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異世界ラストワンマイル〜再配達、承りません〜  作者: もしものべりすと


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12/12

第十二章 届け終えて

ミレナとガリクは、王都ヴェルディンの議会場に、勅命書を届けた。

 その日のうちに、議会は、緊急の招集を行い、勅命書を王都の全市民に、公示した。

 ヴェルデン王国の降伏は、阻止された。

 ノクスタリア帝国はテルベ峠の戦線で、参謀本部の最高責任者であるガル・ジングジ参謀の唐突な「捕虜化」(実際は降伏)によって指揮系統を失った。

 帝国の遠征軍は、混乱の中、撤退を、開始した。

 戦争は、終わった。

 ヴェルデン王国は、勝利した、というより、生き残った。


 最後の戦線で、ガル・ジングジに足止めされていた配島は、王都の医師団に運ばれた。

 左腕の傷は深かった。骨までは達していなかったが、神経の一部が切れていた。

 医師は、配島の傷の様子を、長く観察した後、こう言った。

「ハイジマ殿。傷の回復には、半年。神経の一部は、戻らないかもしれません。左腕の感覚が、生涯、半分残るか、四分の一になるか、分かりません」

「分かりました」

 配島はそれだけ、答えた。

 医師は、不思議そうに、配島の顔を見た。

「あなた、左腕が、不自由になるかもしれない、と言ったのですよ」

「はい」

「もう少し、嘆かれても、よろしいかと」

 配島は首を振った。

「自分は、両腕が、ありました。半年、両腕が、ありました。それで、十分です」

 医師は、それ以上、何も、言わなかった。


 ガル・ジングジは戦後、ヴェルデン王国の捕虜として、王都の地下牢に、収容された。

 配島は彼に、二度面会に行った。

 一度目は、戦争の終わりから、十日後。

 ガル・ジングジは地下牢の隅に、座っていた。白い軍装は、もうなかった。代わりに、灰色の囚人服を、着ていた。

 配島が、入ってきた時、彼は顔を上げなかった。

「ハイジマ」

「神宮寺さん」

「もう、その名前で、呼ぶな」

「分かりました。ジングジ参謀」

 配島は地下牢の鉄格子の前に座った。

「お時間を、いただき、ありがとうございます」

「俺は、囚人だ。時間しか、ない」

「では、お聞きします。あなたは、どうして、こちらの世界に、来ましたか」

 ガル・ジングジはしばらく答えなかった。

 それから、彼はようやく口を開いた。

「分からん。お前と同じだろう。気づいたら、こちらにいた」

「最初に、どういう仕事を、しましたか」

「ノクスタリア帝国の、北方の小さな村で、雪掻きの作業員から、始めた。家族は、いなかった。自分の前世の名前を、覚えていた。それで、自分の前世の知識を、出せばいいと思った」

「点呼を、最初に部下に、やらせたのは、いつですか」

「軍に入って二年目。最初の小隊長になった時」

「点呼で、何人か、見抜けましたか。別人に化けている部下を」

 ガル・ジングジは初めて配島の目を見た。

 その目には、配島が宴の場で見たあの空っぽの何かがあった。

「一人も、見抜けなかった」

「……」

「俺の点呼は、形だけだった。お前のと、違って」

 配島は深く頷いた。

 二人の間に、長い沈黙が、あった。

 配島は立ち上がり、地下牢の前で深く頭を下げた。

「ジングジ参謀。お時間を、ありがとうございました」

「ハイジマ」

「はい」

「お前の点呼は、俺の点呼の、十年分の価値がある」

 配島は答えなかった。

 答える、必要が、なかった。


 全土の物流網は半分以上が焼失していた。配達員は四十七名が亡くなり、百二十名以上が負傷していた。

 しかし、生き残った配達員たちは、戦争の翌日から再び街道を歩き始めた。

 彼らの腰には、配島の作った、点検簿の冊子が、結ばれていた。

 彼らの口の中には、毎朝の、点呼の言葉が、残っていた。


 戦争の終わりから、二月後。

 配島は王都ヴェルディンの郊外の、ハブターミナルの、半焼の壁の前に立っていた。

 左腕にはまだ包帯が巻かれていた。傷は深く、回復には半年はかかると医師に言われていた。

 配島の隣にミレナが、立っていた。

 彼女は新しい灰色のドレスを着ていた。配達ギルドの新しい会計責任者の正式な制服だった。

「ハイジマ」

「はい」

「再建の予算が、まとまったわ。第三王女エリザ様が、王家の予算から、金貨千二百枚を、確保してくださった」

「ありがたいことです」

「設計、どうする」

「以前と、同じ場所に、同じ形で、建て直そうと思います。記憶が、消えないように」

 ミレナは頷いた。

「分かったわ」

 配島は焼け跡の、一番奥の、小さな墓標を見つめた。

 墓標は、ノルト・カエスのものだった。

 その隣にもう一つ、小さな墓標が、あった。

 マリア・コーレンのものだった。

 配島はその二つの墓標の前にしばらく立っていた。

 そして、いつもの動作で、頭を下げた。

「ノルトさん。マリアさん。本日のお仕事、よろしくお願いします」

 答えは、なかった。

 しかし、配島の身体の中でその二人の声が、まだ聞こえていた。

「ハイジマの点呼は、家に帰る感じに似ている」

「私は、毎朝自分が、誰なのかを、思い出します」

 配島は墓標から離れた。

 離れる時、彼はもう一度振り返り、二つの墓標に向かって最後の言葉を、つけ加えた。

「無事で、いてください」


 ガリクが、配達員たちを、引き連れて、焼け跡に、現れた。

 彼の腰には新しい革張りの帳簿が下げられていた。「点呼指導長」と銀の文字で書かれていた。

 配達員たちは、配島の前に横一列に、並んだ。

 その数、三百二十名。

 戦争で生き残った、配達ギルドの、すべての構成員だった。

 配島は彼らの前に立った。

 彼は深呼吸を、一つだけ、した。

 それから、彼は最も右端の、配達員の前に進んだ。

「お名前を、伺います」

「カイ・ゾムマーです」

「カイ・ゾムマーさん。本日のご体調は」

「絶好調です、ハイジマさん」

 配島は頷いた。

「血色、十分。声の張り、いつも通り。本日も、よろしくお願いします」

 彼は次の配達員へ、進んだ。

 次。

 次の、次。

 配島は三百二十名、全員に、点呼を、行った。

 点呼は、二時間以上、かかった。

 しかし、誰も、その間、不平を、言わなかった。

 配達員たちは自分の番が来るのを、静かに、待っていた。

 彼らの後ろで、ミレナとガリクが、点呼の様子を、見ていた。

 ミレナは配島の動きを観察していた。彼女の眼差しには、最初に出会った時の書庫司書のような観察家の目が、もうなかった。

 代わりに、別の何か、があった。

 ガリクは自分の手帳に、配達員一人一人の名前と、その日の状態を、書き留めていた。

 点呼が、終わった。

 配達員たちは、解散した。

 配島はミレナとガリクの方へ戻った。

 ガリクが、口を開いた。

「ハイジマ」

「はい」

「お前さん、最初の朝、俺に、点呼をしたな」

「はい」

「あれから、何回、点呼を、した?」

 配島は考えた。

「半年と、二月。毎朝、平均で、五十人。だいたい、九千回くらい、でしょうか」

「九千回」

「はい」

「俺は、初めてそういう仕事を見た」

 ガリクは目尻を、拭った。

「お前さんは、立派な、運行管理者だ」

 配島は微笑んだ。

「ありがとうございます」

 彼は深く頭を下げた。


 その夕方、配島はガリクと二人で、ハブターミナルの東の端に、座っていた。

 夕日が再建予定地の、まだ土しかない場所を橙色に染めていた。

 ガリクは革帯の脇から、古い、よく擦り切れた手帳を、取り出した。

「ハイジマ」

「はい」

「これを、お前さんに、譲ろうと思う」

「ガリクさんの、最初の手帳ですか」

「最初の手帳だ。お前さんに、初めて点呼を受けた朝から、書いてある」

「そんな、大事なものを」

「俺はもう、これに、続きを書ける気がしない。点呼指導長になって新しい手帳に、新しい記録を始める」

 ガリクは配島の手の中にその古い手帳を、押し付けた。

「お前さんは、これを繋いでくれ」

「自分が、ですか」

「お前さんが、いつか、年を取って自分の手帳を、誰かに譲る時、その人にも、これを繋がせろ」

 配島はその手帳を、両手で受け取った。

 手帳の表紙は革でできていた。長年の使用で、革は柔らかく、油の匂いを染み込ませていた。

「ガリクさん」

「なんだ」

「自分は、これを大事にします」

「大事にしすぎるなよ。本というのは、棚に置いて、大事にするものじゃない。書き続けるためのものだ」

 配島は頷いた。

 頷きながら、夕日の方を見た。

 夕日の中で配達員たちが、まだハブターミナルの東端で、再建のための材木を、運んでいた。

 配島はその光景を、長く見つめた。

 そして、自分の身体の中でガリクの手帳の重みを、確かめた。


 その日の夜。

 配島はハブターミナルの再建予定地の、片隅に、置かれた、小さな倉庫の机の前に座っていた。

 机の上にはノルトの最後の点検簿と、マリアの手紙と、ガリクの最初の手帳が並んでいた。

 配島はその横に、自分の新しい羊皮紙を、広げた。

 羊皮紙の最初の一行に、彼は書いた。

 「配達ギルド、運用一年と二月。全員、本日、無事」

 彼はそれから、もう一行、書いた。

 「自分、本日、生きている」

 その二行を、書き終えてから、配島は長く息を吐いた。

 窓の外で、星が、出ていた。

 地球の星空と、ほぼ、同じ星空だった。

 少し、星座の形が、違った気がした。

 それでも、夜空は夜空だった。


 扉が開いた。

 ミレナが、入ってきた。

 彼女の手には、二つの杯と、小さな酒瓶が、握られていた。

「ハイジマ」

「ミレナさん」

「乾杯、しに来たの」

「自分、お酒は、飲まないんです」

「知ってる。これは、果実水よ。あなたの分」

 ミレナは机の脇に二つの杯を置き、片方に酒瓶の中身を注いだ。もう片方には別の壺から、果実水を注いだ。

 彼女は果実水の方を配島に、渡した。

「何に、乾杯ですか」

「あなたが、生きていることに」

 配島は杯を受け取った。

 手のひらの中で果実水の杯は、ひんやりと、冷たかった。

「ミレナさんも、生きていることに」

「ええ」

 二人は杯を、軽く合わせた。

 甘い、果実水の味が、配島の舌の上で、広がった。


「ハイジマ。一つ、聞いていい?」

「はい」

「あなた、神宮寺さんに、最後に何を、言ったの」

 配島はしばらく答えに、迷った。

 迷ったうえで、彼は答えた。

「点呼を、しました」

「点呼」

「神宮寺さんの目を、見て、名前を、呼んで、体調を、聞きました」

「彼は答えた」

「答えました。『ひどい、もんだ』と」

 ミレナは長く沈黙した。

 それから、彼女は笑った。

 彼女が、配島の前で心から、笑った、二度目の笑いだった。

「ハイジマ」

「はい」

「あなた、本当に変な人ね」

「すみません」

「謝らなくていい」

 ミレナは果実水の杯を、もう一度配島に、軽く合わせた。

「変なあなたが、世界を、救ったのよ」

 配島は首を振った。

「自分は、世界を、救ってはいません」

「では、何を、したと思っているの」

「最後の一個を、届けただけです」

 ミレナはしばらく配島を見つめた。

 それから、彼女は頷いた。

「そう。あなたは、最後の一個を、届けただけ」

「はい」

「でも、その『一個』が、何だったかは、覚えていて」

 配島は頷いた。

 覚えていた。

 最後の一個は、王の勅命書ではなかった。

 最後の一個は、配島が神宮寺の目を覗き込んで、彼の名前を呼んだ瞬間だった。

 あの瞬間、配島は神宮寺に向かって自分の半生分の、点呼を、届けた。

「あなたは、ここにいる。あなたを、私は、見ている」と。

 神宮寺はそれを受け取った。

 受け取った瞬間、神宮寺は剣を捨てた。

 それが、最後の配達だった。

 配島は果実水の杯を机の上に置いた。

 彼は立ち上がり、窓の外を見た。

 ハブターミナルの、再建予定地の、向こうに、王都ヴェルディンの城壁が見えた。

 城壁の上で、いくつかの、灯りが、揺れていた。

 夜警の灯りだった。

 配島の身体の中で何かが、ようやく終わった。

 それは、悲しみでも、喜びでも、なかった。

 ただ、終わった、という、感覚だった。

 彼は振り返り、ミレナに向かって頭を下げた。

「ミレナさん」

「何」

「自分は、明日も、点呼を続けます」

「ええ」

「明日の朝、ガリクさんと、配達員全員に、点呼を、します」

「ええ」

「自分の仕事は、それです」

 ミレナは頷いた。

 彼女は果実水の杯を、置き、配島の隣に立った。

 二人はしばらく窓の外の、夜警の灯りを、見ていた。

 誰も、口を開かなかった。




終章 お届けものです



 それから、何年が、過ぎただろうか。


 戦争が終わってから、十一年と、ひと月。

 配島透は王都ヴェルディン郊外の、再建されたハブターミナルの北棟の小さな部屋で息を引き取った。

 享年、四十四歳。

 最期の朝も、彼は自分の習慣を、止めなかった。

 寝台の脇に立っていたミレナの目を見た。

 弱った声で、彼はいつもの問いを、呟いた。

「お名前を、伺います」

 ミレナは彼の手を、両手で握った。

 涙を、堪える必要は、もうなかった。

「ミレナ・カルディアです、ハイジマさん」

「ミレナ・カルディアさん。本日のご体調は、いかがですか」

「絶好調です」

「血色、十分。声の張り、十分。本日も、よろしくお願いします」

 配島はゆっくりと目を閉じた。

 それから、もう一度目を開けた。

 ミレナに向かって彼は最後の言葉を、口にした。

「最後の一個を、届け終えました」

「……」

「母に、会えたら、伝えてください。あいつの仕事は、誰でもできる仕事じゃ、なかったよ、と」

 ミレナは頷いた。

 頷くことしか、できなかった。

 配島の手のひらが、ミレナの手の中でゆっくりと力を、抜いた。

 窓の外で、朝の鳥が鳴いていた。地球の鳥に似た、しかし地球にはいない種類の鳥だった。

 その鳥の鳴き声を、配島は最後まで、聞いていたかもしれなかった。

 ミレナには、それを確かめる方法は、もうなかった。


 配島の葬儀は、ハブターミナルの中央の仕分け台の前で行われた。

 集まったのは、配達ギルドの構成員、千二百名。

 ガリクはもう七十歳を超えていた。腰は曲がっていた。それでも彼は自分の足で葬儀に立ち、配島の墓標に最初の一行を書き入れた。

「ハイジマ・トオル。本日のお仕事、お疲れさまでした」

 墓標はノルト・カエスと、マリア・コーレンと、戦争で亡くなった配達員四十七名の墓標と同じ大きさで、同じ形だった。

 配島は最後まで、自分だけ大きな墓を、嫌がっていた。

 ミレナはその意思を、尊重した。


 葬儀の三日後。

 ミレナは配島の遺品を、整理していた。

 ハブターミナルの北棟の小部屋には、配島の本棚があった。本棚と言っても、粗い木の板を組み合わせた、簡単なものだった。

 その上には、配達ギルドの十二年分の点呼記録簿が、年ごとに、整然と、並べられていた。

 最初の年の、最初の頁。

 配島の几帳面な字で、こう書かれていた。

「点検簿、運用三日目。御者一人、車軸の異常を発見。事故未然防止」

 最後の年の、最後の頁。

 筆跡は、わずかに震えていた。それでも、丁寧に、書かれていた。

「点呼、本日。配達員、千二百三十二名。全員、無事」

 ミレナはその最後の頁を、長く見つめた。

 それから、彼女はその記録簿を、抱え、自分の執務室に戻った。


 ミレナと配島の間には、息子が一人いた。

 名前は、ハイジマ・カルディア。

 配島が亡くなった時、息子は八歳だった。父の葬儀の朝、息子は母の隣で、ぐずらずに立っていた。彼は父の墓標に向かって深く頭を下げた。

 配達員たちは、その小さな姿に深く頷いた。

 誰もその朝、息子に何も声をかけなかった。沈黙のほうが、その子のためになると全員が知っていた。


 春の朝。

 あれから、十二年。

 王都ヴェルディン郊外の、再建されたハブターミナルの長手の通路を、一人の女性が歩いていた。

 ミレナ・カルディアだった。

 彼女の髪には白いものが混じり始めていた。腰には配達ギルド長会計責任者の銀の印璽が下げられていた。

 ミレナは自分の執務室に戻った。

 窓を、開けた。

 外の空気は、雨上がりの、澄んだ朝の空気だった。

 空には雲が、ほとんどなかった。

 彼女は机の前に座った。

 机の上に書きかけの、一通の手紙が、置かれていた。

 羊皮紙ではなく、配達ギルドが最近自前で漉き始めた、薄い紙の手紙だった。

 宛先は、書かれていなかった。

 書きようが、なかった。

 彼女がその手紙を届けたい相手は、この世界にはいなかった。


 ミレナは羽根ペンを、手に取り、続きを、書いた。


 「お母様、と、お呼びすることを、お許しください。

 私は、ミレナ・カルディアと申します。お会いしたことは、ございません。お会いする方法も、ございません。

 ただ、これから、お知らせしたいことが、ございます。

 あなたの息子さんは、こちらの世界で十二年、生きました。彼は最初、ただの旅の使用人として私たちの隊商に迎えられました。彼は毎朝目の前の人の名前を呼ぶ、奇妙な習慣を持っていました。

 その奇妙な習慣で、彼は私たちの国の物流を、変えました。

 彼は未亡人と退役兵と孤児たちに、仕事を作りました。

 彼は戦争を、止めました。

 彼は自分の前世の嫌な先輩だった、と話していた人物を最後に許しました。

 彼はたくさんの人に、看取られて、静かに、息を引き取りました。

 最期の朝、彼は私の手を、握ってこう言いました。

 『最後の一個を届け終えました。母に会えたら伝えてください。あいつの仕事は、誰でもできる仕事じゃなかったよ、と』

 お母様。

 あなたの息子さんは、立派でした。

 あなたの息子さんは、こちらの世界で、たくさんの人の名前を、覚えていました。

 あなたの息子さんが、雨の日の街道で、子どもを、救って命を、落としたあと。

 その後の十二年、彼はあなたを毎朝思い出していました。

 彼はそれを、口には、出しませんでした。

 でも、私には、分かりました。

 彼が、毎朝の点呼の最後に、いつも付け加えていた言葉。

 『無事に、お過ごしください』

 あれは、半分は、私たちへの言葉でしたが、もう半分はたぶんあなたへの言葉でした。


 お母様。

 もう一つだけ、お伝えしたいことが、ございます。

 彼との間に、息子が、生まれました。

 名前は、ハイジマ・カルディアと申します。

 今年で、二十歳になりました。配達ギルドの新人配達員として、毎朝点呼を受けています。

 息子は父の手帳を譲り受けました。古い革の、油の匂いのする手帳です。彼はその手帳に、自分の毎日の点呼の記録を書き加えています。

 息子の字は、彼の父にも母にも似ていません。彼自身の、彼自身の字です。

 お母様。

 あなたがもし、息子さんを私たちのもとに届けてくださったのなら、私たちはあなたにお返しに、息子をお届けしたい。

 届かないと、分かっていても、お伝えしたい。

 あなたの息子さんは、こちらの世界で、自分の人生を、生きました。

 そして、あなたの孫は、今その続きを、生きております」


 ミレナは羽根ペンを止めた。

 窓の外で、配達ギルドの若い配達員たちが朝の点呼を行う声が聞こえてきた。

 点呼の指導長は、ガリクの孫の世代の、若い男だった。

 点呼の声は配島が始めたあの最初の朝と、同じ言葉で続いていた。

「お名前を、伺います」

「本日のご体調は、いかがですか」

「本日も、よろしくお願いします」

 ミレナはその声を、しばらく聞いていた。

 それから、彼女は手紙の、最後の一行を、書いた。


 「お母様。

 届かない手紙だと、分かっています。

 それでも、書かせてください。

 あなたの息子さんから、私から、こちらの世界の、配達員七百三十二名から、あなたへ。

 お届けものです」


 ミレナは羽根ペンを置いた。

 手紙を丁寧に四つに折り、机の引き出しにしまった。


 引き出しの中には、もう十二通の同じような手紙が、しまわれていた。

 配島が亡くなってから、ミレナは毎年、彼の命日の朝にこうして、届かない手紙を書いていた。

 届かない、と、分かっていた。

 それでも、書いていた。

 書くことが、ミレナにとって配島の点呼に最も近い儀式だった。


 彼女は立ち上がり、窓辺に寄った。

 空は青かった。

 雨は、もう降っていなかった。

 遠くで、配達員の、若い声が聞こえた。

「ハイジマ・カルディアさん。本日のご体調は」

 ミレナはその声を、聞いて、わずかに口の端を上げた。

 彼女と、配島との間に、生まれた、息子の名前だった。

 息子は二十歳になった。配達ギルドの新しい配達員として、今朝が初めての出勤の日だった。

 息子は、答えていた。

「絶好調です」

 その応答に、配達員たちの笑い声が続いた。

 息子の声は、ミレナの耳に残った。父そっくりではない。けれど父と同じ、毎朝同じ場所に立つ覚悟が宿っていた。声の張りも目の高さも、あの最初の朝の配島と、どこか似ていた。父からは何も学ばなかったはずなのに、息子の身体は父の動きを覚えていた。

 ミレナはわずかに口の端を上げた。


 ミレナは執務室の扉を、開けた。

 ハブターミナルの長い通路を、ゆっくり歩いた。

 通路の途中で、ガリクの孫の世代の若い男――今の点呼指導長――が、ミレナに、深く頭を下げた。

「ミレナ様。本日もよろしくお願いします」

「ええ。あなたも、無事で」

「無事で」

 二人は軽く会釈を、交わした。

 ミレナはハブターミナルの中央に立った。

 仕分け台の上の、配達ギルドの紋章を見上げた。円の中にまっすぐな矢が、一本。

 その紋章は、十二年前、配島が初めて作ったものと、同じだった。

 息子のハイジマ・カルディアが、新人配達員の列の中に立っていた。

 ミレナはその姿を、長く見つめた。

 息子は父の背丈より、わずかに高かった。だが点呼に答える時の頭の傾け方が、父と同じだった。

 ミレナはわずかに頷いた。


 その日の夕方、ミレナは配島の墓標の前に立った。

 墓標は、ハブターミナルの南端の、小さな庭の中に置かれていた。

 その隣には、ノルト・カエス、マリア・コーレン、戦争で亡くなった配達員四十七名の墓標と、それから五年前に亡くなったガリクの墓標が並んでいた。

 ミレナは配島の墓標の前に膝を、ついた。

「ハイジマ」

 彼女は墓標に、呼びかけた。

「今日も、息子は、点呼に、答えました。絶好調、と」

 答えは、なかった。

「あなたが、私に、最後に伝えた言葉を、またお母様への手紙に、書きました。届かないことは、分かっています。でも、書きました」

 風が、墓標の上を、吹き抜けた。

「ハイジマ。あなたが、こちらの世界で、点呼を始めたあの最初の朝。あれはたぶんあなたが、自分自身を、呼んだ朝だったのね」

 ミレナはそっと、立ち上がった。

 彼女は墓標に向かって頭を下げた。

「無事で、お過ごしください」


 届かない手紙の、届かない宛先に向かってもう一度心の中で呟いた。

「お届けものです」


 ミレナが墓標の前から立ち上がった時、夕陽が、ハブターミナルの屋根に、最後の光を、投げかけていた。

 彼女は墓標群に、もう一度頭を下げ、ゆっくりとその場を、離れた。

 遠くで、息子が、誰かと、話していた。

「ハイジマさん、明日の配達経路、確認させてください」

 息子の若い声に、別の若い配達員が、答えていた。

「了解です。ハイジマ・カルディアさん、本日もお疲れさまでした」

 ミレナは息子の名前が、彼の父の名と、同じく「ハイジマ」と呼ばれているのを、聞いた。

 配達ギルドの中では、彼はもうハイジマ、だった。

 父の名は、息子の身体の中で続いていた。

 息子の身体の中で配達員の朝の点呼が、続いていた。

 配島透が、こちらの世界で始めたものは、止まらない。


 ミレナはハブターミナルの長手の通路の途中で、もう一度立ち止まった。

 通路の左右の壁には、配達ギルドの十二年分の歴史が、簡素な羊皮紙で、貼り出されていた。

 最初の年の、最初の月の、点呼の人数。

 最後の年の、最後の月の、点呼の人数。

 名前の数だけ、配島が、見た。

 配島が、続けた。

 配島が、いた。

 ミレナはその壁に、軽く手のひらを当てた。

 手のひらの下で、壁は、ひんやりと、冷たかった。

 しかし、彼女の手のひらの中には、温かい何かが、まだ残っていた。

 それは、彼女が、十二年前に握った、配島の最後の手の温度だった。


 外の空気は、まだ雨上がりの、澄んだ朝の、続きだった。

 空の高いところを、白い鳥が、一羽、横切っていった。

 地球の鳥に似た、しかし、地球には、いない種類の鳥だった。

 その鳥が、東の方角へ、飛んでいった。

 東の、海の、向こうの方へ。

 ミレナはその鳥を見送った。

 そして、もう一度口の中で呟いた。

「お届けものです」

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