第二章 商隊の流儀
翌朝、配島は鶏の声で目を覚ました。
地球の鶏とは少し違う、低い唸るような鳴き声だった。だが空が白み始めるのを告げる役割は同じらしかった。
配島は寝台から下り、藁の床に膝をつき、それから立ち上がった。寝間着代わりの粗い麻のシャツを軽く整え、向かいの寝台へ歩いた。
ガリクはまだ目を閉じていた。
「ガリクさん」
配島は声を控えめにかけた。それから、もう一度、はっきりと。
「ガリクさん。点呼の時間です」
ガリクは目を開けた。
「もう来たか」
「はい」
ガリクは身体を起こした。配島は彼の前に立ち、目を覗き込んだ。
「お名前を伺います」
「ガリク」
「ガリクさん。昨日と比べて、体調はいかがですか」
「腰は、昨日より少しいい。雨が来ない朝はそうだ」
「血色、十分。声の張りも問題なし。本日のお仕事、ご無事で」
ガリクは小さく頷いた。
「お前さんも頼む」
「はい」
配島は深く頭を下げた。
わずか二分の儀式だった。だが終わった時、配島の身体の中の何かが、ようやく目を覚ましたようだった。
彼は今、異世界にいる。
しかし、いつも通り、点呼は終わった。
それで十分だった。
その日、配島はホレス商隊の正式な使用人として登録された。
帳簿を担当しているのは、ボルの妻のスーラという女性だった。腕の太い、よく日焼けした女で、声はガリクよりも低かった。配島の名前を「ハイジマ」と聞き取れず、「ハイ」と書こうとして、ガリクが横から「ハイジマ・トオルだ。ちゃんと書け」と訂正した。
給金台帳には、銀貨二枚、と書かれた。
午後、配島はボルに連れられて荷馬車の整備場に行った。
整備場と言っても、屋根のついた粗い小屋があるだけで、御者と職人が四、五人、車軸の手入れをしていた。鉄輪の縁に油を塗り直していた。
ボルは配島に紹介して回った。
「ハイジマ。お前を、運用係として使う」
「うんよう、係」
「荷の積み方、降ろし方、街道の通り方を取り決める係だ。我が隊商では、これまで御者頭のガリクが見ていた。今後はお前も一緒にやれ」
配島は緊張した。
「あの、自分はまだこの世界の地理も街道も知りません」
「だから、今日から学べ」
ボルはあっさりと言った。
「お前の頭の中には、俺たちが知らない手順が入っている。それを、こちらの土地の事情と組み合わせれば、隊商の動きはかなり変わるはずだ。学んでくれ」
学んでくれ、と隊商の長から言われたことを、配島は信じられない気持ちで反芻した。
日本の会社では、八年勤めても、誰も配島に「学んでくれ」とは言わなかった。「もっと働け」「もっと早く動け」「お前の代わりはいくらでもいる」――そういう言葉ばかりだった。
配島は深く頷いた。「はい」と答えるのが精一杯だった。
ホレス商隊は、ヴェルディン王都とその周辺四つの街を結ぶ中規模の輸送業者だった。荷馬車は十二台。御者は十七人。護衛は五人。そして雇われ職人と賄い役と帳簿係を合わせ、総勢三十名ほど。
扱う品は、毛織物と皮革製品、そして塩漬けの肉と発酵させた乳製品が主だった。北の村で仕入れたものを王都の市場に卸し、王都の工房で買い付けた金物や陶器を北の村へ持ち帰る。同じ街道を二週間かけて往復する。
配島は最初の三日を、ガリクの隣に座って過ごした。
御者台に並んで座り、街道の起伏や、宿場ごとの停留時間、馬の交代の手順を覚えた。ガリクは寡黙だったが、配島が質問すれば必ず答えた。
四日目、配島は提案を始めた。
最初の提案は、馬車隊の出発前点検の標準化だった。
配島はガリクから前世で言うところの「日常点検簿」に近い羊皮紙の見本を譲り受け、そこに七つの確認項目を書き出した。車輪の固定、車軸の油、ブレーキ縄の張り、馬具の摩耗、荷の縛り、御者の体調、当日の天候。それぞれを出発前に御者自身に口頭で確認させ、ガリクが受け取って印を押す。
「これを毎朝やるのか」
ガリクは羊皮紙を覗き込んで言った。
「七つだけです。四分か五分で終わります」
「面倒くさがる御者が出る」
「最初の数日、たぶん出ます。でも、車輪の留め金が外れて荷が転倒する事故が、月に一回起きてるって、ガリクさんが言ってたじゃないですか」
「言ったな」
「四分の点検で、月一回の事故が、もし防げたら」
ガリクは鼻から息を抜いた。それから配島の肩を二度叩いた。
「分かった。お前が説明しろ。俺が後ろから睨んでやる」
配島は頷いた。
その日の夕方、十七人の御者と五人の護衛と、十名の雇われ作業員を前に、配島は人生で初めて講習らしきものを行った。
声は震えた。最初の一文目で、舌を噛んだ。
しかし、二文目から、彼の口は勝手に動き始めた。それは前世の点呼の場で、彼が何百回も聞いてきた、運行管理者の発する言葉のリズムだった。
配島は、自分が誰かに教わってきたものを、初めて誰かに伝えていた。
講習が終わった時、御者の一人が手を挙げた。三十前後の、痩せた男だった。
「お前さん、その『点検簿』ってやつ、お前さんの故郷では当たり前のことなのか」
配島は迷った。
迷ったうえで、「はい」と答えた。
「俺の故郷では、これをやらないと、仕事をさせてもらえません」
御者たちは顔を見合わせた。
別の御者が言った。
「いい故郷だな」
配島はその言葉を、しばらく頭の中で繰り返した。
いい故郷。
配島の知る限り、いい、と言えるかどうかは怪しい場所だった。
だが、点検簿の話だけを取り出せば、そう、いい場所、なのかもしれなかった。
翌週、配島はもう一人の人物に会うことになる。
その日、王都ヴェルディンへの定期便が出発する朝のことだった。
ホレス商隊の整備場の前に、見慣れない一台の二頭立ての馬車が停まっていた。馬車の側面には金細工の紋章が彫られている。盾の中に、咲きかけの薔薇の蕾。配島は知らない紋章だった。
ガリクが横で低く呟いた。
「カルディア家の紋だ」
「カルディア」
「南の領地を治めていた小貴族だ。ここ三年で領地を失った。今は、王都に身を寄せていると聞いていたが」
馬車の扉が開いた。
降りてきたのは若い女性だった。十八か十九。亜麻色の髪を首の後ろで一つに結び、灰色の旅装をまとっている。顔立ちは整っていたが、化粧はしていない。腰には、貴族の娘らしくない実用的な革鞄を提げていた。
彼女はホレス商隊の事務小屋の前まで歩き、ボルに向かって短く一礼した。
「ホレス殿。先日の文の件で参りました。臨時で会計を引き受ける、という話を、お受けします」
「ミレナ嬢。よく来てくださった」
ボルは深く頭を下げた。配島はその様子を、後ろから見ていた。
貴族と商人の関係は、配島の知る世界とは違うらしかった。だが少なくとも、ボルの態度は、対等以上のものではなかった。
ミレナと呼ばれたその娘は、視線をぐるりと巡らせた。
彼女の目が、配島の方で止まった。
配島は反射的に頭を下げた。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
彼女は短く答え、そして、もう一秒ほど、配島を見つめた。
その視線は、配島が初対面の相手から受けたことのない種類の視線だった。値踏みではなかった。観察、と言うのが近い。何かを記録しようとする、書庫司書のような目だった。
彼女はそれからボルに向き直り、事務小屋へ入った。
配島は荷馬車の方へ戻った。胸の真ん中が、かすかに、騒いでいた。
その日の夕方、配島は事務小屋の前を通りかかった。
ミレナは小屋の中で、配島が三日前に作った「点検簿」の束を、机の上に広げていた。彼女の手元には別の羊皮紙があり、点検簿の項目を、何やら別の様式に書き写しているようだった。
配島は声をかけそびれた。
「あなたが、これを作った人ね」
ミレナは顔を上げずに、そう言った。
配島は反射的に答えた。
「あ、はい。失礼します、覗き見るつもりは」
「いいの。入って」
配島は事務小屋に足を踏み入れた。
ミレナは羊皮紙を整えながら言った。
「点検簿を、項目順に分けて、月ごとに集計したいと思っているの。御者ごとに、異常の発生頻度が出るように。あなたの故郷では、これは、どうやって集計しているの」
「えっと、その、項目ごとに集計表を作って、御者の名前を縦軸、項目を横軸にして、毎月の異常を数で記録します」
ミレナは羽根ペンを止めた。
「縦軸と、横軸」
「はい」
「軸という言葉は、貴族の幾何学の本にしか出ない。あなた、どこの学院を出たの」
配島は手を後ろに組んだ。
「学院は、出ていません」
「では、どこで学んだの」
「仕事の中で、自然に」
ミレナは羽根ペンを置いた。彼女は配島の顔を、もう一度、まっすぐ見た。
「ハイジマ・トオル」
「はい」
「あなたの故郷では、あなたみたいな人が、たくさんいるの」
配島は唇を引き結んだ。
「……分かりません」
答えてから、彼は付け足した。
「自分は、自分の仕事を、ずっと、誰でもできる仕事だと思っていました」
「誰でもできる」
ミレナはその言葉を、ゆっくりと舌に乗せた。
「『ただの』とつけたい言葉ね。『ただの仕事』『ただのドライバー』『ただの私』」
配島は息を呑んだ。
「私の家は、三年前に領地を失ったの。父はその冬に体を壊して、私はそれから、自分のことを『ただの娘』だと思って生きてきた。『ただの』をつけると、楽なのよ。期待されないし、自分にも期待しなくていい」
「……」
「でもね、ハイジマ」
ミレナは羽根ペンを再び持ち、点検簿の余白に、何かを書き始めた。
「『ただの』を主語にする人は、自分のことを見ていない人なのよ」
配島は答えなかった。
答えるべき言葉を、彼はまだ持っていなかった。
ミレナは書き終えた羽根ペンの先を、布で拭いた。
「私はあなたの故郷を知らない。でも、あなたの故郷の人たちが、あなたの仕事を『誰でもできる』と言ったのなら、その人たちは、あなたを見ていなかっただけよ」
配島は事務小屋を出た。
外は夕闇が降り始めていた。隊商の宿の方から、誰かが歌う声がした。下手な歌だった。
配島はその下手な歌を、少しだけ立ち止まって聴いた。
胸の中で、何かが、確かに動いた気がした。
歌は、御者の一人が歌っているらしかった。
配島は宿の方へゆっくり歩いた。広場の中央で御者たちが、車輪のかたわらに座り、葡萄酒の革袋を回し飲みしていた。火の脇では、別の若い御者が笛のような楽器を吹いていた。
配島は、その輪の少し外側に、立った。
ガリクが、配島の方を、振り向いた。
「お前さん、こっち来い」
「いえ、自分は」
「来い」
ガリクは、配島の腕を、引いた。
配島は、火の脇に、座らされた。
革袋が、配島の前に、回ってきた。
配島は、首を、振った。
「自分、お酒は、飲まないんです」
「なぜ」
「明日の朝、点呼に、酒の匂いを、残したくないので」
御者たちが、一瞬、黙った。
それから、誰かが、笑った。
悪意のない、温かい笑いだった。
「お前さん、本気で、点呼を、やる気だな」
「はい」
「分かった。じゃあ、お前は、これだ」
ガリクが、別の革袋を、配島に、渡した。
中身は、果実水だった。少し、酸っぱい、林檎に似た、果実の汁だった。
配島は、それを、一口、飲んだ。
御者たちが、口々に、自分の話を、始めた。
誰の馬が、どの坂を、苦手にしているか。
誰の妻が、どの市場の店を、贔屓にしているか。
どの宿屋の、どの女将が、料理が、上手いか。
配島は、その話を、ただ、聞いていた。
彼は、その夜、初めて、自分が、誰かの輪の「中」に、座っていると、感じた。
日本の会社では配島はいつも輪の「外」にいた。会社の宴会で彼はいつも、入口に近い席に座った。誰かが酔って店の外に出る時、その人が転ばないように近くにいるためだった。
ここでは、誰も、彼に、その役を、求めていなかった。
彼は、ただ、火の脇に、座っていた。
それだけで、よかった。
その夜、配島は眠る前に、ガリクの手帳の脇に、自分の手帳代わりの羊皮紙を置いた。
最初の一行を、書いた。
「点検簿、運用三日目。御者一人、車軸の異常を発見。事故未然防止」
短い一行だった。
だが配島の人生で、自分の仕事の成果を、自分で記録するのは、初めてだった。
彼はその羊皮紙を畳み、枕の下に入れた。
灯りを消した。
外で虫の声が続いていた。
明日の朝も、ガリクに点呼をする。それから御者全員にも。点検簿を回す。馬車の隊列を確認する。王都までの定期便を出発させる。
全部、自分の仕事だった。
誰でもできる仕事ではなかった。




