていた。傷は深く、回復には半年はかかると医師に言われていた。
配島の隣にミレナが、立っていた。
彼女は新しい灰色のドレスを着ていた。配達ギルドの新しい会計責任者の正式な制服だった。
「ハイジマ」
「はい」
「再建の予算が、まとまったわ。第三王女エリザ様が、王家の予算から、金貨千二百枚を、確保してくださった」
「ありがたいことです」
「設計、どうする」
「以前と、同じ場所に、同じ形で、建て直そうと思います。記憶が、消えないように」
ミレナは頷いた。
「分かったわ」
配島は焼け跡の、一番奥の、小さな墓標を見つめた。
墓標は、ノルト・カエスのものだった。
その隣にもう一つ、小さな墓標が、あった。
マリア・コーレンのものだった。
配島はその二つの墓標の前にしばらく立っていた。
そして、いつもの動作で、頭を下げた。
「ノルトさん。マリアさん。本日のお仕事、よろしくお願いします」
答えは、なかった。
しかし、配島の身体の中でその二人の声が、まだ聞こえていた。
「ハイジマの点呼は、家に帰る感じに似ている」
「私は、毎朝自分が、誰なのかを、思い出します」
配島は墓標から離れた。
離れる時、彼はもう一度振り返り、二つの墓標に向かって最後の言葉を、つけ加えた。
「無事で、いてください」
ガリクが、配達員たちを、引き連れて、焼け跡に、現れた。
彼の腰には新しい革張りの帳簿が下げられていた。「点呼指導長」と銀の文字で書かれていた。
配達員たちは、配島の前に横一列に、並んだ。
その数、三百二十名。
戦争で生き残った、配達ギルドの、すべての構成員だった。
配島は彼らの前に立った。
彼は深呼吸を、一つだけ、した。
それから、彼は最も右端の、配達員の前に進んだ。
「お名前を、伺います」
「カイ・ゾムマーです」
「カイ・ゾムマーさん。本日のご体調は」
「絶好調です、ハイジマさん」
配島は頷いた。
「血色、十分。声の張り、いつも通り。本日も、よろしくお願いします」
彼は次の配達員へ、進んだ。
次。
次の、次。
配島は三百二十名、全員に、点呼を、行った。
点呼は、二時間以上、かかった。
しかし、誰も、その間、不平を、言わなかった。
配達員たちは自分の番が来るのを、静かに、待っていた。
彼らの後ろで、ミレナとガリクが、点呼の様子を、見ていた。
ミレナは配島の動きを観察していた。彼女の眼差しには、最初に出会った時の書庫司書のような観察家の目が、もうなかった。
代わりに、別の何か、があった。
ガリクは自分の手帳に、配達員一人一人の名前と、その日の状態を、書き留めていた。
点呼が、終わった。
配達員たちは、解散した。
配島はミレナとガリクの方へ戻った。
ガリクが、口を開いた。
「ハイジマ」
「はい」
「お前さん、最初の朝、俺に、点呼をしたな」
「はい」
「あれから、何回、点呼を、した?」
配島は考えた。
「半年と、二月。毎朝、平均で、五十人。だいたい、九千回くらい、でしょうか」
「九千回」
「はい」
「俺は、初めてそういう仕事を見た」
ガリクは目尻を、拭った。
「お前さんは、立派な、運行管理者だ」
配島は微笑んだ。
「ありがとうございます」
彼は深く頭を下げた。
その夕方、配島はガリクと二人で、ハブターミナルの東の端に、座っていた。
夕日が再建予定地の、まだ土しかない場所を橙色に染めていた。
ガリクは革帯の脇から、古い、よく擦り切れた手帳を、取り出した。
「ハイジマ」
「はい」
「これを、お前さんに、譲ろうと思う」
「ガリクさんの、最初の手帳ですか」
「最初の手帳だ。お前さんに、初めて点呼を受けた朝から、書いてある」
「そんな、大事なものを」
「俺はもう、これに、続きを書ける気がしない。点呼指導長になって新しい手帳に、新しい記録を始める」
ガリクは配島の手の中にその古い手帳を、押し付けた。
「お前さんは、これを繋いでくれ」
「自分が、ですか」
「お前さんが、いつか、年を取って自分の手帳を、誰かに譲る時、その人にも、これを繋がせろ」
配島はその手帳を、両手で受け取った。
手帳の表紙は革でできていた。長年の使用で、革は柔らかく、油の匂いを染み込ませていた。
「ガリクさん」
「なんだ」
「自分は、これを大事にします」
「大事にしすぎるなよ。本というのは、棚に置いて、大事にするものじゃない。書き続けるためのものだ」
配島は頷いた。
頷きながら、夕日の方を見た。
夕日の中で配達員たちが、まだハブターミナルの東端で、再建のための材木を、運んでいた。
配島はその光景を、長く見つめた。
そして、自分の身体の中でガリクの手帳の重みを、確かめた。
その日の夜。
配島はハブターミナルの再建予定地の、片隅に、置かれた、小さな倉庫の机の前に座っていた。
机の上にはノルトの最後の点検簿と、マリアの手紙と、ガリクの最初の手帳が並んでいた。
配島はその横に、自分の新しい羊皮紙を、広げた。
羊皮紙の最初の一行に、彼は書いた。
「配達ギルド、運用一年と二月。全員、本日、無事」
彼はそれから、もう一行、書いた。
「自分、本日、生きている」
その二行を、書き終えてから、配島は長く息を吐いた。
窓の外で、星が、出ていた。
地球の星空と、ほぼ、同じ星空だった。
少し、星座の形が、違った気がした。
それでも、夜空は夜空だった。
扉が開いた。
ミレナが、入ってきた。
彼女の手には、二つの杯と、小さな酒瓶が、握られていた。
「ハイジマ」
「ミレナさん」
「乾杯、しに来たの」
「自分、お酒は、飲まないんです」
「知ってる。これは、果実水よ。あなたの分」
ミレナは机の脇に二つの杯を置き、片方に酒瓶の中身を注いだ。もう片方には別の壺から、果実水を注いだ。
彼女は果実水の方を配島に、渡した。
「何に、乾杯ですか」
「あなたが、生きていることに」
配島は杯を受け取った。
手のひらの中で果実水の杯は、ひんやりと、冷たかった。
「ミレナさんも、生きていることに」
「ええ」
二人は杯を、軽く合わせた。
甘い、果実水の味が、配島の舌の上で、広がった。
「ハイジマ。一つ、聞いていい?」
「はい」
「あなた、神宮寺さんに、最後に何を、言ったの」
配島はしばらく答えに、迷った。
迷ったうえで、彼は答えた。
「点呼を、しました」
「点呼」
「神宮寺さんの目を、見て、名前を、呼んで、体調を、聞きました」
「彼は答えた」
「答えました。『ひどい、もんだ』と」
ミレナは長く沈黙した。
それから、彼女は笑った。
彼女が、配島の前で心から、笑った、二度目の笑いだった。
「ハイジマ」
「はい」
「あなた、本当に変な人ね」
「すみません」
「謝らなくていい」
ミレナは果実水の杯を、もう一度配島に、軽く合わせた。
「変なあなたが、世界を、救ったのよ」
配島は首を振った。
「自分は、世界を、救ってはいません」
「では、何を、したと思っているの」
「最後の一個を、届けただけです」
ミレナはしばらく配島を見つめた。
それから、彼女は頷いた。
「そう。あなたは、最後の一個を、届けただけ」
「はい」
「でも、その『一個』が、何だったかは、覚えていて」
配島は頷いた。
覚えていた。
最後の一個は、王の勅命書ではなかった。
最後の一個は、配島が神宮寺の目を覗き込んで、彼の名前を呼んだ瞬間だった。
あの瞬間、配島は神宮寺に向かって自分の半生分の、点呼を、届けた。
「あなたは、ここにいる。あなたを、私は、見ている」と。
神宮寺はそれを受け取った。
受け取った瞬間、神宮寺は剣を捨てた。
それが、最後の配達だった。
配島は果実水の杯を机の上に置いた。
彼は立ち上がり、窓の外を見た。
ハブターミナルの、再建予定地の、向こうに、王都ヴェルディンの城壁が見えた。
城壁の上で、いくつかの、灯りが、揺れていた。
夜警の灯りだった。
配島の身体の中で何かが、ようやく終わった。
それは、悲しみでも、喜びでも、なかった。
ただ、終わった、という、感覚だった。
彼は振り返り、ミレナに向かって頭を下げた。
「ミレナさん」
「何」
「自分は、明日も、点呼を続けます」
「ええ」
「明日の朝、ガリクさんと、配達員全員に、点呼を、します」
「ええ」
「自分の仕事は、それです」
ミレナは頷いた。
彼女は果実水の杯を、置き、配島の隣に立った。
二人はしばらく窓の外の、夜警の灯りを、見ていた。
誰も、口を開かなかった。
終章 お届けものです
それから、何年が、過ぎただろうか。
戦争が終わってから、十一年と、ひと月。
配島透は王都ヴェルディン郊外の、再建されたハブターミナルの北棟の小さな部屋で息を引き取った。
享年、四十四歳。
最期の朝も、彼は自分の習慣を、止めなかった。
寝台の脇に立っていたミレナの目を見た。
弱った声で、彼はいつもの問いを、呟いた。
「お名前を、伺います」
ミレナは彼の手を、両手で握った。
涙を、堪える必要は、もうなかった。
「ミレナ・カルディアです、ハイジマさん」
「ミレナ・カルディアさん。本日のご体調は、いかがですか」
「絶好調です」
「血色、十分。声の張り、十分。本日も、よろしくお願いします」
配島はゆっくりと目を閉じた。
それから、もう一度目を開けた。
ミレナに向かって彼は最後の言葉を、口にした。
「最後の一個を、届け終えました」
「……」
「母に、会えたら、伝えてください。あいつの仕事は、誰でもできる仕事じゃ、なかったよ、と」
ミレナは頷いた。
頷くことしか、できなかった。
配島の手のひらが、ミレナの手の中でゆっくりと力を、抜いた。
窓の外で、朝の鳥が鳴いていた。地球の鳥に似た、しかし地球にはいない種類の鳥だった。
その鳥の鳴き声を、配島は最後まで、聞いていたかもしれなかった。
ミレナには、それを確かめる方法は、もうなかった。
配島の葬儀は、ハブターミナルの中央の仕分け台の前で行われた。
集まったのは、配達ギルドの構成員、千二百名。
ガリクはもう七十歳を超えていた。腰は曲がっていた。それでも彼は自分の足で葬儀に立ち、配島の墓標に最初の一行を書き入れた。
「ハイジマ・トオル。本日のお仕事、お疲れさまでした」
墓標はノルト・カエスと、マリア・コーレンと、戦争で亡くなった配達員四十七名の墓標と同じ大きさで、同じ形だった。
配島は最後まで、自分だけ大きな墓を、嫌がっていた。
ミレナはその意思を、尊重した。
葬儀の三日後。
ミレナは配島の遺品を、整理していた。
ハブターミナルの北棟の小部屋には、配島の本棚があった。本棚と言っても、粗い木の板を組み合わせた、簡単なものだった。
その上には、配達ギルドの十二年分の点呼記録簿が、年ごとに、整然と、並べられていた。
最初の年の、最初の頁。
配島の几帳面な字で、こう書かれていた。
「点検簿、運用三日目。御者一人、車軸の異常を発見。事故未然防止」
最後の年の、最後の頁。
筆跡は、わずかに震えていた。それでも、丁寧に、書かれていた。
「点呼、本日。配達員、千二百三十二名。全員、無事」
ミレナはその最後の頁を、長く見つめた。
それから、彼女はその記録簿を、抱え、自分の執務室に戻った。
ミレナと配島の間には、息子が一人いた。
名前は、ハイジマ・カルディア。
配島が亡くなった時、息子は八歳だった。父の葬儀の朝、息子は母の隣で、ぐずらずに立っていた。彼は父の墓標に向かって深く頭を下げた。
配達員たちは、その小さな姿に深く頷いた。
誰もその朝、息子に何も声をかけなかった。沈黙のほうが、その子のためになると全員が知っていた。
春の朝。
あれから、十二年。
王都ヴェルディン郊外の、再建されたハブターミナルの長手の通路を、一人の女性が歩いていた。
ミレナ・カルディアだった。
彼女の髪には白いものが混じり始めていた。腰には配達ギルド長会計責任者の銀の印璽が下げられていた。
ミレナは自分の執務室に戻った。
窓を、開けた。
外の空気は、雨上がりの、澄んだ朝の空気だった。
空には雲が、ほとんどなかった。
彼女は机の前に座った。
机の上に書きかけの、一通の手紙が、置かれていた。
羊皮紙ではなく、配達ギルドが最近自前で漉き始めた、薄い紙の手紙だった。
宛先は、書かれていなかった。
書きようが、なかった。
彼女がその手紙を届けたい相手は、この世界にはいなかった。
ミレナは羽根ペンを、手に取り、続きを、書いた。
「お母様、と、お呼びすることを、お許しください。
私は、ミレナ・カルディアと申します。お会いしたことは、ございません。お会いする方法も、ございません。
ただ、これから、お知らせしたいことが、ございます。
あなたの息子さんは、こちらの世界で十二年、生きました。彼は最初、ただの旅の使用人として私たちの隊商に迎えられました。彼は毎朝目の前の人の名前を呼ぶ、奇妙な習慣を持っていました。
その奇妙な習慣で、彼は私たちの国の物流を、変えました。
彼は未亡人と退役兵と孤児たちに、仕事を作りました。
彼は戦争を、止めました。
彼は自分の前世の嫌な先輩だった、と話していた人物を最後に許しました。
彼はたくさんの人に、看取られて、静かに、息を引き取りました。
最期の朝、彼は私の手を、握ってこう言いました。
『最後の一個を届け終えました。母に会えたら伝えてください。あいつの仕事は、誰でもできる仕事じゃなかったよ、と』
お母様。
あなたの息子さんは、立派でした。
あなたの息子さんは、こちらの世界で、たくさんの人の名前を、覚えていました。
あなたの息子さんが、雨の日の街道で、子どもを、救って命を、落としたあと。
その後の十二年、彼はあなたを毎朝思い出していました。
彼はそれを、口には、出しませんでした。
でも、私には、分かりました。
彼が、毎朝の点呼の最後に、いつも付け加えていた言葉。
『無事に、お過ごしください』
あれは、半分は、私たちへの言葉でしたが、もう半分はたぶんあなたへの言葉でした。
お母様。
もう一つだけ、お伝えしたいことが、ございます。
彼との間に、息子が、生まれました。
名前は、ハイジマ・カルディアと申します。
今年で、二十歳になりました。配達ギルドの新人配達員として、毎朝点呼を受けています。
息子は父の手帳を譲り受けました。古い革の、油の匂いのする手帳です。彼はその手帳に、自分の毎日の点呼の記録を書き加えています。
息子の字は、彼の父にも母にも似ていません。彼自身の、彼自身の字です。
お母様。
あなたがもし、息子さんを私たちのもとに届けてくださったのなら、私たちはあなたにお返しに、息子をお届けしたい。
届かないと、分かっていても、お伝えしたい。
あなたの息子さんは、こちらの世界で、自分の人生を、生きました。
そして、あなたの孫は、今その続きを、生きております」
ミレナは羽根ペンを止めた。
窓の外で、配達ギルドの若い配達員たちが朝の点呼を行う声が聞こえてきた。
点呼の指導長は、ガリクの孫の世代の、若い男だった。
点呼の声は配島が始めたあの最初の朝と、同じ言葉で続いていた。
「お名前を、伺います」
「本日のご体調は、いかがですか」
「本日も、よろしくお願いします」
ミレナはその声を、しばらく聞いていた。
それから、彼女は手紙の、最後の一行を、書いた。
「お母様。
届かない手紙だと、分かっています。
それでも、書かせてください。
あなたの息子さんから、私から、こちらの世界の、配達員七百三十二名から、あなたへ。
お届けものです」
ミレナは羽根ペンを置いた。
手紙を丁寧に四つに折り、机の引き出しにしまった。
引き出しの中には、もう十二通の同じような手紙が、しまわれていた。
配島が亡くなってから、ミレナは毎年、彼の命日の朝にこうして、届かない手紙を書いていた。
届かない、と、分かっていた。
それでも、書いていた。
書くことが、ミレナにとって配島の点呼に最も近い儀式だった。
彼女は立ち上がり、窓辺に寄った。
空は青かった。
雨は、もう降っていなかった。
遠くで、配達員の、若い声が聞こえた。
「ハイジマ・カルディアさん。本日のご体調は」
ミレナはその声を、聞いて、わずかに口の端を上げた。
彼女と、配島との間に、生まれた、息子の名前だった。
息子は二十歳になった。配達ギルドの新しい配達員として、今朝が初めての出勤の日だった。
息子は、答えていた。
「絶好調です」
その応答に、配達員たちの笑い声が続いた。
息子の声は、ミレナの耳に残った。父そっくりではない。けれど父と同じ、毎朝同じ場所に立つ覚悟が宿っていた。声の張りも目の高さも、あの最初の朝の配島と、どこか似ていた。父からは何も学ばなかったはずなのに、息子の身体は父の動きを覚えていた。
ミレナはわずかに口の端を上げた。
ミレナは執務室の扉を、開けた。
ハブターミナルの長い通路を、ゆっくり歩いた。
通路の途中で、ガリクの孫の世代の若い男――今の点呼指導長――が、ミレナに、深く頭を下げた。
「ミレナ様。本日もよろしくお願いします」
「ええ。あなたも、無事で」
「無事で」
二人は軽く会釈を、交わした。
ミレナはハブターミナルの中央に立った。
仕分け台の上の、配達ギルドの紋章を見上げた。円の中にまっすぐな矢が、一本。
その紋章は、十二年前、配島が初めて作ったものと、同じだった。
息子のハイジマ・カルディアが、新人配達員の列の中に立っていた。
ミレナはその姿を、長く見つめた。
息子は父の背丈より、わずかに高かった。だが点呼に答える時の頭の傾け方が、父と同じだった。
ミレナはわずかに頷いた。
その日の夕方、ミレナは配島の墓標の前に立った。
墓標は、ハブターミナルの南端の、小さな庭の中に置かれていた。
その隣には、ノルト・カエス、マリア・コーレン、戦争で亡くなった配達員四十七名の墓標と、それから五年前に亡くなったガリクの墓標が並んでいた。
ミレナは配島の墓標の前に膝を、ついた。
「ハイジマ」
彼女は墓標に、呼びかけた。
「今日も、息子は、点呼に、答えました。絶好調、と」
答えは、なかった。
「あなたが、私に、最後に伝えた言葉を、またお母様への手紙に、書きました。届かないことは、分かっています。でも、書きました」
風が、墓標の上を、吹き抜けた。
「ハイジマ。あなたが、こちらの世界で、点呼を始めたあの最初の朝。あれはたぶんあなたが、自分自身を、呼んだ朝だったのね」
ミレナはそっと、立ち上がった。
彼女は墓標に向かって頭を下げた。
「無事で、お過ごしください」
届かない手紙の、届かない宛先に向かってもう一度心の中で呟いた。
「お届けものです」
ミレナが墓標の前から立ち上がった時、夕陽が、ハブターミナルの屋根に、最後の光を、投げかけていた。
彼女は墓標群に、もう一度頭を下げ、ゆっくりとその場を、離れた。
遠くで、息子が、誰かと、話していた。
「ハイジマさん、明日の配達経路、確認させてください」
息子の若い声に、別の若い配達員が、答えていた。
「了解です。ハイジマ・カルディアさん、本日もお疲れさまでした」
ミレナは息子の名前が、彼の父の名と、同じく「ハイジマ」と呼ばれているのを、聞いた。
配達ギルドの中では、彼はもうハイジマ、だった。
父の名は、息子の身体の中で続いていた。
息子の身体の中で配達員の朝の点呼が、続いていた。
配島透が、こちらの世界で始めたものは、止まらない。
ミレナはハブターミナルの長手の通路の途中で、もう一度立ち止まった。
通路の左右の壁には、配達ギルドの十二年分の歴史が、簡素な羊皮紙で、貼り出されていた。
最初の年の、最初の月の、点呼の人数。
最後の年の、最後の月の、点呼の人数。
名前の数だけ、配島が、見た。
配島が、続けた。
配島が、いた。
ミレナはその壁に、軽く手のひらを当てた。
手のひらの下で、壁は、ひんやりと、冷たかった。
しかし、彼女の手のひらの中には、温かい何かが、まだ残っていた。
それは、彼女が、十二年前に握った、配島の最後の手の温度だった。
外の空気は、まだ雨上がりの、澄んだ朝の、続きだった。
空の高いところを、白い鳥が、一羽、横切っていった。
地球の鳥に似た、しかし、地球には、いない種類の鳥だった。
その鳥が、東の方角へ、飛んでいった。
東の、海の、向こうの方へ。
ミレナはその鳥を見送った。
そして、もう一度口の中で呟いた。
「お届けものです」




